平凡社 世界大百科事典

東南アジア

アジアの南東部を指す。西からミャンマー,タイ,ラオス,カンボジア,ベトナムの5ヵ国が東南アジアの大陸部を形成し,マレーシア,シンガポール,インドネシア,ブルネイ,フィリピンの5ヵ国が東南アジアの島嶼部を形づくっている。かつて〈南洋〉ないし〈南方〉と称していた地域を,〈東南アジア〉と呼ぶようになったのは比較的新しく,太平洋戦争後のことである。〈東南アジア〉(あるいは〈東南アジヤ〉)という語自体は,1930年代の末ころから,一部の研究者の間で用いられたことがあるが,一般には普及しなかった。戦後用いられるようになった〈東南アジア〉は,英語のSouth-East Asia(米語綴Southeast Asia)の訳語で,それ以前の〈東南アジア〉とは由来を異にしている。

 ここでいう〈東南アジア〉の語源であるSouth-East Asiaという語の歴史はきわめて新しく,太平洋戦争中の造語にすぎない。1943年,南方諸地域に展開した日本軍に対する反攻作戦の指揮を統轄するため,連合軍はセイロン(現,スリランカ)にSouth-East Asia Command(東南アジア総司令部)を設置したが,その名称の一部として用いられたのが最初とされている。フランスの地理学者J.デルベールが,この語を〈アングロ・サクソンの用いた軍事的表現〉と説明しているのはこうした歴史的事情による。日本軍の作戦区域は,当時,イギリス領ビルマおよびマラヤ,フランス領インドシナ,オランダ領東インド,アメリカ領フィリピンという4植民地と,タイ王国に分かれており,それらを包括するような地域呼称はなかった。そこで日本軍は総称として〈南方〉という呼称を採用したが,連合軍はこの地域に〈東南アジア〉という呼称を与えたのである。

 もっともSouth-East Asiaという言葉が,それまでの英語になかったわけではない。やや形は異なるが,South-Eastern Asiaという表現は,すでに1839年にある旅行記の表題に用いられていた事実が報告されている。ただその意味は現在用いられるSouth-East Asiaの一部,すなわち東南アジア大陸部のみを指し,島嶼部は含まない点に相違がみられる。したがって今日の東南アジア全域を示すにはSouth-East Asia and the Islandsといわなければならなかった。この用法は,最近までイギリスの地理書の中で踏襲されていた。

 新しく生まれた〈東南アジア〉の概念にフィリピンを含めるべきかどうかについては,初め学者の間で議論が分かれていた。東南アジアには,古くから各地にインド的原理ないし中国的原理に基づく伝統的国家が成立し,それぞれ独自の歴史的発展を遂げていたが,ひとりフィリピンのみは,こうした外来文化の影響をほとんど受けず,部族国家の段階にとどまったまま,16世紀にいたってスペインの植民地となった。またその後も,スペインは政策上,フィリピンを東南アジアの他の国々とより,むしろメキシコと結びつけようとした,などの歴史的事情が,東南アジアにおけるフィリピンの取扱いをめぐって異論が生まれた理由と考えられる。しかし1960年代以降,フィリピンを東南アジアに含めることで研究者の意見が一致し,現在にいたっている。

 1975年のベトナム戦争終結を契機として,東南アジアには三つの政治ブロックが成立した。タイ,マレーシア,シンガポール,インドネシア,フィリピン,ブルネイの6ヵ国の結成する東南アジア諸国連合(ASEAN(アセアン))と,ベトナムを中心とし,ラオス,カンボジアを含むインドシナ社会主義圏という二つの地域連合と,そのいずれにもくみしないビルマ(現,ミャンマー)がそれである(なお95年にベトナム,97年にラオスとミャンマー,99年にカンボジアが東南アジア諸国連合に加盟している)。

 東南アジアはかつてヨーロッパ人によって〈後インドFurther India(英語),Hinterindien(ドイツ語),l'Inde extérieure(フランス語)〉と呼ばれていた。ヨーロッパからみて,インドのかなたにある地方の意である。また古代インド人は,この地を〈黄金の地Suvarṇabhūmi〉〈黄金州Suvarṇadvīpa〉と呼んだ。一方,中国人はこれを〈南海〉と総称していた。南方の海を経由して中国に朝貢した国々,あるいは中国人が南方の海を経て到達することのできた国々の意である。もっとも〈南海〉の範囲は,時代が下るとともにしだいにその外延を西方に拡大し,やがてインド洋,ペルシア湾から,アフリカの一部の沿岸地方をも含めるようになった。

 東南アジアは,中国とインドおよび西方諸国の中間に位置しているため,古くから交易ルートの中継点として重要な役割を果たしてきた。とくに交易を媒介とするインド文化の伝播は,東南アジアの各地にインド的原理に基づく国家を成立させることに貢献した。これに対し,ベトナムは,前2世紀以来中国の郡県支配下に置かれていたが,10世紀にいたって独立を達成した国であり,文化的には中国の影響が強い。こうした事情から,東南アジアにはインド文化圏と中国文化圏とフィリピンという三つの文化圏が鼎立している。

石井 米雄

自然と生活

自然

東南アジアは島嶼部と大陸部に分けられる。気候的にみると,島嶼部は湿潤熱帯気候をもち,大陸部はモンスーン気候をもつ。湿潤熱帯では一年を通じて多量の雨がまんべんなく降る。朝のうちはいくぶん涼しいが,日中になるときわめて暑くなり,やがて午後おそくなるとスコールがきて,夕方になるとまたいくぶん涼しくなる,というのが典型的なものである。大陸部はそれをさらに二分して,南半分の熱帯モンスーン帯と北半分の亜熱帯モンスーン帯に分けるのがより実際的である。熱帯モンスーン帯では雨はふつう6月から11月ころまでしか降らない。これが雨季である。12月になると雨はまったく降らなくなり,やがて3月になると極度の乾燥に加えて酷暑が襲ってくる。12月から5月までが乾季である。亜熱帯モンスーン帯も,その基本的なもようは熱帯モンスーンのそれと同じである。しかし,12月から2月にかけてはかなり冷涼な日が現れる。熱帯モンスーンにあったようなひどい乾燥と酷暑はなく,全体はいくぶん温和な気候といえる。

 以上の気候帯に対応して,東南アジアには三つの植生帯がある。熱帯降雨林帯,雨緑林帯,照葉樹林帯である。熱帯降雨林の特徴は,第1に極端に多様な樹種からなることであり,第2にそれらは年中きわめて旺盛に生長する常緑樹からなることである。雨緑林はこれに対して多くの落葉樹の混入で特徴づけられる。乾季の乾燥,とくに酷暑期の条件がきわめて厳しく,多くの樹木はこの間葉を落として生長を休止するからである。樹の種類は少なく,その生育密度も低い。亜熱帯モンスーン帯では乾季の厳しさはかなり和らぎ,再び常緑の世界になる。しかし,ここでは熱帯降雨林のような極端に多い樹種と旺盛な生長はない。森林には限られた優勢種が現れて,どちらかというと,こぢんまりとしてくる。これは広い意味でいえば,日本にも続いてくるいわゆる照葉樹林帯である。

