平凡社 世界大百科事典

蘇州

中国の江蘇省南東部,上海の西約80kmにある市。省直轄市であり,近郊にある呉県の県政府所在地。人口134万(2000),都市人口69万(1994)。古い歴史をもち文化財,景勝の地に富む江南第一の観光都市。特に滄浪亭,獅子林,拙政園,留園等の園林は著名である。また虎丘,霊巌山,宝帯橋等の名勝,寒山寺,報恩寺,玄妙観等の寺廟も重要な観光地である。これらの文化遺跡やすぐれた工芸品の産出地として,日本においても古くからよく知られている。

江南の中心

長江(揚子江)デルタの後背湿地にあり,西は太湖に面し,他の三方は多くの湖沼をもつ低湿地で,大小の水路が縦横に走る水郷景観を呈する。豊富な水利と温暖な気候は,稲作に好適で,新石器時代から平野中に点在する丘陵や微高地によって,集落の形成がかなりすすめられていた。北方の中原文化の影響も早く伝わり,太湖周辺の小台地から発見される湖熟文化には,明らかに殷文化の影響がみられる。殷の末年,周の太王の子,泰伯・仲雍がこの地に亡命して〈句呉〉の国をたてたという伝承も,この関係の一端を示すものであろう。呉国の中心は当初梅里(現,無錫(むしやく))にあったが,やがてよりデルタの先端近くに移され,春秋時代,呉王闔閭(こうりよ)のとき,伍子胥(ごししよ)の助力を得て,国土の整備をすすめ,周囲47里といわれる大きな都城を建設した。これが今の蘇州の基礎となる。ここは長江デルタ全体を統轄し,かつ北方の斉,西方の楚,南方の越に対して等しく水陸両道が通じており,勢力を拡張するのに最もよい位置であった。闔閭より次の夫差にかけて,呉は越を臣服させ,北上して斉を攻撃するなど,江南の覇者として活躍するのも,この位置を占めたためであろう。

 秦の統一がなると,江南は会稽郡の地とされ,郡治は呉に置かれた。秦末に反乱を起こした項梁,項羽は,この中原から離れた辺地でまず烽火をあげたが,以後も北方の中央に対して基本的に反抗する性格を有しつづける。前漢には会稽郡の西部は丹陽郡となり,さらに後漢になると浙江以東を会稽郡,以西を呉郡として,呉は長江下流域の太湖周辺,江南で最も肥沃な土地の中心としての地位を確立した。三国・南北朝時代には,江南全域では,やや内陸にあって地勢的にすぐれた要衝を占める建業(建康,のちの南京)が中心となり,呉はそれに及ばなかったが,隋代,これまでにも部分的に開かれてきた運河が,全面的に修築整備され,南北を結んで全通すると,江南の中心は運河に沿う蘇州,あるいは潤州(鎮江)や揚州へ移った。呉郡の名も,姑蘇山にちなんで蘇州に改められた。唐代には疆域の変遷がしばしばあったが,江南東道,浙江西道節度使などの治所として,蘇州は最も安定した中心都市であり続けた。城郭内も含め,呉県の東部を析して長洲県が置かれたのも,都市内の充実がすすんだことを示している。

 五代には呉越国の北部における中心として,中呉府,のちに中呉軍節度が置かれ,比較的安定した状況の下で水利の整備,城郭の拡張がおこなわれた。園林の造築もこのころから始まる。宋代には平江軍と改められ,北宋末,府に昇格した。このあとすぐに金の侵入を受けるが,南宋には再興し,国都杭州と並んで繁栄する。蘇州はすでに政治的中心力を持たなくても十分に繁栄できる基礎的経済力を最も堅固に身につけた都市に成長していた。元末,張士誠がよるに至ったのも,この基盤があったからである。朱元璋が明を建てて江南を平定すると,平江府は蘇州府に改められ南京に直隷した。しかし宋・元代に杭州に対したと同じく,明・清代にも南京をしのいで,経済文化上の中心性を保持したが,太平天国の乱に至り,江南の中心としての地位を上海に譲った。

