平凡社 世界大百科事典

大粛清

1930年代後半のソ連邦においてスターリンが行ったソ連邦共産党幹部や軍人,知識人,大衆に対するテロルを指し,主として〈西側〉の諸国で用いられる呼称。粛清とは元来プロレタリアの前衛党の党員としてふさわしくない人物を党から除名することを意味するもので,テロルとは無関係な概念であった。

 1917年の革命後21年までに共産党以外の党派が消滅し,30年ごろまでに分派の禁止措置により党内反対派やグループが禁じられ,スターリンの支配が形成された。農業危機が深刻化する32-33年になると,リューチンM.N.LyutinらのグループやスミルノフAleksandr P.Smirnov(1877-1938),トルマチョフG.G.Tolmachyovらの事件を最後に党内反対グループも消えた。

 34年の〈勝利者の大会〉と呼ばれた第17回党大会においては,表面的にはスターリンへの信従がのべられ,党主流,特にスターリンによる治安警察を介したテロル支配への障害が取り除かれた。しかし,スターリンに次ぐ有力な指導者キーロフが34年12月に謀殺されると(トハチェフスキー,ヤキールIona E.Yakir(1896-1937)ら軍人もドイツのスパイとして処刑された。

 これら一連の裁判による旧反対派指導者への見世物裁判とならんで,スターリンに忠実な党員もテロル支配の犠牲となった。その中には,ポスティシェフPavel P.Postyshev(1887-1939),コシオールStanislav V.Kosior(1889-1939),ルズタークYan E.Rudzutak(1887-1938)らのように,20年代の反対派批判や集団化においてスターリンに忠実であった党幹部や,バレイキスIosif M.Vareikis(1894-1939),シェボルダエフBoris P.Sheboldaev(1895-1937)ら地方党組織の有力幹部が含まれており,第17回党大会の139人の中央委員・同候補中98人が37-38年に銃殺されたと,フルシチョフは第20回党大会(1956)で暴露している。さらには〈人民の敵〉とされた者の家族も収容所送りとなった。また単にソ連邦内だけでなく,国崎定洞や山本懸蔵(1895-1942。1956年名誉回復)ら日本人を含めて多くの外国人共産主義者,コミンテルンの指導者も粛清された。これらテロルの犠牲者は旧エリート幹部からコルホーズ農民までを含めて37-38年だけで数百万の数になるといわれる。

 38年末には粛清の行過ぎを正すとして,エジョフが解任,逮捕され,スハノフ,コンドラチエフら非党員の復権も始まった。ロシア連邦の時代になっても,この活動は続いている。

下斗米 伸夫