 一方,東南アジアは地形的にみると五つの部分(大陸部が3部分,島嶼部が2部分)に分けられる。それらは北より,山地部,丘陵・平原部,デルタ部,それに島嶼部における低地帯と高地区である。山地部とはヒマラヤから雲南,広西にかけて続く山地の南縁と考えてよい。ミャンマーのカチン州とシャン州,タイ北部,ラオス北部,ベトナム北部の一部がこの地域に入る。標高1000~2000mの山なみが続き,その間に多くの支谷が走り,盆地が点在する。ここはちょうど先の照葉樹林帯にあたっている。その結果,ここは深い常緑の茂みで覆われた山腹と,その間を縫って渓流が流れるという景観が特徴的となる。これはたとえてみれば,西日本の山地部の景観に似ている。

 山地は南に行くと高度を下げ,やがて丘陵と平原が広がり,もっと海岸に近づくとデルタが現れてくる。この丘陵・平原部とデルタ部はちょうど雨緑林帯に一致する。丘陵・平原の景観は,しかし今日では実際には雨緑林というよりもむしろサバンナに似ている。これはすでにこの地域の森林が大幅に破壊され,いわば一種の二次植生を形成しているからである。山地部にみられたような深い山で涵養された渓流がないから,全体は水気のない殺伐とした感じを与える。そのくせ一度雨がくると保水性がないので一気に洪水を引き起こす。ここはいわばインド亜大陸に似た環境である。デルタは大河が堆積を完了したばかりの所であり,標高2mぐらいの低平面が延々と続く。この低平地は雨季には全域が数十cmから1m近く水没し,逆に乾季には全体が完全に干上がってしまう。ここは気候的には雨緑林帯に入るが,実際にはこうした水文環境のために木は生えない。大部分の所が背の高い禾本(かほん)科(イネ科)かカヤツリグサ科の草で覆われることになる。メコン川の河口には,もともとはこういう所が広く広がっていた。

 島嶼部は原則としてはそのすべてが熱帯降雨林帯である。しかし,ここでは特殊な環境として島嶼部高地区を区別したほうがより実際的である。高地区は例えば,そびえ立つ火山周辺や特別高い山塊の地域である。これらの高地はその高度のゆえに熱帯降雨林の外につき出ており,いわば常春の気候条件をもっている。高度的にみて,こうした環境を最もつくりやすいのは,標高700~1200mぐらいである。ここでは旺盛すぎる森林の生育は弱まり,人間にとって住みよい環境が用意されている。

生活

上にみた五つの生態区には,それぞれに特有な人間の活動がみられる。

(1)山地部 山地部は一つの生態区である。しかし,この複雑な生態区は二つの異なった環境が複雑に入り組んだ所と考えたほうがよい。照葉樹林で覆われた山腹と,水田のみられる谷筋や盆地である。前者は焼畑民の空間であり,後者は水稲耕作民の空間である。焼畑民は乾季の間に森を切り倒し,雨季直前にそれを焼き,その直後そこに播種する。最も多く作られるものはトウモロコシと陸稲であるが,粟やシコクビエなどの雑穀,豆類,瓜類,それに多くの野菜類が作られる。これらの作物はしばしば同一の畑に混然と作られ,それがいったい何の畑であるのかわからないようなさまを呈することがある。同一個所を2~3年連続して使用すると,もうそこでの耕作をやめ,新たに別の森を切って新しい畑を開く。こうして再び元の場所に帰るのは,少なくとも5~6年,ふつうは10年ぐらい経って再びそこが二次林で覆われるようになってからである。これは連作していると,土壌の肥沃度が低下し,雑草がはびこり,収量が落ちるからだといわれている。

 その農法が粗放であり,移動性があるから,焼畑は原始的な土地利用だとの印象を与える。しかし,他面では森の精霊や祖霊信仰ときわめて密に結びついていて,農耕儀礼という点では最も複雑な体系をもっている。また確立した輪作や混作体系をもつこともあり,原始農耕と簡単に決めつけることもできない。焼畑はいわば森という環境の中に生み出された一つの能率のよい農耕形態である。ただ最近では人口圧の増大で焼畑サイクルの短縮を余儀なくされ,森林の消滅と草地の拡大が起こっている。このことはとりもなおさず焼畑基盤の喪失であり,焼畑はこの意味では消滅の道をたどっているといわねばならない。

 谷筋や盆地で行われる稲作は灌漑移植法である。渓流に巧みに井堰をかけ,そこから水路で田に水を引いて,十分に代搔き(しろかき)をした田に若苗をていねいに植えてゆく。その稲作の方法は日本のそれとほとんど変わらない。歴史的にみると,こうした谷筋や盆地には,12~13世紀ころからこの灌漑移植法による稲作に立脚した王国が栄え出すようである。例えば14世紀ころのチエンマイ盆地(タイ北西部)の景観は次のようなものであったと想像される。盆地の中央には城壁に囲まれた王城があり,それをとりまいて仏教寺院と市場がある。市場には金銀工,漆工,陶工などのかたまる一角があり,他の一角にはインドや中国の舶載品を並べる店がある。土地の物産を並べる露店もある。ここは当時の東南アジアの中では最もにぎやかな市場であり,文化の粋が集まる所である。王城のまわりにはよく整備された水田が山麓まで広がっている。こうした盆地が,山地部には,チエンマイのほかにもいくつもあったようである。現在ではこれらの王城はもう廃城になっているが,今でもなおここがこのあたりの文化的中心であることには変りがない。

 盆地農村はきらびやかさこそないが,これまたよく組織された社会をもっていた。彼らが耕作した田は,彼らの先祖が汗を流して営々と築き上げた灌漑水路で整備された美田である。だから彼らは最大限の注意を払ってそれを維持し,改良して次代に譲り渡さねばならない。盆地の水稲耕作民はかくして,土地に対して執着心があり,責任感がある。また灌漑施設の建設や維持のためには,同じ部落の人たちとの共同作業が必要になってくる。また得られた水の配分のための協議も必要になる。こうして,彼らには地域社会に対する帰属意識も強く要求されることになる。ちょうどそれは,戦前の日本の農村に似たものである。もっとも,この東南アジアの盆地農村は,景観的には日本のそれとはもちろん異なる。差異点の最大のものは,ここの農家がいずれも涼しそうな高床づくりになっていることである。1階の床は1.5~2mぐらいの高さの所につくられている。家のまわりの菜園にバナナが目だつのも違いのうちの大きなものである。

