平凡社 世界大百科事典

社会主義

生産手段の私有と私的管理,労働力を含む商品の自由競争という資本主義社会の原則を批判して,生産手段の共有と共同管理,計画的な生産と平等な分配を要求する思想と運動,また,その結果具現された社会体制を広く社会主義と呼ぶ。社会主義という用語は,このように思想,運動,体制の次元にわたり,時には資本主義の個人主義的な利潤追求欲に対立するものとして集団主義的な友愛の連帯という倫理の次元までも含んで用いられるために,内容的には多義にわたらざるをえない。そして個々の社会主義的政策をめぐって社会主義者の間に深刻な対立が生じることも稀ではない。たとえば,ある社会主義者は生産手段の全面的な国有化を主張し,他の社会主義者は生産手段の国有化は一部にとどめ,資本主義と社会主義の混合経済,あるいは市場社会主義を唱える。

 国家権力によって社会主義を施行しようとする国家社会主義にたいしては,労働者による生産の自主管理,地方自治体や協同組合への権力の分権化を要求する社会主義もある。

歴史

社会主義の誕生

社会主義の思想は,産業革命にともなう不正と不平等と貧困にたいする抗議として誕生するが,いったん思想として形成されると,古代ギリシアの哲学者プラトンの描いた〈国制〉,16世紀初めのモアの《ユートピア》,18世紀啓蒙思想家の提出したさまざまの理想社会像にその起源が求められることになった。しかし近代的な意味での社会主義という用語は,およそ1830年前後に,フランスでは空想的社会主義と呼んでみずからの科学的社会主義をそれに対置させた。それまでの社会主義が資本主義の悪弊にたいして人間主義的,道徳的な非難を向けたのにたいして,マルクスは過去の歴史と資本主義の現実にたいする科学的分析のうえに社会主義を構想した。これまでの歴史は階級闘争の歴史であり,資本主義社会における資本家階級と労働者階級の闘争はやがて労働者階級の支配する社会主義社会にいたると展望された。こうして社会主義は,労働者階級の運動と理解されることになったのである。

第一インターナショナル

1864年に,イギリスとヨーロッパ大陸の労働運動の代表と少数の知識人によって国際労働者協会(第一インターナショナルの名で歴史上知られるようになった。〈インターナショナル〉の項参照)が結成された。それには労働組合主義から無政府主義にいたるさまざまな潮流が流れ込んでいたが,マルクスはその創立に参加し,マルクス主義を流布する手段として用いようとした。協会の本部はロンドンにおかれていたが,マルクス主義的な革命的社会主義は労働運動が早くから成立していたイギリスには広がらず,大陸で,とくにドイツで強力に発展することになった。

 ドイツでは,エルフルト綱領を採択した。この党は第1次大戦前の最後の選挙となった1912年の選挙では,425万票,全投票数の3分の1以上を獲得して,ドイツ帝国議会で最強の政党となった。

社会主義の分裂

1840年代,50年代のマルクスは,暴力革命による社会の革命的転覆と〈プロレタリアート独裁〉による労働者階級の支配を唱えていたが,60年代末には資本主義の十分な成熟を経てはじめて社会主義が可能になるという長期的な展望を抱くようになった。とくに1867年のイギリスの第2次選挙法改革によって,都市労働者上層にまで選挙権が拡張されるとともに,議会を通じて平和的に社会主義を実現する可能性を論じるようになった。彼は,アメリカ合衆国やオランダについても同じように平和的な社会主義実現の可能性を予想していた。したがって,同じマルクス主義の名のもとに,革命的社会主義と漸進的社会主義の双方を主張することが理論的に可能であった。

 ドイツ社会民主党の指導者は,革命的マルクス主義の言葉を語ってはいたが,現実には議会活動に専念していた。党の理論的指導者ルクセンブルクらは,ゼネラル・ストライキによる権力奪取という革命的変革の展望を抱いていた。

 ベルンシュタインの修正主義と,カウツキーに代表される党主流との闘争は,1903年の党大会決議によって形式的には修正主義の敗北に終わったが,現実に修正主義は党の体質に浸透しており,第1次大戦が勃発すると党指導者は政府を支持し,党の革命的言辞が空文句であったことをおのずから露呈した。

第二インターナショナル

第一インターナショナルが1876年に解体されたことは,国際的な社会主義が一つの中心部から指導することはもはや不可能になったことを示していた。それ以後の社会主義の歴史は,各国における社会主義政党の発展の歴史であった。20世紀初頭には,ヨーロッパの多くの国で社会主義は強力な議会勢力であった。専制的な皇帝支配が存続したロシアを別とすれば,ヨーロッパの社会主義の主流は既存の体制の漸進的・議会主義的改革を志向する改良主義によって占められており,革命的変革を望む左派は少数勢力であった。

