平凡社 世界大百科事典

ドイツ社会民主党

ドイツの有力な政党。略称SPD。この党名は1890年以来のものだが,党としてのその歴史はもっと古い。

1875年まで

1830年代に始まったドイツの社会主義的ないし共産主義的運動と労働運動は,48年革命期に高揚したが,革命の挫折とともに抑圧され,インターナショナル)の立場に支持を表明するに至った。

 69年8月,VDAVのゴータ綱領)にマルクスが厳しい批判をもっていたことからも知れよう。

1875-1917年

同党は1877年の帝国議会選挙で得票率9%強の勢いを示した。これに対して社会主義者鎮圧法を制定するとともに,80年代には各種社会保険を導入して労働者を国家に統合しようとしたが,弾圧はかえって労働者の階級意識を育てる結果となった。合法活動の許されていた帝国議会選挙において,90年に同党は得票率では早くも第一党(19.7%)になっている。

 同年9月,社会主義者鎮圧法が失効すると,同党は党名をドイツ社会民主党と変え,ベーベル,ジンガーPaul Singer(1844-1911)を中心とする指導部を選び,翌91年には明確にマルクス主義に基づくエルフルト綱領を採択して,新たな合法活動に備えた。その後,さまざまな法的・社会的規制にもかかわらず,同党が大衆政党に成長していったことは,党員数が1905年に38万5000人,13年には108万5000人に伸びたことが示している。05年から始まった中央集権的な組織の整備とともに,12年には397の選挙区のすべてに党組織が存在するに至り,12年の帝国議会選挙では,得票率34.8%,議席397中110を獲得して第一党となった。中央機関紙の《フォアウェルツVorwärts(前進)》(1914年の予約購読者数16万)をはじめ,各地に機関紙があり(1913年には90の日刊紙),理論機関誌《ノイエ・ツァイトDie Neue Zeit(新時代)》(1883年創刊,1917年までカウツキーの編集)は1911年に発行部数1万を超えた。また,1890年に実質的に発足した〈自由労働組合Freie Gewerkschaften〉は,社会民主党と密接な関係を保ちつつ,中央集権的・産業別組織に成長し,1913年には250万人を擁するまでになった。国際的にも,同党は第二インターナショナルの主導的存在として重きをなした。

 こうした組織と議席の伸張は,各地域の日常活動に支えられており,革命志向より改良実践の比重を増すことになった。とくに南ドイツでは,農民層の獲得や自由主義政党との協力の必要がK.リープクネヒトらを指導者に非合法の反戦・革命運動を行っていたスパルタクス・グループもそれに参加した。

1917-33年

多数派社会民主党(MSPD)と自由労働組合は戦争協力を続け,労働者大衆の急進化に対してはもっぱら受動的に対応することによって組織を維持した。1918年11月にドイツ共産党(KPD)は社会主義革命を目ざしたが,MSPDの組織の伝統の力を破ることができないまま,19年1月,共和国初の議会選挙を迎えた。その結果,MSPDは得票率37.9%,421議席中163を占めて,中央党,民主党とともに政権を担当するに至り,初代大統領には同党のエーベルトが選ばれた。こうして体制内存在となった同党は,21年のゲルリッツ綱領で民主共和制と自由の擁護を前面に押し出したのである。翌年,USPD(その左派は20年にKPDと合同していた)の大部分がSPDに復帰し,新たに同党の左派となり,25年のハイデルベルク綱領ではエルフルト綱領のマルクス主義的社会分析が復活したが,改良主義的な党の性格は変わらなかった。その性格は自由労働組合の実質的な発言権の増加によりいっそう強固なものとなっていた。

