平凡社 世界大百科事典

大逆事件

幸徳事件ともいう。明治天皇暗殺を計画したとの容疑で多数の社会主義者,無政府主義者が逮捕・処刑された事件。事件は,1910年5月宮下太吉ら4人が爆発物取締罰則違反で検挙されたのがきっかけで,その後,検挙者は全国各地で数百名にものぼった。うち26名が刑法73条の桜田門事件)のうち最初のもので,大半の被告は天皇,皇太子の暗殺計画とは無関係で,近代日本の裁判史上最大の〈暗黒裁判〉であった。この弾圧の威力は大きく,社会主義運動はもとより労働運動などもしばらくは〈冬の時代〉に入ることを強いられた。事件の反響は大きく,日本の文学者,石川啄木,徳冨蘆花,森鷗外,永井荷風らが当時の作品あるいは日記などで政府に対する批判姿勢を表現しており,国内だけでなく全世界に衝撃を与え,アメリカ,イギリス,フランスなどで抗議運動が起こり,社会主義者たちが日本政府に対し抗議・質問を浴びせた。

 無期懲役となった12名のうち5名は獄死,1929年以降7名が仮出獄したが,敗戦時までに成石勘三郎,武田九平が死去(小松丑治は1945年10月に死去),47年2月24日に坂本と岡林寅松,48年6月26日に崎久保誓一,飛松与次郎が刑の失効の特赦をうけた。しかし55年までに坂本以外はすべて死去した。判決は当時国内の一部の新聞に報道されたにすぎず,内容の検討・批判は許されず,事件の真相究明が本格的に始まったのは戦後になってからである。

 判決によると,1908年6月の赤旗事件で社会主義者が弾圧されたのち,その報復のため幸徳は大石誠之助,森近運平,のちに松尾卯一太も加えて〈諸方衙を焼毀し,当路の顕官を殺し,且つ宮城に迫りて大逆罪を犯す〉との陰謀を企てた。また別に幸徳,管野は,宮下,新村忠雄,古河力作が09年2月以来爆弾を試作し,大逆の計画をもっているのを知り,〈爆裂弾を以て大逆罪を犯し革命の端を発せん〉ことを協議した。さらに内山愚童は09年1月に幸徳,管野を訪ね〈皇太子殿下を指斥し,弑逆を行ふべき旨〉と〈爆裂弾あれば身命を抛て革命運動に従事すべき意思〉を告げ,準備をすすめた。この三つの謀議をまとめて,ひとつの大逆事件が形成されたとしたのである。しかし,実際に計画をすすめたのは宮下,新村,古河,管野の4人とみられ,被告の大部分は,単に彼らと顔見知りであるというだけで事件と関連づけられた。幸徳の場合は〈事件に関係ないわけがない〉というまったく官憲の推量だけで検挙され,証拠はきわめて薄弱であった。坂本にいたっては幸徳方に書生として同居していたことが根拠となっている。

 判決から50年目,唯一人の生存者坂本と森近の実妹栄子は,第2次大戦直後から生存者と連絡をとりあっていた森長英三郎弁護士らを代理人として大逆事件再審請求の申立てを東京高裁に提出した。以来再審手続にもとづく公開裁判を通じて,その真相は全国民の前に提示された。1960年2月には〈大逆事件の真実をあきらかにする会〉も結成されている。新たな真相究明の努力もすすみ,弁護側の証拠資料は108点の多きを数えた。そこでは,元老山県有朋をはじめ明治政府の裁判への関与,〈奔馬の如き裁判〉(大逆事件弁護人今村力三郎の言),拷問による聴取書と事件のでっちあげ過程等事件と裁判の実態が明らかにされた。また宮下,管野,新村,古河のいわゆる〈明科(あかしな)事件〉の謀議はかろうじて推定しうるとしても幸徳の関係は疑わしいこと,しかし爆発物取締罰則違反の2名を加えた計7名を除く19名は少なくとも冤罪(えんざい)であるという慎重な主張もおこなわれた。〈明科事件〉を唯一の口実として,全国にわたる大規模な事件をでっちあげたことが明白にされたのである。

 しかし1965年12月,長谷川成二裁判長は他の裁判官との合議の有無に疑問を残したまま請求を棄却した。ただちに特別抗告の手続がおこなわれたが,最高裁は67年7月大法廷横田正俊裁判長以下14名の裁判官の連署をもって,この特別抗告の請求を棄却した。ここに,裁判の場で大逆事件の真相を究明することはいちおう終止符が打たれたが,歴史家や〈大逆事件の真実をあきらかにする会〉等によって運動は続けられている。

橋本 哲哉
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