 1889年に設立された第二インターナショナルは,このような運動の性質を反映して,統一された国際的運動というよりいわばヨーロッパ社会主義の議会とでも呼ぶべき性質の組織であった。そしてヨーロッパ最大のドイツ社会民主党が大きな影響力をもった。1870年代以降,デンマーク,スウェーデン,ノルウェー,オランダ,ベルギー,オーストリアに社会民主党が成立しており,資本主義の発展に遅れたイタリア,スペインには第一インターナショナル以来のバクーニン派無政府主義の勢力が強かったが,それでも第二インターナショナル系統の政党が生まれていた。

 一方,先駆的な資本主義の発展を遂げたイギリスでは強力な労働運動が存在しており,自由党と提携して社会立法を成立させる圧力団体的な能力を早くからもっていたために,全国的な社会主義政党の結成についてはかえって他の国に遅れた。H.M.ウェッブ夫妻の影響のもと,〈分配と生産の手段の公有〉という明確に社会主義的な綱領を掲げるのは,第1次大戦末期の1918年のことであった。

 パリ・コミューン敗北以後のフランスでは,マルクス主義者のJ.ドレフュス事件でフランスの政治諸勢力が大混乱に陥り,99年には共和国防衛を目的として結成された急進派ワルデック・ルソーの内閣に社会主義者A.E.ミルランが入閣した。この社会主義者の政権参加は第二インターナショナルの重要な議題となり,1904年のアムステルダム大会ではドイツ社会民主党の影響のもとに,入閣を支持したJ.ジョレスの立場が否定された。第二インターナショナルは,迫りつつあった戦争の危機にたいして労働者階級の国際的連帯によって平和を守るという反戦決議を何度もおこなっていたが,大戦の前夜にはジョレスが暗殺され,各国社会党の主流はそれぞれの政府を支持して戦争協力に踏み切った。《共産党宣言》で,マルクスは〈労働者は祖国をもたない〉と書いたが,労働者階級もまた守るべき祖国をもっていることが明らかになった。

コミンテルンと戦間期の社会党

ロシア社会民主労働党の革命的左派ボリシェビキの指導者コミンテルン(第三インターナショナル)の結成を提唱した。コミンテルンは,各国社会民主党は労働者階級を裏切り,むしろ資本主義を維持する重要な支柱になっていると攻撃した。そして既存の党機構を分裂させて,中央集権的な強固な組織を有する共産党を各国に結成しようとした。〈社会民主主義〉は,共産党員にとっては悪罵(あくば)の言葉となり,社会主義勢力は共産党と社会党に分裂した。

 ドイツでは,社会民主党はワイマール共和国を支える主柱となったが,共産党は社会民主党を社会ファシストとして攻撃し,プロイセン議会ではナチ党とともに社会民主党政権にたいして不信任投票を投じたこともあった。イタリアでは社会党は大きく分裂し,ムッソリーニの政権掌握を容易にした。ドイツ,イギリス,スカンジナビア諸国の社会民主党と労働党は,何度か政権に参加し,フランスではブルジョア左派政党とともに連立政権に参加した。しかしスウェーデンとベルギーを除いて,いずれも正統の財政政策をとり,おりからの深刻な大不況に有効に対処できなかった。

第2次大戦後の社会主義

第2次世界大戦後,西ヨーロッパの社会主義政党は,混合経済とケインズ的景気政策のうえに社会福祉国家の樹立を主要な目標にするようになった。もともとマルクス主義の影響が弱かったイギリスでは,大戦直後の選挙で労働党がはじめて絶対多数の議席を得て,社会福祉国家を実現した。西ドイツの社会民主党は,1959年のバート・ゴーデスベルク大会でマルクス主義との絶縁を宣言し,福祉国家の拡大を志向する改良主義政党となった。

 しかし,世界的にみたときに,社会主義勢力は増大した。社会主義国はソビエト一国から東ヨーロッパ全体へと広がり,東欧圏と呼ばれる社会主義地域をもつにいたった。また,1959年にはカストロの指揮の下でキューバは社会主義化を進め,61年には中ソ論争などがある。