 たしかにワイマール共和国において,SPDは80万~100万の党員,20~30%の国会選挙得票率を維持し,さまざまな関連労働者組織を擁して民主共和制の擁護,労働者の権利の拡張に大きな役割を果たした。中央政府に参加したのは1919-23,28-30年だったが,プロイセン・ラントでは32年まで一貫して与党であった。しかし,組織温存,待機主義が体質となっていた同党は,圧倒的に反民主主義・反共和制的な支配階級に対して守勢の枠にとどまり,とくに青年層の支持を徐々に失っていった。29年の経済恐慌とともに政治危機が始まっても積極的政策を欠き,支持者の一部をKPDに奪われる一方,ナチスの躍進に対して反撃の機会を逸し続けた。

1933-45年

1933年1月のヒトラーの政権掌握の意味を著しく過小評価した点でSPDも例外でなく,妥協による組織温存を図ったあげく,半年のうちに自由労働組合とともに解散させられた。党指導部がプラハに逃れ国外組織(ゾパーデSopade)を作ったほか,ある者はイギリスなどに亡命し,ある者は国内で非合法活動をなお数年続け,そして多くが強制収容所に送られた。

西川 正雄

戦後

1945年ナチス・ドイツの敗戦後に,米英仏ソの4占領地区で再建が行われ,ソ連地区のSPDは46年共産党と合併しドイツ社会主義統一党(SED)が結成される。西側占領地区では46年5月第1回党大会が開かれ,シューマッハーKurt Schumacher(1895-1952)が党首,オレンハウアーErich Ollenhauer(1901-63)が副党首に就任。シューマッハーは10年以上をナチスの強制収容所で送った反ナチス闘士であったが,同時に反共の闘士でもあった。49年の第1回総選挙では,SPDは得票率29.2%でキリスト教民主・社会同盟(CDU/CSU)に次いで第二党となり,66年まで野党の地位にとどまる。シューマッハー時代のSPDはドイツ再統一など民族主義的な方針を掲げ,アデナウアー政権の西側統合,再軍備政策に反対した。52年シューマッハーの死後,オレンハウアーが後継者となるが,前者の時代が党再建の時代であれば,後者のそれは停滞と模索と転換の時代と特徴づけられる。SPDの低迷を救う転換の基礎となったのは59年のブラントが党首となり,66年にはCDU/CSUと大連立政権を構成する。立役者は後に院内総務として実力をふるったウェーナーHerbert Wehner(1906-90)であった。大連立政権は東方政策をめぐる意見の相違から解消され,69年SPDと自由民主党(FDP)の連立政権が成立し,ブラントは首相となり,72年の総選挙では得票率45.8%を得て,戦後はじめて第一党となった。74年にはシュミットHelmut Schmidt(1918- )が首相の地位を引き継ぎ,1970年代を通じてブラント(党首),シュミット(首相,副党首),ウェーナー(院内総務)のトロイカ時代が定着する。

 1960年代末の学生の反乱はSPDの体質変化に大きな影響を及ぼす。60年代の末からAPO(院外反対運動)世代がSPDに大量入党しはじめ,一時マルクス主義の復活がみられた。党青年部に当たるJUSO(ユーゾー)(Jungsozialistenの略)は党の社会主義化を目ざして指導部と対立するが,70年代後半にはその勢力は弱まっていった。SPDの国民政党化への道は非労働者党員の割合を著しく高めるとともに,党の左傾化をうながすという逆現象が生じた。右派が労組系党員を足場にすれば,左派は知識階層,中産階層を基盤とした。しかし70年代後半から党内の左右の規範が変化しはじめたことは注目される。それはかつてのようにマルクス主義をめぐる立場ではなく,エコロジーをめぐるものとなり,エコロジーや反核運動へのアプローチは左派の関心事となった。82年10月シュミットが連邦議会で不信任されたことにより,66年から16年間続いたSPDの与党時代は終わる。同年ウェーナーも引退し,トロイカ指導部で残ったのはブラントのみとなったが,彼の死(1992)後,後任者のフォーゲルHans-Jochen Vogel(1926- )を経て,いわゆるブラントの孫たちの世代により党指導部の若返りが進行した。全党員数は2003年現在約65万人。

仲井 斌