平凡社 世界大百科事典

スパルタ

ペロポネソス半島の南部,エウロタス川の西岸に位置した古代ギリシアのポリス。古代の正式の名称はラケダイモンLakedaimōn。現在名はスパルティSpárti。

古典期以前

ミュケナイ時代この地にはホメロスの叙事詩に〈メネラオス王の国スパルタ〉とうたわれた一つの王国があった。この王国は前1200年ころ他のミュケナイ諸王国とともに滅んだ。従来ミュケナイ諸王国の崩壊はドリス人の侵入が引き起こしたものとされていた。しかし近年の考古学のもたらした知見は,ヘラクレス一族の帰還という伝承に基づく上記の通説に深く疑いを挟み,被支配民の蜂起によるミュケナイ諸王国の滅亡などを示唆している。異説の当否のいかんによってはスパルタの国家成立過程,ペロポネソス同盟の盟主の地位を確立した。他方,前540年代にはアルゴスを破りテュレアティスを確保した。こうしてギリシア随一の強国となると,現状維持を目的とした反僭主政策を採用して,前510年にはアテナイのペイシストラトス家の僭主政を打倒した。

国制と生活様式,文化

スパルタの国制や市民の生活規範は,リュクルゴスが定めたとされている。彼とその制度については,まだ定説はないが,大レトラをみると,ポリス成立期には2王制,長老会,最終決定権を有する民会という国家機関が存在した。世襲王制,しかも2王制が存続していたというのは,ポリス世界ではきわめて異例なことであった。古典期における王の権限は,国家祭祀をつかさどることと,戦時における軍の指揮権に限られた。また王は毎月エフォロイと誓いを交わし,法に従う限り王位にとどまることを保障された。しかし,有能な王の場合には国政にかなりの影響力を発揮できた。長老会は追加のレトラによって,民会への議案提出権と民会の不適切な決定に対する拒否権を認められていた。長老会はおそらく第2次メッセニア戦争期まで国政の中心機関であったが,その後民会にその地位を譲った。長老会は60歳以上の徳に秀でた市民から選ばれる28名の終身会員と王とで構成された。一方,民会は20歳以上の成人男子が構成する最高決定機関であり,宣戦布告も決定していた。制度上長老会の制約を受けたが,古典期の実態をみると,そのような例はほとんどなかった。最高の役職は任期1年のエフォロス職で,民会で市民の間から5人がこの職に選出された。エフォロイは民会と長老会を召集,主宰し,法案の提出権も有したほか,軍隊の召集,その規模の決定等の権限も有した。また従軍して王の行動を監視した。このような国制の基本的枠組みは,第2次メッセニア戦争を契機としたスパルタ社会の変化により生まれたものであるが,自らを平等者とみなすスパルタ市民内部の民主政を,アテナイに先駆けて実現したものでもあった。しかしまたスパルタ民主政は,ペリオイコイとヘイロータイという二つの階層によって支えられていたことも忘れてはならない。

 ところで,スパルタが内では民主政を実現し,外ではギリシア第1の強国となる過程は,同時に特異なスパルタ的生活様式形成の過程でもあった。いわゆるリュクルゴス的生活は,原始共同体遺制とともに,圧倒的に数の多いヘイロータイを支配するために平等者体制を維持していく必要から生まれた。例えば,共同食事は同一の夕食を男子市民に課すことで,質実剛健な戦士の育成と精神的同質性の獲得に役立った。共同食事の自己負担分の供出は,市民資格の維持と結びつけられていた。理念的な平等と戦士数を確保するために,分割地の売買や譲渡は禁止され,分割相続も許されなかった。スパルタ市民に分属させられ,農耕に従事したヘイロータイに対して,国家は厳しい統制を行った。さらに商品・貨幣経済の発展が平等の理念を崩すことを防ぐために,市民は商工業に携わることを禁じられ,貴金属鋳貨の鋳造のみか,その使用も禁じられ,鉄が交換の媒介物とされた。

 このような社会のあり方は,文化にも影響を及ぼした。スパルタは前7世紀から前6世紀初めころは,芸術・工芸の分野でも優れたものを生んでいた。スパルタ産の陶器はタラスやサモスにまで達し,抒情詩人テュルタイオスやアルクマンが活躍した。しかし平等者の体制を維持するために鎖国体制をしくと,陶器や工芸品の輸出入は減少し,詩や音楽はその生命を失った。スパルタはメッセニア領有によって食糧自給体制を確立し,民主政を実現したが,逆にヘイロータイ制度を維持するために,社会全体を兵営化するような特異な生活様式を強いられた。