 それにたいして大戦後に独立を達成した第三世界においては,社会主義は急速な工業発展のためのイデオロギーとなった。ソ連は後進国の工業発展のモデルと目されるようになり,一党支配や軍事独裁の国を含めて多くの国が,それぞれの国の流儀での社会主義を名のるようになった。北アフリカの諸国では,フランス人の教師や公務員の影響のもとに社会主義が広がり,チュニジア,アルジェリアでは植民地支配にたいする闘争を支える思想となった。アラブ諸国では,シリアに樹立されたバース党の思想となっており,シリア,イラクで政権を担当しているが,具体的な社会主義政策を実施してはいない。アジアではいわゆる社会主義国以外でも,社会主義はインド,ミャンマー,スリランカ,シンガポール,インドネシアで公認の原則となっているが,西欧的な多元的政治体制を維持しているのはインドだけである。

 世界の何百万の人々が,社会主義の約束する平等で民主的な友愛の社会に憧れを抱いているが,ソ連をはじめとする共産党独裁の国々における全体主義的政治体制と経済発展の停滞も重なって現実の社会主義は多様に分裂し,当初の魅力を失った。西ヨーロッパとアメリカ合衆国では社会主義とは社会福祉政策と同義の言葉となった。資本主義的市場経済と社会福祉との共存が先進諸国の課題となっており,社会主義は〈体制〉としてではなく〈政策〉として理解されることとなった。→ユーロコミュニズム

河合 秀和

日本の社会主義運動

初期社会主義

欧米諸国で展開されていた社会主義思想や運動は,文献や海外旅行者の見聞をとおして,明治の初期から紹介されていた。とくに1880年代のアメリカは時代思潮の転換とともに社会主義と労働運動の台頭期にあり,アメリカでの生活は日本人に新たな思想をもたらした。それはキリスト教社会主義であり,都市での社会事業であり,社会民主党も結成された(即日結社禁止)。このような社会主義の一連の動向にたいして,政府は1900年に治安警察法を制定して,集会・結社・言論に制限を加え,運動・争議弾圧の武器とした。

 日露開戦の気運のなかで,非戦論を主張しつづけた堺利彦,幸徳秋水らは,1903年11月大逆事件によって,社会主義運動全体は〈冬の時代〉に入った。

 〈冬の時代〉の弾圧下で社会主義勢力を維持しつづけたのは,堺を中心とする亀戸事件はアナルコ・サンディカリスムの勢力を決定的に衰退させた。

コミンテルンと社会主義運動

ロシア革命の成功によって,アナ系組合からボル系(共産主義)に移る者は増大し,1922年にはコミンテルンの指導のもと,治安維持法が制定され,社会主義運動は弾圧下におかれた。

 1925年に日本農民組合(四・一六事件(1929)によって活動はますます困難になっていった。

 1931年の満州事変の勃発によって日本の中国大陸への侵略は一段と進み,国内も戦時体制化へと進んでいった。この日本の状況に対して,日本共産党は,日本資本主義はすでに高度に発達し,帝国主義の段階にあるとして,〈政治テーゼ〉(31年テーゼ)草案を作成し,コミンテルンに提示した。しかし,コミンテルンはそれを承認せずに,〈転向〉現象が大量に起こった。これ以後,各地に分散している共産主義者によって,地下活動として反戦運動がなされたが成功しなかった。

 唯一最大の無産政党としてあった人民戦線事件で壊滅した。この結果,社会主義運動は逼塞(ひつそく)状態に陥り,運動とはまったく関係のない活動をするか,沈黙を守ることで抵抗するなどが精いっぱいであった。戦時中の反戦運動は,野坂参三を指導者として,中国において続けられた。1940年に結成された日本兵士の〈反戦同盟〉,42年の在華日本共産主義者同盟,44年の日本人民解放連盟などがそれである。

大塚 孝嗣

社会主義経済

1984年初頭,ソ連をはじめ世界でおよそ17を数える社会主義国があるが,体制としてどこまで〈社会主義〉といいうるかについては,近年,多くの疑問が提起されている。1970年代以降のソビエト・マルクス主義の公式見解では,ソ連の現在の発展段階が,フルシチョフ時代の1960年代初めに打ち出された〈共産主義の展開的建設期〉という規定からいくらか後退して,〈発達した社会主義〉と規定されているとしても,マルクスの《ゴータ綱領批判》(1875)にいう広義の共産主義社会の第1段階(社会主義)のなかに位置づけられていることでは,基本的に変りはない。

