平凡社 世界大百科事典

唐詩

中国,唐代(618-907)に作られた詩の総称。ただし次の五代(907-959)の作品をも含めることがある。清の初め(1707)に刊行された《全唐詩》900巻は唐詩の全集で,作者の総数は2873人,作品4万9403首を収める(平岡武夫の調査による)が,その中には五代まで生存していた詩人を含むのである。唐詩の文学史上の意義を論ずるとき,まず注目されるのは,中国古典詩の諸形式がこの時代に完成したことである。その経路は〈中国文学〉の項で述べたが,以下おのおのの時期につき,その特色と後世(および日本)への影響を記す。

 初唐(約618-709)の詩人はほとんどみな官人であった。したがって彼らの詩は宮廷で即席に作られた〈応制〉の類が多い。きらびやかな文字をつらねて成るのは当然であろう。つまりこの時期の主流は宮廷詩であった。そしてそれらは複数の詩人たちの競争であったから,彼らを制約する種々の規則が設けられ,詩の定型化を促進した。王勃(おうぼつ),盧照隣(ろしようりん)ら〈四傑〉を始め,有名な詩人はみな律詩を得意とした。日本の王朝時代の漢詩には,この初唐の律詩の影響が強い。それは《懐風藻》(751年序)などにあらわれている。収められた詩の大半が〈応詔〉の作であって,制作の条件も同じであった。李嶠(りきよう)(644-713)の《雑詠》のごとき〈詠物〉の律詩の集が熟読されたことも,初唐の詩の影響の大きさを示すものであり,《凌雲集》以下の諸詩集に見える古体詩が盛唐以後の古体詩とスタイルを異にするのは,やはり初唐詩家の作を学んだものと思われる。

 盛唐(710ころ-765)の詩の名家は多いが,王維,李白,杜甫を例としよう。3人はそれぞれ異なった思想の持主で,王は仏教,李は道教の信徒であり,儒学の信念を守ったのは杜甫だけであった。したがって詩の風格もみな異なる。日本の王朝時代の詩人が王維と李白の集を見たことは確かで,藤原佐世(?-898)の《日本国見在(げんざい)書目録》に《王維集》と《李白歌行集》とは載っていて,杜甫の集の名はない。それだけで王朝の詩人たちが杜甫の詩の知識を全く欠いていたとは言えないけれども,彼の知名度は王維,李白よりずっと低かった。そのことは本国の状況に平行する。杜甫が李白とならんで尊ばれるのは中唐に入ってからであり,杜甫一人が最高位におかれるのは北宋(12世紀)以後であった。日本の禅林の僧侶のあいだで杜詩の研究が盛んになるのは鎌倉(13世紀)以後である。やはり中国における評価の高まりに刺激を受けたのであろう。

 中唐(766-835)の代表的詩人としては韓愈と白居易(846没)をあげねばなるまい。律詩もよくしたが,古体詩に最も特色がある。韓愈の古詩は〈険怪〉〈詰屈(きつくつ)〉と形容されるごつごつしたところがあるが,白居易の詩は平易明快である。彼の名作《長恨歌》を始めとする多くの作品は,当時の中国においてきわめて多くの読者を有したが,その流行は彼の生前すでに日本に達し,やはり最も多くの読者を獲得した。それはわかりやすいことが第一の理由に違いないが,長編の古詩では小説的構想が人を楽しませ,また彼の表現する季節の感覚や人生の無常へのなげきが,読者の共感を呼んだのであろう。韓愈の詩の評価が後になるほど高くなることは杜甫にやや似るが,日本ではいっそう遅れる。彼のグループの若き鬼才李賀は異常な感覚をもって新しい美の世界をひらいたが,その認識と鑑賞はさらに遅れ,江戸時代の末に詩集が翻刻されて初めて全貌が知られるようになる。

 晩唐(836ころ-907)の傑出した詩人は杜牧と李商隠で,杜牧は軽快な筆致の詩を作ったが,李商隠の恋愛を主題とし象徴的手法を用いた七言律詩は,李賀とも異なった美の世界を立てた。李詩の愛好者は中国では明以後に多く,近代にますます多くなるのだが,日本ではさらに遅れ,明治になって初めて研究と紹介がなされる。同じ艶体の詩でも李より後輩の韓偓(かんあく)の《香奩(こうれん)集》のほうが江戸の末に相当な数の読者を有していた。

 唐詩の選集について言えば,日本で最も広く読まれたのは宋の周弼(しゆうひつ)の《三体詩》と明の李攀竜(りはんりゆう)の《唐詩選》で,中・晩唐の詩は前者により,初唐と盛唐の詩は後者によって知られた(前者の翻刻の初版は1654年で,後者は少し遅れる)。前者は今体詩だけを収め唐詩の繊細優艶の面が強調されたことになる。後者は古体詩をも収めるが,その選択がやや偏っていることに注意を要する。→宋詩

小川 環樹