(2)丘陵・平原部 これはマンダレー以南のミャンマー,中部タイ,東北タイ,カンボジアなどを含んでいる。この地域の土地利用は歴史を通じて,およそ3段階の変容を遂げてきた。これは原初の雨緑林が破壊されて今日の景観にいたる過程と考えてよい。第1の段階は,人々がこの雨緑林から樹脂や蜜蠟を多量に採集し,わずかばかりの焼畑を行っていた段階である。このとき,雨緑林はまだ健在であった。これはほぼ12~13世紀ぐらいまで続いたのではないかと考えられる。第2の段階は,焼畑による雨緑林の破壊が進み,森林物産の採集があまり期待できなくなった段階である。この第2の段階で行われた土地利用は焼畑と天水田と放牧の組合せである。例えばタイの場合,アユタヤ朝,ラタナコーシン(バンコク)朝を通じ,多量の牛や水牛の皮が武具用皮革として日本に送り出された。19世紀後半になっても放牧の重要性はまだ続いている。デルタ地域が農耕用に多数の水牛を必要としたからである。第3の段階は第2次大戦後に起こっている。戦後の大きな変化は,一つは天水田の拡張であり,もう一つは放牧が消え,ここに畑作が広がり出したことである。放牧が消えた直接の原因は,デルタの稲作が牛耕からトラクター耕に切り替えられたことにある。かつての放牧用のやぶの一部はトウモロコシ・モロコシ二毛作畑やキャッサバ畑に変わった。トウモロコシやモロコシは家畜の飼料として,キャッサバは工業用や食糧用のデンプンとして多量に日本などに輸出されるようになったからである。

 戦後の変化は統計の上でみると目ざましいものである。しかし,現実には決して問題がないわけではない。先にも述べたように,ここは本来非常な水不足地帯であり,それがここの土地利用をきわめて困難なものにしている。例えば,現存する水田は例年その半分ぐらいしか利用されていない。水不足で播種や植付けができないからである。干ばつ年には全水田面積の4分の3ぐらいが収穫ゼロという状態になる。山地部のような安定した水源がないから,生活水は人為的に掘った溜池や井戸に頼らねばならない。乾季になると,飲み水を求めて何kmも歩く風景は今でも決して珍しくない。人々がいかに強く掘池に依存しなければならなかったかは,例えば東北タイに残る数百の環濠集落遺跡をみても想像がつく。ここではかつて人々は部落全体を濠で囲って生活していたのである。それは防御用であると同時に,乾季の飲み水を得るためのものであったと考えられる。

 平原では山地部の移植法とちがって,大部分の所で散播法が採用されている。脱穀法も山地部で行う打ちつけ式と違って,稲束を水牛に踏ませるインド系のものが採用されている。人々は山地部で常食にされているもち米を嫌って,ぱさぱさのインド稲を好む。平原はその自然環境がインドに類似している。そして,このインド的環境の上にインド起源の文化が色濃く覆いかぶさっている。

(3)デルタ部 一年のうち半年が水没し,他の半年が飲み水もなくなるくらい乾燥するデルタは人間の住む所ではなかった。これが人間に利用されるようになるのは19世紀後半になってからである。当時の植民地経済は米に対する需要を急増させた。こうした国際経済の動きに反応して,巨大な米プランテーションの場として登場してくるのがデルタである。デルタ開発は,湛水と乾燥の交互する大草原に運河網を張りめぐらすという方法によって行われた。こうすることによって,まず舟運を確保することができた。盛り上げた堤防は雨季にも水没しない高みとなった。また運河そのものは乾季の飲み水を供給した。こうして運河沿いは生活可能な場所になったわけである。ひとたび居住さえ可能になれば,草原そのものの稲田への転換はそれほど困難なことではない。なぜならば,雨季の湛水はせいぜいが1mぐらいであり,これは背の高い熱帯の稲にとっては決して耐えられない深さではないからである。人々は洪水のやってくる前,5月ころにそこを水牛で耕起し,籾を散播した。こうしておくと,稲は雨季の湛水のもとに生長し,年末になって水の消える頃には立派に実った。いわゆるデルタの散播栽培である。所によっては水深が2~3mになることもある。しかし,そうした所でも同じ手法で作られる。ただ品種だけは深水に耐えうるような特別なものが用いられる。いわゆる浮稲である。

 雨季の大湛水はデルタを魚で満たす。12月,1月は稲の収穫期であると同時に,魚の収穫期でもある。このようにデルタは稲と淡水魚の宝庫である。しかし逆にいえば,デルタは稲と魚しかない所ということでもある。デルタはこの意味では単調そのものである。デルタの単調性や画一性はその他の面でも認められる。例えば,ここは見渡す限りの稲田が続いているだけで,小山もなければ,木の茂みさえない。ただその中に直線状の運河が幾筋も等間隔に走っており,運河沿いにこれも等間隔で,どれもこれも似たような高床の家が建ち並ぶだけである。家の配置がこんなぐあいであるから,村人はふつう自分の村の境界を知らない。塊村で,締りのある村になれ親しんだ日本人の感覚からすると,ここにはまるで村がない。こうした状況が100km四方以上にわたってただ延々と広がる。デルタはその景観も生活もそして社会までが,ちょうどその地形と同じようにきわめて単調,画一的で核を欠いている。

 デルタはしかし,たった一つだけきわめて巨大な核をもっている。それは主都である。ラングーン(ヤンゴン),バンコク,サイゴン(ホー・チ・ミン市)の巨大な都市が忽然とこの単調な空間にそびえ立っている。デルタとは総じて人工的な空間である。

(4)島嶼部低地帯 これは先に述べたように森の世界である。古くからジンコウ,リュウノウなどの香木,コショウ,チョウジなどの香料が採集されてインドや中国に運び出された。東ボルネオのクテイ地方にはすでに5世紀にはこうした物産の取扱いを基盤とする王国があったといわれている。古くは採集のみに頼っていた森の物産は,ヨーロッパの植民地勢力が入ってくると,栽培による増産へと切り替えられてゆく。初めはコショウとチョウジの栽培であったが,やがてその比重はコーヒーとゴムに移されていった。第2次大戦後はアブラヤシが新しい作物として現れ,チョウジとコーヒーが再び勢いを盛り返している。

 戦前はこうした作物栽培はヨーロッパ人の経営するエステートで行われることが多かった。広大な地域の森が切り開かれ,その全面に単一種類の作物が植えられ,それはエステート内に住みこんだ農園労務者によって維持,管理された。この大規模で組織的な経営は,今でもマレー半島のゴム園やアブラヤシ園には認められる。戦後はしかし,こうしたエステートに代わって,普通の農民による小規模な商品作物栽培が伸びてきている。農民は最初,森ややぶを焼くとそこに陸稲やトウモロコシを点播する。いわゆる焼畑耕作を行うわけである。しかしこのとき,同時に陸稲やトウモロコシの間にコーヒーやチョウジの若苗を植える。2年目は少し大きくなったコーヒーなどの間にもう一度陸稲とトウモロコシを点播する。3年目になるとコーヒーなどが大きくなっているので,もう穀物は植えられない。そうすると,また新しい森を焼いてそこに穀物を点播しコーヒーなどの苗木を植える。彼らはこうして毎年焼畑を行いながら,少しずつそれをコーヒーやチョウジ畑に変えることによって,6~7年後にはりっぱなコーヒーやチョウジの園主になる。こうなると,彼はもう焼畑による開墾はやめて,もっぱら園地の世話に専心し,食糧は外部から購入するようになる。似たような焼畑を行うとはいえ,こうして島嶼部低地帯の農民は,大陸部の焼畑民に比べるとはるかに強く商品作物栽培を指向している。