 しかしながら,社会経済体制としての社会主義は,資本主義社会で達成された高度な生産力と市民社会の民主主義を,生産手段の社会化を軸とする変革を通じて発展的に継承するところに成立する,というのがマルクスの原理的な社会主義像であったと考えられる。であればこそ,それは人間解放の理念と結びつけられたのであった。後進国的な条件のもとで成立し,社会主義という制度的枠組みがむしろ国の工業化,近代化のための手段として利用された(あるいは現に利用されている)現実の社会主義が,この理念像と著しくかけ離れたものであることは,自明の理に属する。同時にまた,ひとつの経済体制としてみるとき,それが資本主義とは異なった制度的特徴と作動の論理をもっていることは,否定さるべくもない。経済体制というものが何よりもその作動の論理によって区別されるとすれば,後述する1960年代の経済改革以降,市場的要素をより多くビルトインするようになったとしても,少なくとも原理的にはマクロ・レベルで意識的に採択される意思決定をもとに作動するこのシステムは,資本主義とは明らかに異なった制度類型に属する。ここでいう社会主義経済とは,こうした意味での〈現実存在としての社会主義〉の経済のことである。

成立の事情

上記の意味での社会主義経済が地上に初めて姿を現したのは,いうまでもなくロシアの十月革命以後のことであるが,それがいちおうの制度的完成をみたのは1930年代半ばであった。第2次大戦後,歴史や経済的諸条件がソ連とは著しく異なる東ヨーロッパ諸国や中国その他の国が社会主義の道を選んだとき,原型として採用されたのは,30年代にソ連で成立したこのモデルであった。労働者自主管理と市場経済を結びつけた1950年以降のユーゴスラビアの路線,挫折したチェコスロバキアの〈プラハの春〉(1968)当時の改革構想,同じく挫折したポーランドの〈連帯〉の闘争期に提起されていた改革構想は,いずれもこの基本モデルからの離脱ないし,離脱の試みであったということができる。他方,その他のソ連・東欧諸国では,60年代半ばの経済改革以来,漸進的な変化は進んではいるものの,ハンガリーを除いて,このモデルからの原理的脱却はなおおこなわれていない。

 1930年代にソ連で成立した社会主義計画経済制度は,極度の中央集権を特徴とするものであった。農業の個人副業(自留地)経営とコルホーズ商業(自由市場)を除いて,社会的生産物の生産,流通,分配を集権的な中央計画でカバーし,市場的な要素が極端に排除ないし抑圧されているのが,その基本的な性格をなしていた。

 こうした型の社会主義経済制度ができ上がった理由としては,次の三つが考えられる。第1は,マルクスおよびマルクス以後のマルクス主義が,社会主義経済を一種の非市場的経済とみなし,資本主義対社会主義という体制次元の問題と,市場対計画という機能システム次元の問題とを同一視してきたことである。生産手段を社会化したならば,社会全体を〈ひとつの工場〉のように運営できるだろうというイメージは,マルクスに発している。

 第2は,十月革命からわずか8ヵ月後,1918年6月から21年3月まで,国内戦と外国干渉戦という非常事態のもとで施行された〈ネップ(NEP=新経済政策)による混合経済への移行にもかかわらず,清算されなかった。

 第3に決定的であったのは,1928年の第1次五ヵ年計画の開始とともに始まった工業化計画が,資源の集中的配分を必要としたという事情である。これは後進国のたんなる工業化計画ではなく,世界資本主義の包囲下で孤立した社会主義国が,もっぱら自国の資源に依拠しつつ,およそ10年という短期間に,重工業・国防優先の工業化を達成する,という死活の要請によるものであった。ここから必要とされる極端に傾斜した資源配分は,市場機構によっては達成できず,逆にその排除を必要とする。ソ連型の集権的な計画経済制度がつくりだされたのは,行政的資源配分を可能にする〈装置〉としてであって,それが一方では意思決定の高度集中と行政的指令方式,他方では市場機構の極度の排除という特徴を帯びたとしても,少しも不思議なことではない。以上からして,このモデルが社会主義経済の一般型を代表するものでないことが明らかとなる。

モデル論と政治システム

上記の点をよく理解するには,ポーランドの経済学者ブルスWłodzimierz Brus(1921- )の社会主義経済機能モデル論を顧みる必要がある。ブルスによると,社会主義経済における経済的意思決定は,(1)マクロ経済的決定,(2)経常的企業活動に関する決定,(3)個人的消費と雇用に関する決定,の3グループに分けられるが,(1)は中央に握られ,(3)が(平時経済である限り)個人にゆだねられることは,集権モデルにも分権モデルにも基本的に共通するから,二つのモデルの違いは,(2)が中央に吸収されているか,企業の自主性にゆだねられているかによって決まることになる。

