平凡社 世界大百科事典

孫文

中国の革命家,政治家。中国国民党の創設者,指導者。中華民国の創始者として国父と称された。字は逸仙,号は中山(欧米ではしばしばSun Yat-senと呼ぶ)。広東省香山県(現,中山県)翠亨村の貧しい農家に生まれ,12歳のとき出稼ぎで成功したハワイの長兄のもとに行き,教会学校で西欧の近代教育をうけた。16歳のとき帰国,香港で洗礼を受け,広州の博済医院の付属医学校で医学を学んだ。この学校で反満秘密結社三合会の首領鄭士良(1863-1901)と知り合った。後の革命活動において鄭士良は孫文をよく助け,会党工作の責を果たした。1887年香港の西医書院に在学中,陳少白らのいわゆる〈四大寇〉と交わった。時あたかも清朝はベトナムの宗主権をめぐるフランスとの戦いに敗れ社会変動の波が押し寄せつつあった。こうしたなかで孫文は憂国救国の思いにかられ,ついに革命を決意した。92年澳門(マカオ),広州で開業したが,やがて医業を離れて革命運動に専念し,94年ハワイで革命秘密結社三民主義の構想を練った。97年日本にもどり宮崎滔天,犬養毅らを知り,東京,横浜に居住した。99年犬養,宮崎,平山周,内田良平らとフィリピン独立運動を援助したが失敗。1900年厦門(アモイ)出兵をねらう日本軍部からの武器援助の密約に期待して恵州蜂起を企て,失敗を重ねた。武装蜂起を最重要視した当時の孫文の革命路線の典型的な例であった。

 このころ,衰退をつづける清朝の新政を求める立憲改良派と革命派は中国の将来をめぐって論戦を交えていたが,05年東京で革命3派(興中会,華興会,光復会)は合同して国共合作に踏み切った。23年コミンテルン派遣のM.M.ボロジンを国民党の最高顧問に任命し,国民党改組宣言を発表して反軍閥・反帝国主義を国民党として初めて公然と掲げるにいたった。

 24年1月中国国民党第1回全国代表大会は連ソ,容共,農工援助の三大政策を決定し,軍閥の背後に帝国主義列強が存在して中国の内乱を作り出しているとして,反帝国主義・反軍閥を明確に表明した。1月から8月まで三民主義講演を行い,三民主義の目標は滅亡に瀕している中国を救うための〈救国主義〉であると強調。4月《国民政府建国大綱》を発表して三民主義と五権憲法(立法,司法,行政,監察または弾劾,考試)に基づいて中華民国を建設すること,建設の順序は(中国同盟会時期の《革命方略》を発展させて)軍政時期,訓政時期,憲政時期の3段階とすることを定めた。11月日本を訪問し,神戸で〈大アジア主義〉の題で講演し,欧米の覇道と東洋の王道を対置し,ソビエトを王道国家とし,アジアの被圧迫民族を解放するため日本が覇道を捨てて王道に帰り不平等条約を廃棄するよう求めた。25年3月北京の病床にあって国民党への遺嘱をつづり,〈世界でわれわれを平等に待遇する民族と連合し,共同して奮闘す〉べきこと,〈革命はなおまだ成功していない〉ので建国方略,建国大綱,三民主義,国民党第1回全国代表大会宣言に基づいて努力を続け,国民会議開催と不平等条約廃棄を最短期間に実現すべきことを訴えた。遺骸は北京から南京郊外の紫金山の中山陵に移され葬られた。

藤井 昇三