 1960年代に入ってからの島嶼部低地は,上に述べたあまりに商品作物に偏重した農業からの脱皮の努力をしている。それは具体的には,それまでほとんど顧みられなかった海岸低湿地の水田化というかたちで進められている。しかし,これは必ずしも容易には進展していない。理由は,その地盤がしばしば厚い腐植土のみで覆われ,またからみ合った木の根の集積のみからなっているからである。農民の間に水稲耕作の伝統がないということも理由の一つである。彼らは今,湿地を覆う灌木や草を山刀でたたき切り,地面そのものには何の耕起も行わないで稲を移植するという方法で稲を作っている。ほんとうの意味での水稲耕作が確立するまでには今しばらく時間がかかりそうである。

(5)島嶼部高地区 島嶼部高地の典型例はスマトラのバタク族やスラウェシ(セレベス)のトラジャ族の居住地である。これらの居住地の平均標高は約1000mである。これらの人々の多くは数千年の昔に大陸山地から南下してきた焼畑民と考えられている。彼らはこの高地に到着後,外界と隔絶された状況で生き続けてきただけに,きわめて特異な文化をもっている。外来者がこの地を訪れてまず最初に驚くことはそのりっぱな家屋である。太い柱がふんだんに使われ,頑丈な構造をもち,柱や梁や壁のあらゆる部分が彫刻で覆われている。全体がまた特有の洗練された形をもっている。こうした家が5~6戸から十数戸で塊をつくり,屋敷林に囲まれて,尾根筋の見晴しのよい所に建っている。そのたたずまいだけからでも,ここがすでに熟成した文化をもっていることが感じられる。

 農業からも同じようなことがいえる。彼らの農業は本来焼畑の系列に入れられるべきものである。したがって,焼畑のもつ古層の要素が随所に認められる。例えば,彼らはふつう4~5cmの芒(のぎ)があり,しばしば赤や黒の色のついた大粒の稲を作る。これはブル稲と呼ばれていて,その昔,大陸部の山地から運んでこられた特別な品種である。このブル稲は平原やデルタや島嶼部の低地帯で作られる無芒のインド稲とはまったく違う。これは古層を表す一要素である。しかし一方,同時に彼らはすでに単なる焼畑を脱して独自の発展をもしている。このことは例えば蹄耕稲作に表れている。蹄耕とは田ごしらえを水牛の蹄(ひづめ)で行うものである。5~6頭から,ときには20頭ぐらいの水牛を1枚の田に追いこみ,その水牛を歩きまわらせ,これでもって草を殺し泥を軟らかくして,植付準備とするのである。山刀と掘棒だけしかもたなかった焼畑民が,その焼畑体系の中から水稲耕作を生み出そうとするとき創出した方法である。島嶼部高地区ではこのように古層要素の上に,独自の文化が熟成している。

 仮に,ブル稲と蹄耕の組合せを島嶼部高地区の標式的文化要素とすると,この組合せは,先に述べたスマトラ,スラウェシのほかに,ボルネオ,フィリピン,海南島,そして沖縄諸島にみられる。島嶼部高地区の一つの特徴はすでに触れたように孤立性である。それにもかかわらず,この分布はこの文化がいつの時点にか海を渡ってすさまじい勢いで拡散したことを示している。そしてこの文化は,最後には黒潮に乗って日本の南端にまで至ったかのようである。

高谷 好一

民族と言語

民族学的な意味における東南アジアの民族とは,大陸部では西はアッサム(インド北東部)の山地民から東はチャモロ族やパラオ諸島民の言語は系統上は東南アジアに入れることができるが,ふつう民族学的には彼らはオセアニアとして取り扱っている。

生活様式の分布

東南アジアには採集狩猟民文化から高文化にいたるさまざまな生活様式が存在している。採集狩猟民としてはプナン族,アルー諸島の奥地住民がある。またメルギー(ベイ)諸島,マレー半島南端からインドネシア,フィリピン南部に広く分布する漂海民(モーケン,オラン・ラウト,バジャウなど)がいる。ボルネオやモルッカ諸島には,野生のサゴヤシの採集が重要な生業活動で,主としてそれによって生活する集団もあるが,その文化は,ニューギニアの場合と同様に,周囲の農耕民の文化と大差なく,農耕民文化からの派生物の疑いが濃い。

 農耕民は大きくみて次の3種に分かれる。(1)穀物栽培を行わず,イモ類と果樹を栽培する人々で,東南アジア島嶼部の東西の周辺部,すなわちベンガル湾,スマトラの西の諸島,モルッカ諸島の一部に分布し,オセアニアの農耕文化と共通性を示す。(2)穀物焼畑耕作民で,東南アジアの山地民の圧倒的多数はこの部類に入る。全域を通じて陸稲が作物として主導的であるが,ただ台湾はアワなどの雑穀栽培地域である。(3)平地の水稲犂耕民で,大陸部においても島嶼部においても,ミャンマー,タイ,ラオス,カンボジア,ベトナム,ジャワ,バリなどで国家をつくりあげた民族はこの部類に入る。以上3種のほかに,アッサム,ルソン,スラウェシなどに,水稲耕作民の一種として,山地に居住し,犂を用いないで棚田耕作を行う民族がいる。

 マレーシア,インドネシア,フィリピンには,海岸に居住し,多くの場合,農耕や漁労も併せ行うものの,貿易が大きな比重を占める生活様式がある。南スラウェシのブギス族,マカッサル族などがその代表者であるが,歴史的にはスマトラのスリウィジャヤ王国,ベトナムのチャンパ王国もこのような生活形態を背景としていた。

 東南アジアにおいては,新しい生活様式が登場しても,古い生活様式が完全に消滅することなく共存する傾向が強い。しかし例えば,今日の採集狩猟民は,旧石器時代の生活様式をそのまま保存してきたのではなく,農耕民が存在することを前提として特殊な発展を遂げた採集狩猟民であるように,共存によって民族間関係の体系が生まれ,また変化していくのである。

語族,民族の形成と移動

東南アジア大陸部におけるおもな語族としては,インドネシア(ヘスペロネシア)語派がある。

 モン・クメール語派はインドのムンダ諸語とともにアウストロアジア語族を形成しており,この語派の言語を話す人々は採集狩猟民(ピー・トン・ルアン,セマン),穀物焼畑耕作民(クメール族,ベトナム人)というように,さまざまな生活様式にわたっている。おそらく後期新石器時代ころに穀物焼畑文化をもって拡大し,ほぼ今日の分布領域を占めるようになったと思われる。採集狩猟民でモン・クメール語を話す民族は,過去においてモン・クメール系の農耕民から言語を受容したものであろう。クメール族を含めて東南アジアの高文化諸民族はインド文明の影響を強く受けてきたが,ベトナム人は土着の初期金属器文化の基礎の上に中国文化の影響を受けて,その文化を発達させた。