 この観点からすると,集権型の計画経済とは,(3)グループの意思決定を除き,(1)(2)両グループの意思決定が中央に集中されている単一レベル意思決定one-level decision makingモデルということになる。1930年代初め以来,ソ連の企業法は,ソ連の企業を〈法人格をもつ経済計算単位〉と規定してきたが,実際には,中央計画を多数の義務的指標に分解breakdownして企業に下達するシステムをとってきたため,企業の経常的意思決定は,事実上,中央に吸収されているのに等しかった。

 したがって,このモデルは,〈業務上の管理権〉という形で企業に一定範囲の裁量権を与え,また〈経済計算制(ホズラスチョート)〉というかたちで物動型の計画を財務的指標で補完している点からすれば,戦時共産主義のように完全非パラメーター型(直接指令型)の経済ではなく,一部に混合的要素を含んでいたが,全体としては非パラメーター型の行政的・指令的経済に属するものであった。しかしながら,集権型経済における多くの欠陥や作動上の困難は,皮肉なことに,意思決定の過度集中と経済の自己制御機構としての市場機構の排除という,まさにこの2点から発生するのである。

 社会主義の計画経済一般,とりわけ集権型のそれは,たんなる経済システムとみなすべきではない。ブルスによれば,国家の経済への介入にともない,〈経済の政治化〉は現代資本主義でも進行している不可逆的な過程であるが,社会主義とはある意味でそれを可能な極限にまで推し進めたものであるから,そこでは史的唯物論にいう〈土台〉と〈上部構造〉の関係は逆転し,経済関係は政治関係にもとづいて成立している,という。ここから彼は,生産手段の公的所有public ownershipと社会的所有social ownershipとを峻別(しゆんべつ)し,前者を後者に転化していくのは何よりも政治体制の民主化であるとして,それを〈過程としての社会化socialization as a pro-cess〉と名づける。社会主義の経済システムを考える際に見落としてはならないのは,以上のような政治システムとの関連である。

 1930年代に成立した集権型の経済体制は,スターリン体制と呼ばれる専制的政治体制と表裏の関係にあった。この政治体制の核心をなす〈国家化〉した党の権力独占は,スターリン批判(1956)後の一定の修正や緩和にもかかわらず,基本的に変わっていない。そのことが経済システムの改革にも,大きな限界を設定している。

社会主義経済の基本標識

一般に社会主義経済の基本標識としてあげられるものも,上記の考察と切り離すことはできない。

所有制

1977年10月制定のソ連新憲法を例にとると,生産手段の社会主義的所有には,(1)国家的(全人民的)所有,(2)コルホーズ的・協同組合的所有という二つの基本形態があり,副次的に(3)労働組合その他の社会団体の財産も社会主義的所有とされている。他方,(4)〈個人的所有〉というのは〈私的所有〉とは異なった概念で,勤労所得にもとづく個人所有の消費財や家財,住宅および〈家内副業経営の物品〉などを指す。これとの関連で,コルホーズ農民や一般市民の副業(自留地)経営も〈個人的所有〉の特殊な形態として認められているし,個人労働ないし家族労働にもとづく家内手工業,農業,サービスその他の経済活動が,法律にもとづいて許可されることになっている。

 したがって,生産手段の公有制といっても,基本的生産手段の公有制といったほうが正確であり,運用いかんによっては多様な所有・経営形態の組合せを可能とする枠組みをもっている。事実,最近のハンガリーや中国はその方向に向かいつつある。しかしながら,〈モデル論と政治システム〉のところで述べたことからも明らかなように,公的所有(国家的所有)はそのまま社会的所有(全人民的所有)ではありえない。それは直接には,国家に〈総括〉され〈媒介〉された所有という疎外性をもつが,この疎外の程度は,国家のあり方(民主性の程度)と経済管理をめぐる意思決定の構造(集権・分権の程度,生産現場における労働者の管理への〈参加〉の程度)に大きく左右される。この角度からみるとき,国家的所有は〈公的所有〉の一形態ではあっても,そのまま〈社会的所有〉ではありえない。同様に,コルホーズ的・協同組合的所有も,コルホーズの経済活動にたいする国家的規制の強さから,協同組合員の真の集団的所有とはいえず,〈国家化〉された所有に近い性格を帯びている。ユーゴスラビアの労働者自主管理は,公的所有のもとでの管理の重要性に着目して,この側面から公的所有にともなう〈疎外〉の克服を図ったものと考えることができる。

