平凡社 世界大百科事典

ソンコイ[川]

ベトナム北部の川。紅河,ホンハ川Song Hong Haとも呼ばれる。中国の雲南省に発して南東方向に流下し,ベトナムの首都ハノイの直上で分流を発してソンコイ・デルタ(トンキン・デルタ)を形成し,トンキン湾に注ぐ。全長約1200km。流域面積約12万km2。デルタ直上での最大流量3万5000m3/s。その規模は利根川の数倍,メコン川など東南アジアの第一級河川の数分の一である。巨大な断層線に沿っており,定規で引いたような直線状の流路をもっている。デルタには約150万haの水田があり,ベトナムの穀倉地帯を形成している。ここの伝統的な稲作は,ふつうの雨季作と凹地での深湛水を避けた乾季作の組合せである。6月から9月が雨季で,この間に雨季作の十月米が作られる。一方,乾季には霖雨を利用して,旧暦5月刈取りの五月米が作られる。しかし,現在では灌漑が発達していて,より密度の高い多期作が広範囲に行われている。高みでは桑が伝統的な作物として多い。この川の最大の特徴はきわめて高く築かれた堤防である。これは特に本流沿いで著しい。周辺の水田面に比して,堤防の高さは多くの所で7~8mに達し,雨季にはその高さいっぱいに水が流れる。したがって,ひとたび決壊すると,洪水は田畑や家を押し流し,その被害は甚大である。一般に東南アジアでは雨季の洪水は稲と魚を育てる恵みとして歓迎されるが,ソンコイ川ではそれは破壊をもたらすものとして恐れられている。

高谷 好一

ソンコイ・デルタの開拓

一般にデルタでの稲作の歴史は新しい。その中で,ソンコイ・デルタは長江デルタと並んで最古の開拓史をもつ。古く前3千年紀末のチャンケンTrang Kenh文化層より稲の花粉が出土し,前2千年紀のフングエンPhung Nguyen文化層から籾や青銅鎌が現れる。しかし多くは段丘や扇状地に分布し,デルタ湿地の開拓とはいえない。前1千年紀のドンソンDong Son文化中期以降にいたって,古デルタ微高地上に住居址や遺物が現れる(ドンソン)。前2世紀末,ソンコイ・デルタは中国の支配下に入り,交趾郡として10県(後漢では12県)が置かれたが,その範囲はこのドンソン文化の分布とほぼ一致する。ソンコイ・デルタは自然堤防卓越地域の面積が大きく,この範囲だけでも,交趾郡は1世紀には9万2440戸,74万6237口をもつ大郡に成長していた。この古デルタの早期開発を促した原因は,第1にソンコイ・デルタは東南アジアの諸デルタと違って,デルタ背後に平原部をもたず,このため,山地民のデルタ移住がきわめて早かったからであり,第2には古く雲南地域に発達した多様な稲の品種が,洪水をさけて乾季に低湿地に栽培する五月米を生み出したからである。この段階を農学的適応による開拓という。10世紀,ベトナムは中国から独立するが,このころから小規模堤防工事が行われ,古デルタ低湿地,砂丘列地帯などの居住,開発が可能になった。

 このデルタ開拓の工学的な適応が全面的に展開するのは,13~14世紀のチャン(陳)朝以降である。この時代に,氾濫原を包みこむ大輪中堤防がつくられ,氾濫原への雨季作(十月米)の進出が可能になった。15世紀にはデルタ内人口は250万,村落は1万に達し,現在の集落の原型がほぼ完成された。次のレ(黎)朝期(15~18世紀)にいたって,堤防はいっそう整備,緻密化し,19世紀初期段階までに臨海部を除くデルタのいたるところに,網の目のような堤防網ができた。堤防内部では砂丘列間,微高地間の低地にまで村落がつくられ,二期作田(五月米と十月米)が古デルタに広がった。しかし,これは開拓が面的な限界に達したことを意味し,18世紀,デルタ農民は頻発する干ばつ・洪水のたびに,大量の流民を生み出さなければならなかった。以後,1830年代に海岸砂丘列地帯の干拓による延長がみられたほかは,植民地期(1884-1954)を通じて面的拡大はみられず,余剰人口は多く南部のメコン・デルタや海外に押し出された。1954年,ベトナム民主共和国の独立以後は有機肥料の積極的活用,稲の品種改良による多期作化がデルタ開発の主流をなしている。

桜井 由躬雄