 チベット・ビルマ語派の原郷はおそらく中国西南部からチベットにかけての地域と思われる。その初期の移動史は明らかでないが,3世紀ころからのビルマ族のビルマ(現,ミャンマー)における台頭は,雲南からビルマに入るチベット・ビルマ語派の数次にわたる移動の波の例である。

 カム・タイ語派は中国南部を原郷としていたが,この言語を話す民族は,おそらく紀元後になって,水稲犂耕と鉄器という技術,および封建的な政治組織をもって河谷づたいに移動を開始し,徐々にインドシナ半島に進出していった。その歴史における一つの画期は13世紀で,西はアッサムから北ビルマ,タイを経て,東はラオスにかけてのインドシナ,ことにその北部の各地において一斉に王国が形成され,東南アジア大陸部においてカム・タイ語派の民族の地位は確定した。

 現在の言語・民族分布図をみると,チベット・ビルマ語派とカム・タイ語派は,かなり連続したまとまった分布を示しているのに反し,アウストロアジア語族は広く分散し,その分布はカム・タイ語派やチベット・ビルマ語派によって分断されている。この分布状態は,すでに先史時代においてアウストロアジア語族が東南アジア大陸部の大部分を占めていた所に,北からチベット・ビルマ語派とカム・タイ語派が南下し,ことに歴史時代に大きく発展して各地でアウストロアジア語族の分布を分断した結果であろう。

 大陸部においてはそのほか,インドシナ北部から中国南部にかけてカダイ語群という語族が島状に分布している。これはカム・タイ語派に親縁の古い語族と推定される。大陸部におけるもう一つの重要な語族はアウストロネシア語族中の西部語派であるインドネシア語派であるが,この語派のおもな分布は島嶼部にあって,マレー半島やインドシナ半島南東部における分布は,インドネシア西部から鉄器時代あるいは歴史時代になってから広がったものと思われる。

 東南アジア島嶼部の圧倒的大部分はアウストロネシア語族によって占められ,ベンガル湾(アンダマン諸島),インドネシア東部(ティモール島東部,ハルマヘラ島とその離島など)にアウストロネシア語以前の古い言語(アンダマン語,オセアニア語派も,おそらく島嶼部東南アジアからいも作農耕をもって東進したものと思われる。

大林 太良

社会

東南アジアでは,たび重なる民族移動,複雑な地形条件から,言語,種族ともにモザイク状に分布している。インドと中国という大文明の中間地帯にあって,さまざまな土着の信仰体系の上に重層した仏教,イスラム,キリスト教が国教ないしはそれに準じた扱いを受け,ポルトガル,スペイン,イギリス,オランダ,フランスとそれぞれ宗主国の異なる旧植民地国の遺産も受け継いでいる。西欧資本主義との遭遇によって生じた社会経済的な亀裂は,二重経済,複合社会,コミュナリズムと名づけられて,現在に至るまでその社会を特色づけている。すなわち,近代的独立国家の枠組みの中に国家エリート,都市,村落,プランテーション,部族社会が類型的に同時存在している世界である。

部族社会

いわゆる少数民族と称されるものの中には,中国人,インド人などの移民民族,ミナンカバウ,モン,シャンなどのように比較的人口も多く,村落社会を中心とする種族も含まれうるが,一般的には主として山地に住む部族社会が多数を占める。生業形態によって三つのタイプを指摘できる。第1のタイプは,数組の夫婦家族がバンドを組んで森林を移動しながら,食物の採集,狩猟に依存する社会で,ネグリトの社会が代表的である。鉄器などの特殊なもの以外は自給自足である。第2に,焼畑による移動農耕を行う社会がある。出自集団に基づく集落を形成し,半定着の生活を送る。循環的女性交換システム,二元的宇宙観のある場合が多く,聖と俗とが一元的である。第3に,同じように農耕も行うが,むしろ採取交易社会と呼ぶのが適切なタイプがある。これは,樹脂,リュウノウ,籐(とう),香料,特殊な森林産物,スズや金などの鉱物,ナマコなどの海産物を外界の需要に応じて採取し,それとの交換によって生活必需品を得る。集落は半定着的であることもあるが,近親婚,内婚がみられ,耕作,村落組織は女性中心で,採取,交易などの村落外活動は男性中心である。

村落社会

部族社会は親族組織や信仰体系など地域的に特殊化してしまっているが,これに対し,村落社会はほとんどが双系制親族組織で,水稲を主生業とし,部族社会よりはより等質的な特徴を示す。ビルマ族,タイ族,マレー人,ジャワ族,ベトナム人など国家の主要構成種族およびそれに準ずる種族の住む農村社会に典型的にみられ,平地村である。漁村,山村も含むが,往々にしてこれらは採取交易型となりやすい。村落は,非親族も擬制的に親族としてとりこみながら,地縁を契機に成立し,地域特殊的な慣習法によって生活を律し,寺院,モスク,教会などを統合のシンボルとしている。宗教的職能者とともに,貴族出身者,村長とその取巻き連が他の農民と一線を画し,社会的階層がより明確になる。集団組織のありかたが〈しまりがない〉とか,間柄の論理,二者関係に人間関係が支配され,親族関係を重んじながら状況主義的であるとかいう指摘は,この村落社会のもつ弾力性,したたかさの一面をいい表している。また,恥,自尊心,恩の観念も社会生活に大きな役割を占める。

植民的集落

採取と農耕との近代的な適応形態は,石油・鉱物資源採掘と商品作物の大規模な栽培である。ともに伝統的社会の枠外に,経済利潤追求の原則,そのための近代的管理・技術,とくに契約によって律される労使関係,分業体制に基づく植民的集落を実現させた。この代表的なものが,可耕地を大規模に単一商品作物(ゴム,サトウキビ,コーヒー,茶,アブラヤシ,ココヤシ,パイナップル,タバコ,綿花など)の農場,エステートに転換させたプランテーションである。既存の村落社会を基礎に輸出用作物の生産を計ったジャワの強制栽培制度のような例もあるが,多くは人口の希薄な熱帯降雨林,低湿地,サバンナを大規模に開拓し,そこに労働力を投入して,土着の社会組織とは異なった社会秩序(監督-事務職-雇用労働者)をつくり上げた。管理人住宅,工場,インド人労務者住宅からなるマラヤにおけるゴム園は,そのように移植された社会の典型である。

都市

東南アジアの古代,中世において,王侯貴族の住む宮殿のある所で,〈クニ〉の象徴的中心であった数多くの都は,近代の首都,大都市には直接受け継がれていかなかった。現在の都市の多くは,中世から近世にかけて出現した,商人のつくった町,交易港市,駅市,華僑の町,植民地行政府の発達したものである。例えばマレーシアの首都クアラ・ルンプルは100年前に華僑のスズ鉱労働者がつくった町であり,スルタンの王宮のあるクランは現在では小さな町にすぎない。都市にあっても,村落をそのまま移したセクターと,近代的な行政・金融・産業のセクターとが両極化しながら共存しており,そのうえ,民族別,経済階層別の居住区域の区分がみられる。不法占拠などの形で拡大する伝統的セクターの急速なスラム化,サービス業従事者比率の異常な高さ,不完全就業者・失業者の増加,それにもかかわらず流入してくる人口などの社会問題を抱えている。また都鄙(とひ)の経済的格差も顕著である。