計画経済

〈社会の経済的な事柄が原理上,私的領域ではなくて,公共的領域に属するような制度的類型〉(J.A.シュンペーター)である社会主義経済は,計画化と切り離すことはできない。現代資本主義の経済にも存在する計画化が,基本的には指針的計画化indicative planningであって拘束力をもたないのに対し,社会主義における計画化は,その包括性,深さ,強度の点でそれとは質的に区別される。計画経済planned economyと呼ばれる理由は,ここにある。しかしながら,計画経済の本質は,経済発展過程にたいする社会の〈意識的制御〉にあるから,この〈制御〉が実現される様式(行政的・指令的方法か,市場機構を利用した間接的・経済的方法か)によって,集権型計画経済と分権型計画経済の違いが生じ,その間にはさまざまな変型がありうる。後述する経済改革とは,通常,前者から後者への移行の意に解されているが,見落としてはならないのは,それが生産の場における〈参加〉の問題と大きなかかわりをもつことである。集権型の経済が企業の自主性を奪うことによって,勤労者の参加の余地をも失わせているとすれば,計画経済のタイプの問題は,たんなる経済の機能システムの問題にとどまらない広がりをもつ。

労働に応じた分配

社会主義では,国民所得のうち,社会の成員の個人的消費(個人的消費フォンド)は,各人が社会に提供した労働に応じて分配される(能力に応じて働き,労働に応じて受け取る),というたてまえになっている。これは不労所得の廃止という意味では平等であるが,個人の労働給付能力の不平等と個々人の家族構成の違いのため,現実の所得(消費)の格差を解消することはできない。この格差は,労働がまだ生計の手段という性格を失っていないため,労働にたいするインセンティブ(刺激誘因)を維持するためにも不可避であるとされている。

 〈労働に応じた分配〉は,実質的な不平等を解消しえないところから,〈ブルジョア的権利〉の残存といわれているが,社会の共同消費フォンドからの有形,無形の各種の給付(年金,多子手当など各種の手当,無償の医療や教育など)は,この実質的不平等を緩和することを目的としている。しかしながら,とりわけ高等教育の場合,高所得層が共同消費フォンドの配分により多くあずかり,それが社会階層の固定化につながるといった矛盾が生じており,共同消費フォンドの役割には一義的に規定できない複雑なものがある。社会主義における階層構造についていえば,たんなる所得格差よりも,むしろ,政治システムの構造に照応して構築されているところに,その特色がある(いわゆる〈ノーメンクラトゥーラ〉)。

 〈労働に応じた分配〉は,制度化が複雑であるばかりか,国家の政策的考慮(優先度)やインフォーマルな〈労働市場〉の影響のため,その実現は多かれ少なかれ近似的なものとなるほかはない。近年,とりわけ重要なのは,経済の効率化から要請される企業実績と所得のリンクが生み出す矛盾である。労働にたいする経済的刺激の強化は,企業実績とリンクした所得格差の拡大をともなわずにはいないが,これは社会主義における伝統的な価値観としばしば矛盾し,しばしば社会的な抵抗を呼び起こすことが少なくない。したがってこの分配原則の実現は,多かれ少なかれ妥協的なものとならざるをえない。以上のように,社会主義経済の基本標識とされるものの実現そのものも,現実には少なからぬ矛盾をはらんでいることがわかる。

経済改革

改革構想の基本点

経済改革をモデル論的にいえば,〈モデル論と政治システム〉のところで述べた分権モデルに移行することにある。これによって企業の自律性が与えられれば,ミクロ経済主体間の連関は大きく市場化されることになるし,他方,マクロ経済的意思決定は中央に留保されるから,経済改革が〈計画〉と〈市場〉の結合という問題を軸にして転回してきたのは,怪しむに足りない。伝統的な計画経済制度を支える理論的基礎が〈計画〉と〈市場〉の非両立論であったとすれば,それが両者の両立論に変わったのは,まさに180度の転回といいうる。その背景には,スターリン批判(1956)後の経済論争があった。この論争は,まず,〈価値法則〉や〈商品生産〉のような抽象的カテゴリーをめぐる論争として始まり,1960年代半ばには〈計画〉と〈市場〉の問題に収斂(しゆうれん)されていって,経済改革に理論的基礎を提供したのである。