古典期

ペルシア戦争において,スパルタはコリントス地峡防衛に力を入れて,アテナイに名を成さしめたが,プラタイアイの戦でギリシア連合の盟主の威を示した。しかしペルシア追撃を指揮したパウサニアスの尊大な態度とエーゲ海域諸市への対応のつたなさのゆえに,エーゲ海域の諸市はアテナイに心を寄せた。スパルタは前460年代には大地震に端を発したヘイロータイの大反乱に難渋し,また前450年代にはアテナイと戦火を交えた。前446年には両国は30年の和約を結んだが,アテナイの脅威に直接さらされたコリントスやメガラに押されて,スパルタは開戦を決定し,ペロポネソス戦争が始まった(前431)。戦争の後半にはスパルタ勢はアッティカに砦を築いて常駐し,ペルシアの財力で海軍を強化してアテナイを破った。ところが,勝者スパルタは深刻な社会変動を被った。出征市民は貨幣経済と接触して致富欲につかれ,国内に貴金属貨幣を持ち帰った。このため貧富の差は急激に拡大し,市民権を失うものも現れた。前398年のキナドンの陰謀はこの結果である。平等者の経済的基礎として,移動を厳しく制限されていた土地も売買の対象となり,エピタデウスはこれを追認する法を制定した。対外的にもスパルタの覇権は脅かされた。ペルシアと戦うにいたり,前395年にはペルシアの指嗾(しそう)で結ばれたアテナイ,テーバイ,コリントス,アルゴスの同盟を相手にコリントス戦争が始まった。スパルタはアンタルキダス条約でペルシアに譲歩してギリシアにおける勢力維持に成功した。しかし前371年には民主派が権力を得たテーバイにレウクトラの戦で敗れ,翌年メッセニアを独立させられた。以後スパルタはこの打撃から立ち直れなかった。前338年マケドニアを盟主にコリントス(ヘラス)同盟が結成されたが,スパルタはこれに加盟せずに抵抗を続けた。

ヘレニズム・ローマ期

ヘレニズム期のスパルタは,アカイア同盟にもアイトリア同盟にも属さず,孤立していた。前240年代からは社会改革が行われ,貴重な史料を残している。アギス4世はスパルタ再建を試みたが失敗した。しかし,改革を失敗させたレオニダスの息子でアギス未亡人と結婚したクレオメネス3世が改革を成就した。彼は土地再分配を実施し,市民権喪失者,ペリオイコイの一部,外人に土地を与え,市民として,4000人の重装歩兵軍を創出した。そしてリュクルゴスの教育制度を復興して,スパルタ軍を強化した。しかしスパルタの強大化と改革の波及を恐れたアカイア同盟とマケドニアの軍にクレオメネスは敗れた。寡頭政が一時復活したが,前207年からのナビス治下にスパルタは3度目の改革を経験した。彼は富裕者を追放するとその土地を貧窮者,傭兵,数多くの被解放ヘイロータイに分配した。しかし第2次マケドニア戦争で海岸部のペリオイコイ諸市を失った。このため古典期を通じてスパルタ社会の基礎であったペリオイコイ制度とヘイロータイ制度は実質的に消滅し,スパルタ市民の多くは自営農化し,商工業にも従事したものと思われる。ナビス暗殺後,一時アカイア同盟に加入を余儀なくされた。前146年ギリシアがローマの支配下に入ってからはローマの同盟市として自治を得たが,過去に生きる観光地と化し,精強な戦士育成を目的としたスパルタ教育も見世物となった。395年ゴート族のアラリックの略奪を受けスパルタは廃墟となった。

中世以降

7世紀にスラブ人が侵入すると住民はマニやシチリアへ移住した。のちにビザンティンの小都市ラケダイモニアとして再興されたが,わずかばかり西にミストラがノルマン人によって建設されるとまったく存在意義を失った。その後長くトルコ領(一時ベネチア領)であったが,1830年にギリシアがトルコから独立すると新生スパルタが古代遺跡の南の平地に建設された。現在,人口約1万2000,ラコニア地方の商工業の中心,オリーブ,ブドウなど農産物の集産地である。古代遺跡の発掘は19世紀末から行われているが,1905-10年と25-29年の在アテネ,イギリス考古学研究所の発掘調査が重要な成果をもたらした。→ギリシア

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