国家

植民地化以前の東南アジアでは〈小型家産制〉ともいえる小規模な国家群が並立し,ときには緩やかな連合が成立して中心的な国家が周辺の国家群を支配することもあったが,大きな帝国版図は成立しなかった。その国家概念はヒンドゥー王権思想に基づき,領域の不明確な,無限に広がりうるコスモスとしてとらえられた。一般民衆にとって国家とは,このコスモスの体現者としての王であり,その取巻き連であり,具体的な世界の中心である宮殿にほかならなかった。植民地政府ないしは西欧からの近代法典,行政組織の輸入によって近代的独立国家としての態勢は整ったとはいえ,総人口の1割前後の人が集中する都市を国家のシンボルとしてみ,王族と交替した行政官僚を支配階級・国家エリートとして特別視する世界観は強く民衆の中に残っている。新しいエリートとして西欧的教育を受けた官僚,軍人,知識人,学生は,地域に根づく伝統的・宗教的指導者の地位を脅かしつつ,国民文化形成の中心的推進者として,国民国家概念を担う一つの核心的な社会的カテゴリーとなっている。

 これらの類型全体を截断する宗教的・種族的なアイデンティティに基づく行動・価値観は,日常生活における葛藤だけでなく,政治的なコミュナリズムを生み,ともすれば国民観念の形成を阻んでいる。国民観念が十分定着しないうえに,その社会にエリート,都市,村落,プランテーション,部族が同時併存しているという構図は,一見して典型的な複合社会を形成しているかにみえるが,現実には,頻繁な出稼ぎ,地域的・社会的移動とも相まって,各類型の境界は連続的であって,しかも類型自体マージナルな型を生み出しながら急速に変化している。それらは,すべてが一つのパターンに収束しないまでも,国民国家の維持というコンセンサスがある限り,統合の方向に進んでいくであろう。

前田 成文

宗教

宗教的にみると,東南アジアはきわめて複雑である。その複雑さは,過去2000年にわたり,さまざまな外来文化の影響を相次いで被った,この地域の歴史的状況と深くかかわっている。

 紀元前後から,インドとの交易を介して,東南アジアにもたらされた宗教は,ヒンドゥー教と仏教,とりわけ大乗仏教であった。これらのインド宗教は,各地に成立したインド的諸王国の支配者たちに,正統性を賦与する役割を果たしたが,民衆とは縁遠い存在であったと考えられる。カンボジアのアンコール・ワットや,インドネシアのボロブドゥールなど,今日に残る大建築物の遺構や,これまでに解読された数々の刻文史料は,当時の信仰形態の一端を今日に伝えている。ヒンドゥー教や大乗仏教は,13世紀前後から衰退期に入り,大陸部にはスリランカから上座部仏教が,また島嶼部にはイスラムが伝えられた。これらの新宗教は,それまでの宗教のように,一部の権力者に信奉されたばかりでなく,広く社会の各層に受け入れられ,今日にいたるまで,それぞれの民族の社会,文化に深い影響を与え続けている。

 これに対し,古くから中国の政治的支配下に置かれ,中国文化の強い影響を受けたベトナムは,宗教的にも中国系の宗教を受容し,〈三教〉の名で知られる儒教,仏教,道教の3宗教をあわせ信奉して今日に及んでいる。この間にあって,ひとりフィリピンだけは,インド文化,中国文化のいずれの影響をも受けることなく,16世紀にいたってスペインの植民地となった。フィリピンは,19世紀の末以来アメリカの支配下に入ったが,大多数の住民は今日もなお,旧宗主国スペインの宗教であるカトリックを信仰している。

上座部仏教

上座部仏教は,現在,ミャンマー,タイ,カンボジア,ラオス,およびベトナム南部,インドネシアの一部などで信奉され,信徒数は合計で8000万人を超える。いずれもスリランカで成立,発展した大寺派(マハービハーラ派)の流れを引き,パーリ語で書かれた三蔵経を護持している。上座部仏教の中核はサンガである。サンガとは,いっさいの世俗的労働から解放され,パーリ聖典に書かれた戒律を厳守して,修行に専心する僧侶によって形成される出家者教団である。在家者,すなわち一般仏教徒の宗教行動のすべては,サンガの維持・発展に寄与することが,最高の功徳行であるという信仰を中心にして展開する。たとえば寺院の建立・修復に対する貢献,日々乞食して歩く托鉢僧への供養などは,いずれも大きな功徳を生み幸福をもたらす善業として勧められる。

 上座部仏教徒の間には,出家という行為を,とりわけ優れた功徳行として高く評価する価値観が古くから存在し,今日でも,父母への孝養のため,あるいは自ら功徳を得る手段として,一時的出家を志望する者が絶えないという事実は,サンガに対し不断にその成員を供給する結果を生んでおり,サンガの存続に大きく貢献しているといえよう。

イスラム

イスラムは,インドネシア総人口の87%,マレーシアでは50%の人々によって信奉されている。イスラム教徒は,このほか,ミャンマー,タイ南部,フィリピンのミンダナオ島などにもいて,少数民族集団を形成している。マレーシアのイスラム教徒は,スンナ派のシャーフィイー派に属し,一般にイスラムの中心的教義である六信・五柱を忠実に守る。イスラムは憲法上,マレーシアの国教と規定されており,各州のスルタンが,それぞれの州のイスラムの首長となる。

 1億を超えるイスラム教徒をもつ,東南アジア最大のイスラム教国インドネシアでは,アバンガンと呼ばれる大多数の農民は,名目上イスラム教徒ではあるものの,その宗教の実践形態においては,ヒンドゥー・ジャワ的なアニミズムの強い影響を受け,正統的なイスラムの教理からは逸脱する行為もしばしば観察される。

その他の宗教

儒教,仏教,道教の〈三教〉によって代表される中国系宗教は,ベトナムのベトナム人のほか,シンガポールおよび東南アジアの都市部に移住定着した華人の間でも信奉されている。これらの3宗教は,それぞれの独自性を保ちながら,互いに対立を起こすことなく併存を続けている。民衆信仰の場においては,三教それぞれの聖像が等しく礼拝の対象とされている。ベトナムの農村部では,三教に加えて村の守護神をまつるディン(亭)があり,これが村落結合の中核をなしている。

 全人口の85%がカトリック教徒であるフィリピンは,東南アジア唯一のキリスト教国である。アメリカ支配時代にはプロテスタントの布教も行われたが,信徒数は総人口の3%を占めるにすぎない。数的には,むしろ20世紀初め,バチカンに反抗して創設されたイグレシア・ニ・クリストが勢力を伸ばしていることも注目される。カトリックは,このほか,ベトナム人の中に多くの信徒をもつ。キリスト教徒はまた,ミャンマーのカレン族,インドネシアのバタク族,タイの山地少数民族,華僑などのなかにも多く見いだされる。