 経済改革の問題を比較経済体制論的に考察すると,次のようにいうことができよう。資本主義経済で市場機構が果たしている機能は一般的にいえば,個別資本の自己増殖運動と競争とを通じて,社会の多様なニーズに応じた資源配分と,労働支出の節約(効率上昇)の二つが実現されることであるが,社会主義では,この二つが個別資本の利潤追求運動を通じて自動的に処理されるというメカニズムはなくなる。しかし,二つの問題自体は,経済社会の進歩を前提とする限り〈超体制的〉な課題であるから,計画化という別のかたちで解決することが要請される。ところが,計画化でこの二つの課題を解決できるかは,(1)計画化が正確な社会的労働計算に立脚しているか,(2)中央の情報処理能力の限界からして,中央と各級レベルとの間に意思決定の適切な配分がなされているか,(3)インセンティブが適切に組織化されているか,の三つに大きく左右される。伝統的な計画経済制度でこの三つが未解決のままであったことは,今日では広く知られている。(1)については伝統的な計画作成が物財バランス中心の数量計画を主としていたため,価格的な指標は経済計算用具としての機能を大きく失うことになった。現物タームの直接労働計算はいうまでもなく不可能であるから,計画化は正確な社会的労働計算に立脚したものとはいえなくなる。(2)については意思決定の過度集権により,(3)についてはインセンティブ・システムの不整合性からくる経済主体間の利害背反のために,いずれも解決に遠かった。したがって,そこにおける市場機構の克服は〈擬制〉にすぎず,市場機構に代わって先にあげた二つの〈超体制的〉課題をより効果的に処理しえたのではなかった。

 以上のように考えれば,経済改革をめぐる動きが,集権・分権の問題と並んで,市場経済のカテゴリーの利用,価格機構の〈復権〉の問題をもう一つの軸として転回しているのは,当然すぎるほど当然のことである。言い換えると,それは資本主義経済にビルトインされている効率化のメカニズムの〈シミュレーション(模擬)〉であって,1930年代の〈経済計算論争〉の意味が〈東〉の世界でも前向きに評価されるようになった理由も,そこにある。

改革後の経済制度の諸類型

ソ連・東欧諸国の経済改革の第1波は,1960年代半ばから70年代初めにかけて展開された。ついで1972-73年ころを境に,再中央集権化ともいうべき時期に入り,経済改革は後退するが,1970年代後半期に表面化した経済困難の圧力のもとに,79年ころから新しい修正の模索が始まる。改革第1波の時期にすでに〈新経済メカニズム(NEM)〉を打ち出していたハンガリーは,この時期に改革第2波を開始し,さらに80年代後半期に向けてより大胆な第3波の改革構想を準備しつつある。他方,毛沢東の死と〈四人組〉追放後,1978年から〈四つの近代化〉を掲げた中国は,およそ20年の落差をもって経済改革の流れに合流してきたというのが,現状のあらましである。

 意思決定の分権化と市場的要素の利用が経済改革の一般的方向であるといっても,両者の程度には国によりかなり大きな差異があったから,1960年代経済改革後の経済制度の類型把握の問題が生ずる。これについては,(1)1930年代から65年改革までのソ連型の中央集権システム,(2)部分的分権化システム(1960年代改革後のソ連と東欧諸国の大多数),(3)広範な分権化システム(1968年経済改革後のハンガリーのNEM),(4)社会主義的市場経済(ユーゴスラビア),という4分類法が一般的に採用されている。(1)は厳密な意味ではすでに存在しない。それでは,〈モデル論と政治システム〉の個所でいう集権モデルと分権モデルの境界線は具体的にはどこにあるかというと,第1に中央計画を分解breakdownして企業に下達する,企業レベルの事実上の直接的計画化が廃止されているか,第2に生産財が市場化されているか,の二つがあげられるのが常であり,先の四つの類型に即していえば,この基本的な境界線は(2)と(3)の間にあるということになる。したがって,(2)は伝統的経済システム(TES)の枠内における修正にすぎない,というのが通説である。

 (4)のユーゴスラビアは,1965年経済改革で企業自主性は確立したものの,企業内テクノクラートの台頭で労働者自主管理は形骸化し,他方,中央計画化に代わる国民経済統合のメカニズムが欠如しているなかで市場機構に過度に依存した結果,インフレ激化や所得格差,地域格差の拡大を生み,民族間対立を激化させた。そこで,71年の憲法修正を機に,自主管理の単位をさらに下部レベル(連合労働基礎組織)に下ろすとともに,企業をこうした基礎組織の連合として再編成し,経済主体相互間の連関では,自主管理契約や社会協定による下からの国民経済的統合(〈計画〉でも〈市場〉でもない第三メカニズム)を図っていく方向をとった。しかし,これは理念としては高いものの,システムがあまりに複雑すぎ,結果としては一種の交渉経済をもたらした。これに由来するシステムの機能麻痺が70年代末期からの経済困難を加重したことが反省され,制度自体が批判的検討の対象とされつつある。