産業と文化の都市

蘇州周辺における水利整備は,春秋時代にはじまるとされるが,大規模な開発は南北朝時代にはじまり,江南運河が開かれ全国の穀倉地帯として江南が位置づけられた隋・唐以降は,水利開発は国家の重要事業となった。唐代には常熟塘,元和塘などの灌漑・通運を兼ねた水路が開かれたことが知られ,これより五代にかけて現在みられるような水郷景観が,ほぼ形成されたと考えられる。また水稲ばかりでなく,北方の桑園が破壊されたことで,江南でも桑の栽培がすすめられ養蚕が急速に広まった。生産される絹糸絹布は,国内ばかりか運河によって来航する外国の商人のあがなうところとなり,蘇州の経済力は飛躍的に高まった。これとともに唐代には韋応物,白居易,劉禹錫,皮日休等が相次いで行政官として駐在し,文化水準を高めた。のちの滄浪亭をはじめとする園林,寺院の建築もすすみ,都市文化が形成されはじめたといえよう。〈上に天堂(天国)有り,下に蘇杭(蘇州と杭州)有り〉といわれはじめたのもこのころである。

 宋代における都市の充実ぶりは,南宋の紹定2年(1229)刻とされる《平江図》によってうかがえる。城内には縦横に水路と道路が走り,そこにかかる橋梁は350余を数え,市民の居住する坊巷の間には,多くの官署や寺廟が建ち並ぶほか,商店街,手工業者の同業者町が形成され,飲食,技芸など消費生活も発達していた。元初にここを訪れたマルコ・ポーロも,同様の記述を残している。このころからワタの栽培もはじまり,全国的に需要が拡大してゆくなかで,新しい有力な産業となった。さらに明代にはこれら繊維製品の染色加工業がおこり,これらの産業に従事する都市人口は,周辺の農村,他郷からの流入で増加する一方であった。同時にこれらの商品を取り扱う商人も,安徽・浙江等から集まり,商業・金融業が著しく発達し,巨万の富を蓄える豪商が軒をつらねた。明の万暦年間(1573-1619)ごろはその頂点といわれ,蘇州一府の租税納入額は,浙江一省に匹敵し,全国の1/10を占めた。

 このような経済力は,また蘇州文化ともいうべき著しい特色をもった文化を発達させた。元末の張士誠は,異民族支配に抗して漢民族の伝統文化を保持するため,天下の文化人を蘇州に招いていた。それは朱元璋の恐れるところとなり,明初には強い弾圧を受けたが,北方の官僚主義に対する反感と軽侮を基調とする気風は維持された。〈呉中四才子〉と呼ばれる祝允明・唐寅・文徴明・徐禎卿を中心とし,文学や絵画はもちろん,生活態度を通じて,このような気風は一つの近世的都市文化をつくりあげた。これが政治的にも意味をもつ一つの運動となったのが,明末の復社である。しかしこれはそれに先行する東林党とは性格を異にし,あくまでも文化運動として始められたものであった。ここに蘇州文化の斬新さと,中国社会における限界があろう。

蘇州より上海へ

明末・清初の混乱期を終えると,再び商工業は盛んになったが,乾隆(1736-95)中期より絹布の輸出が停滞し,綿布も広東に新しく生産地が生まれ,蘇州の経済は深刻な打撃を受けた。また1823年(道光3)の大洪水は,以後の農業不振をもたらし,都市全体が不景気の不安に沈んだ。これは文化の退廃をもたらし,さらに太平天国の乱が江南に及び,南京が陥落すると,蘇州の資本は大部分が新興の都市上海へ保護を求めて移動してしまった。1896年(光緒22),日清戦争後の下関条約で日本は蘇州を開市せしめ,租界を設けたが,往年の活気の失われた都市では特に繁栄もみられなかった。過去の文化遺産をみるだけで,常に新しいものを吸収し,生みだしてゆく文化力は,上海に移って再生した。解放後,蘇州でも工業化がはかられているが,軽工業部門と伝統的手工芸を主とする体質に大きな変化はなく,大運河を経済の動脈として再利用しようという計画もすすんでいない。工業中心は上海に移ったのはもちろん,西隣の無錫が近代になって発達し,蘇州はいずれの面でもたち遅れたことは否めない。しかし伝統的文化を保持した美しい水の都として貴重な存在である。同じ水の都,イタリアのベネチアとは友好都市になっている。

秋山 元秀