 イスラムの進出によって圧迫され衰退した古代のヒンドゥー教は,現在,インドネシアのバリ島周辺に約300万の信徒を残すにとどまるが,これとは別に,近代においてインドから移民したヒンドゥー教徒が,都市部を中心とする東南アジア各地に散在している。

 東南アジアにはこれらの外来宗教のほかに,ミャンマーのピー,カンボジアのネアク・ターなどによって代表される固有の土着的信仰が重層的に存在し,民衆宗教の存在形態をさらに複雑なものにしている。仏教徒たちは,仏像の前にぬかずき,経典を唱える一方,ナットを信仰し,ピーをまつり,土地神の祠に供えものをする。

生活のなかの宗教

東南アジアの現代宗教は,いずれも民衆生活と密接に関係して存在し,実践されている点に特徴がみられる。とくに,人口の9割を占める農民の日常生活は,宗教によって規定されるところが大きい。タイやフィリピンの農村における寺院や教会は,村落生活のかなめである。早朝,村内をまわる托鉢僧への食事の供養,日曜日のミサなどは農民の生活の一部となっている。寒暖の変化に乏しい熱帯では,季節のめりはりもまた宗教によってつけられる。タイの人々は雨安居(うあんご)入りの儀式によって雨季の到来を感じ,カチナの祭りによって雨季明けを知る。フィリピンの5月のフィエスタには,全国各地で守護聖人像を先頭に行列がくりひろげられ,国中が沸きかえり,遠来の親族や友人を囲んで,あちこちで旧交を温める光景がみられる。

 それゆえ,農民たちは,宗教から切り離して自己の文化を考えることができない。タイ人,カンボジア人,ラオス人にとって宗教とは仏教であり,同じ社会に住む仲間たちが仏教徒であることは,自明のことと考えられている。同様にしてマレー人にとって,〈イスラム教徒になる(masok Islam)〉ことは,〈マレー人になる(masok Melayu)〉ことにほかならない。このように,東南アジア農民の価値観は,それぞれの民族が伝統的に受け継いできた宗教の価値観と深くかかわっているといってよい。たしかに近年における開発政策は,各国の都市化を進行させ,都市の世俗的価値観が,マス・メディアをとおして農村部に浸透し,農民の伝統的価値観にも変化の兆しが現れ始めている。しかしそれとてもまだ,伝統的価値観を根底から揺るがすまでにはいたっていない。

宗教と政治

宗教が民衆の価値観と不可分の関係をもち,社会統合,ひろくは国民統合のシンボルとしての機能を果たしていることから,そのシンボルの操作は,しばしば政治的にも重要な役割を果たしてきた。たとえばインドネシアでは,国家の基本原則であるパンチャ・シラの冒頭に,唯一神の信仰が掲げられているし,タイでは,〈ラック・タイ〉,すなわちタイの基本的統治原理の一つの柱として,仏教が立てられていて,いずれも不可侵の価値を与えられている。

 国の内部に,これらの優勢な単一宗教と異なった宗教を信奉する少数民族がいる場合,その取扱いをめぐって政治問題の発生することがある。タイ南部や,フィリピンのミンダナオ島に集中して居住するイスラム教徒の分離運動や反政府的活動の事例がよく知られている。ミャンマー(旧ビルマ)ではかつて,15%の非仏教徒の反対を押し切って,仏教の国教化を強行したことによって,政治的混乱が発生した。多民族国家であるビルマは,建国以来世俗国家を目ざし,宗教間のあつれきを避ける政策を採ってきたが,ウー・ヌ首相は,多数派である仏教徒の圧力を政治的に利用して憲法改正を行い,ビルマを仏教国家としようとしたため,非仏教徒の反発を招き,1962年に失脚してしまった。ビルマの新憲法(1974)では,宗教の政治的利用が禁止され,政教分離の原則が明確に打ち出されている。

 このように東南アジアの諸国においては,総じて宗教が文化,社会,政治などの広い範囲にわたって大きな影響力をもっているが,こうした状況と比べると,現代のベトナムでは,宗教の役割が比較的小さいことが注目される。これは,ベトナムの宗教が複合的であって,一つの宗教だけが卓越している状況を欠いていること,したがって,ベトナム人の価値観を排他的に規定するような,特定の宗教が存在しないことと無関係ではなかろう。

石井 米雄

政治,経済

東南アジアを政治的に一つの地域としてきたのは,過去の歴史,とりわけこの地域以外との〈文化的接触〉(B.ハリソンによる)であった。それは,2000年にも及ぶインド,中国,イスラム世界,ヨーロッパといった,つねに自身よりも大きい何かの一部であったこと,歴史における〈受身〉(C.フィッシャー)の役割を演じてきたことに示されている。なかでも重要なのは3世紀近くに及んだヨーロッパの植民地支配であった。

ヨーロッパの植民地支配と孤立

ヨーロッパの植民地支配といっても,各国,各地域,各時代によって実にさまざまなパターンがみられた。複数の植民地権力が並存し,いわば,ばらばらに支配が行われていたことが特徴とさえいえよう。だが,今日にいたるまで影響を及ぼしている,地域全体に共通した支配の特徴は次の三つといえる。

 第1は,〈二重経済〉(ブーケ)である。つまり,もっぱらヨーロッパ経済の必要に応じて導入され,発展させられた近代資本主義経済と,他方その自立的発展が制限され,〈停滞〉を余儀なくされた伝統的農業経済が並立し,しかも後者は前者に一方的に〈搾取〉されるという経済構造である。

 第2は,こうした跛行的経済構造が生まれるに伴い,都市が栄え,農村が貧窮化するというギャップが生じただけではなく,植民地権力の都合で多数の外国人労働者が搬入され,複雑な社会構成がいっそう〈複合〉化した。〈複合社会〉(J.ファーニバル)が形成されたのである。

 そして第3に,こうした複雑な社会構成をもつ植民地社会の統治には,各地域を分断した分割支配と,他方,各地域内の伝統的支配層を温存し,それを利用した間接支配をもって対処したのである。

 このような〈二重経済〉〈複合社会〉そして分割・間接支配こそ,一方では東南アジアを国際的に〈孤立〉(B.ゴードン)させ,他方では各社会での多様性をいっそう進行させたといえる。

独立--多様性のなかの統一

このような,経済的〈停滞〉,多様性,国際的・相互的〈孤立〉を克服すべく登場するのが各地域のナショナリズムであり,そうした運動を結合したものが反植民地主義であった。しかし,ヨーロッパにおけるナショナリズムと異なり,有力な社会層(例えば民族ブルジョアジー)を欠いていたため,運動の主力は植民地官僚や西欧教育を受けた伝統的支配層の子弟である場合が多かった。それだけに,植民地権力の対応が運動を左右しやすく,したがって独立の態様もさまざまで,ある場合は権力の〈禅譲〉(フィリピンやマレーシア),またある場合は〈革命〉(ベトナム),あるいはその中間(インドネシア)といったパターンが生じた。