新しい動向

1980年代に入ってからの社会主義経済の新しい動向は,理論的には〈ジレンマ〉論の登場,制度的には〈混合経済システム〉への志向,という二つの面でみられる。

ジレンマ論

伝統的な社会主義の経済システムは,貨幣が〈受動的役割〉(ブルス)しか果たさず,個々の経済主体が剰余極大化のための努力を〈強制〉されることのない経済であるが,このシステムをハンガリーの経済学者コルナイKornai János(1928- )は,家計だけが貨幣化されていて企業セクターは貨幣化されていない,〈半ば貨幣化〉された経済ととらえている。その理由は,企業に対する〈予算制約〉が国家の〈温情主義(パターナリズム)〉により,〈ソフト〉なためである。経済の効率化のためには,企業にたいする予算制約を〈ハード〉にし,〈半ば貨幣化〉された経済システムを〈完全に貨幣化〉し,〈温情主義〉をなくす以外にないが,それは労働に応じた分配,連帯,保障,全体的利益の優先といった,社会主義の〈倫理原則〉とは矛盾せざるをえない。〈効率性〉の体系と〈社会主義的倫理〉の体系とは両立しない,というのがコルナイの〈ジレンマ〉論の要点であるが,効率体系と社会主義の価値体系とが一致する〈最適点〉がどこかに存在するという,O.ランゲ以来の分権的社会主義経済論がいだいてきた,暗黙の予定調和観が維持できなくなっているところに,今日の特徴がある。その背景としては,1970年代末期に表面化した経済困難のなかで,経済の効率化のためには〈市場志向〉をより強めざるをえないが,それにともなう社会的葛藤とも直面せざるをえなくなった,社会主義の現実があることを見落とすべきではない。

混合経済システム

この方向がとりわけ顕著なのは中国とハンガリーであるが,同じような傾向は萌芽的ながら,他のソ連・東欧諸国にもみられないわけではない。(1)中国農業では,農家レベルの〈生産請負制〉により人民公社は事実上,解体し,小農経営のシミュレーションというべき事態が進行している。ハンガリー農業では,農業外経済活動(工業用部品生産など)への大幅な参入が認められた企業性の高い農協と組合員農家との間の委託生産(家畜など)のかたちで,共同経営と小経営(組合員の副業経営のほか,純然たる私営農場や,国営企業従業員への貸与地経営がある)の巧みな結合が,大きな成功を収めている。ソ連や他の東欧諸国でも,集団農場組合員の副業経営にたいする規制は,大幅に緩和される傾向にある。(2)ソ連の集団農場内部でも,土地と一定の生産用資産を農家グループに長期にわたって割り当て,集団農場にたいする引渡し義務を果たしたあとの剰余の処分はグループにゆだねる,という〈ブリガーダ(作業隊)〉制の実験がおこなわれている。1983年8月の〈労働集団法〉の施行により,ソ連の工業・建設企業でも同じようなブリガーダ制の実験が開始されている。これらは小経営のシミュレーションとしてとらえることができる。(3)農業外の小経営や自営業の容認など,一定の制約のもとでの〈私経済〉セクターの活性化は,中国およびハンガリーに共通する。ハンガリーでレストランなどサービス部門に広く導入されている,公有小企業の入札による〈個人経営請負制〉は,〈半私的〉セクターとみることができよう。他方,ポーランドを除き,他の諸国はこの点ではまだきわめて慎重である。(4)ハンガリーの国営企業では,選挙による従業員代表,経営陣代表,政府代表の3者構成の企業評議会を設け,これに企業長の任免,企業の長期戦略,大投資計画の承認といった,従来,所有者機能に属すると考えられていた権限の大部分を移管する方向が打ち出されている。(5)従来の経済特区に加えて新たに14の経済開発区を指定し,大規模な外資導入や合弁事業の奨励にのりだした中国の〈開放経済体制〉志向が,従来の通念の枠を大きく出たものであることはいうまでもない。これは,1920年代のソ連のネップ期に試みられたがほとんど成功しなかった,〈国家資本主義〉の現代版ともいえる性格を帯びている。

 以上にみるような動きは,まだ基幹的部分の国家的所有や協同組合的所有という体制の法的枠組みを崩すものではないが,所有と経営の分離を中軸として,多様な所有と経済活動の形態を組み合わせていくという方向であり,その限りで,〈社会主義型の混合経済〉(コルナイ)と呼びうるものである。〈単一の国有・国営経済〉に無限に接近するのが社会主義経済の完成だ,という伝統的観念が捨てられて,〈実行可能〉な社会主義の経済システムとしては,この混合経済システムをどのように設計するか,という点にしだいに収斂しつつあるところに,社会主義経済をめぐる今日の問題状況の核心がある。

佐藤 経明