 しかし,政治的な独立を獲得したとはいえ,経済的・社会的問題が一気に解消したわけではない。むしろ,多様性を維持しながら相互の利害の調整と植民地型経済・社会の変革を同時に遂行することを求められたのである。当然のことながら,変革よりは統一が,民権よりは国権の確保が選ばれることになった。その結果,独立後まもなく,新しい国家は反植民地主義運動に大同団結してきた変革を求める革命グループ(多くは共産党),他方で平等を求める少数民族から激しい批判にさらされ,著しい政情不安に見舞われたのである。

統合の政治--〈上からの革命〉

独立後まもなく襲ってきた政情不安は,1950年代初めより深刻化したアジア全体での東西冷戦と二重写しとなって,各国政権に危機感を抱かせた。こうした危機に対して,多くの政府は,一方で植民地型経済の変革を目ざした工業化政策,他方で主として保守層(伝統的支配層)を丸抱えした一種の名望家支配の形態を採った。それは,こうした国内秩序をもっぱら政府の主導による〈上からの革命〉によって再編成し,経済発展と政治の安定を遂げようとしたものといえよう。

 しかし,この工業化政策(とくに輸入代替工業の育成が主眼)は成功しなかった。何よりも,有力な企業家層や国内資本を欠いていたばかりか,政策の遂行をつかさどる官僚の役割が依然として小さく,有力な政治家による利権の草刈場と化してしまったからである。加えて,資本財の輸入が増え,貿易赤字に苦しみ,結果的に激しいインフレに襲われることになった。また,工業化政策の失敗によって,例えばスカルノのインドネシアのように急激な外国資本の〈国有化〉へと進む場合も含めて,限られた利益の分配を求めてエリート層の対立を激化させたばかりでなく,貧窮化を歩む大衆の不満や不平を増大させたのである。あらためて変革か統一かが問い直される状況にいたったのである。

開発政治の登場--権威主義支配

1960年代半ばになると,一方では米ソのデタント(緊張緩和)が進みながら,ベトナムへのアメリカ軍の介入が本格化した。他方で,各国内での保革の対立はそれまでの〈一国型〉の壁を破って地域全体にまで拡大した。その意味で,東南アジアは地域紛争が激発する最も政情不安な地域へと変貌していった。1955年のバンドンにおける第1回アジア・アフリカ会議と非同盟主義の誕生といった時期とは対照的である。

 こうした内外の危機の深化に直面して各国が選んだのは,より強力な政府による強権的な政治の安定,別の言葉でいえば,国内治安体制の強化と,他方そうした強い政府が本格的に介入した国家主導型の経済開発政策の遂行であった。このような新しい政治の登場は,東南アジアがナショナリズムの時代から近代化の時代に移行したこと,国権か民権かということが争いの軸となるデモクラシーの時代から国家権力の強大化に伴った権威主義支配の時代に移ったこと,〈西側寄り〉とはいわれながら東西対立よりも南北問題へと対外政策の基軸を移動させたこと,を物語っていよう。

 この〈開発政治〉と呼ばれるパターンは,まず経済政策において著しい特徴をもっている。それは,外資の導入,国家主導,国内市場より外国市場への輸出を目標とした輸出代替工業の育成,といった点にみられる。そして,何よりも〈パイを大きくすること(GNPの拡大)〉に主眼が置かれ,それまで経済政策の中心をなしてきた民族間,階層間の利害調整といった役割が大きく後退している点である。

 また政治においてはすでに触れたように,それまで政治のおもな担い手であった政党,そして議会を無力化し,国家を揺るぎない無謬(むびゆう)の存在とし,それへの不平・不満を反国家的として処罰するといった強権政治,つまり権威主義支配を樹立しようとした点が著しい特徴となっている。軍や警察が政治における発言力を増していったのもふしぎではない。

 このような経済開発政策と政治の安定政策が互いに他を正当化するといった権力の自己完結性が強まったことのほかに,もう一つ新しい特徴が加えられた。それは,似たような性格の政権が,かつての〈西か東か〉という選択ではなく,緩やかな地域協力機構をつくり上げ(東南アジア諸国連合),一方では伝統的な地域紛争に対する自立的な〈平和的解決〉の枠組みを設け,他方,共通する〈政敵〉,例えば共産党のゲリラ活動には共同軍事行動によっておのおのの政権の〈強靱性(レジリエンス)〉を高めようとしたことである。

新しい潮流--自立化と民主化

開発政治の登場はそれまでの東南アジアを一変させた。それは第1に,発展途上国のモデルといわれるまでに,高度の経済成長を達成し,南北問題への一つの答えをなしているとされるからである。第2に,これまで頻発した地域紛争を極小化させた。もちろんベトナムをはじめとしたインドシナ諸国との対立を抱えているにしろ,大国の介入なしに,いやむしろ不介入による地域平和の実現への展望を切り開いた。そして第3に,東南アジアはもはや何かの一部ではなく,それ自体の役割をもつにいたった。

 しかし,開発政治は同時に,貧富の格差を大きくし,社会の根底を揺るがし始めた。こうした新しい社会変動に対し,近代化の果実をどう再配分すべきかという新しい問題に直面している。また,あまりにも巨大になった治安機構や軍の政治介入に対し,それを制限し,より自由な政治を実現することを迫られている。加えて,一気に増大した先進国への依存の体質をどう克服するかが問われ始めた。

 このような新しい課題はどれ一つとっても一国だけで対応しきれるものではないばかりか,大幅な国内政治・経済の変革なしには遂行しうるものでもない。その意味で,国際環境やそれとの関係が重要性を増しているといえる。

日本と東南アジア

今日の東南アジアの対外関係の中で抜きんでて重要なのはアメリカ,中国,日本との関係である。なかでも日本は第2次大戦の時代の軍事占領以来,特殊な関係をもっている。

 戦後,対日感情の改善と復興を目的とした戦争賠償以来,日本は一貫して東南アジアとは経済関係を中心に相互関係を築いてきた。しかし,市場,資源の確保とか投資先といったやや一方的な関係になりがちであったことが,戦争時代以来の反日感情と重なって,たびたび反日運動(例えば1974年のジャカルタ暴動)の形をとって批判されてきた。こうした紆余曲折を経て,今日では日本が東南アジアにとって貿易などの面で最重要国の一つとなっているばかりでなく,日本にとっても東南アジアはアメリカに次いで重要な相手先となっている。このような相互依存の深まりは,相互理解をいっそう進めることを必要とするだけでなく,一方的になりがちな両者間の関係を本格的に再構築する必要があることをも意味する。

 冷戦終結を機に,APEC(アジア太平洋経済協力会議)など多角的な協力関係の樹立が進み,日本の新しい役割が求められている。東南アジアの多様性という現実を踏まえた長期的展望,つまり自立化と民主化という新しい潮流に沿った相互的関係の樹立が今問われている。

鈴木 佑司