平凡社 世界大百科事典

スリランカ

インド亜大陸の南東端の海上に位置する,セイヨウナシの形をした島国である。英領時代には,外国ではセイロンとして知られていた。面積は九州と四国を合わせたよりも少し広い。人口は年に約1.5%の比率(1984-89年平均)で増加している。

自然

スリランカ島の地質学的な形成は古く,南インドと共通している点が多い。島の北部は平たん地であるが,南へ進むにしたがって山地となり,最高峰のピドゥルタラーガラPidurutalagalaは2524mである。西ガーツ山脈の終着点とみることもできる中央山地が,スリランカの気候に大きな影響を及ぼしている。この中央山地を含む南西地方は,年に2回のモンスーンがみられ降水量も多く,〈湿潤地帯〉と呼ばれ,水稲の二期作が行われている。紅茶,ゴム,ココナッツなどのプランテーションも,湿潤地帯に集中し,人口密度も非常に高い。

 年間降水量が1875mmより少ない地域が,全島面積の約7割を占める北部と東部であり,〈乾燥地帯〉と呼ばれている。なんらかの人為的な手段を用いて灌漑しないと主食である米作が困難であり,人口密度も希薄である。ジャングルに覆われている地域が多く,焼畑農業が広範に営まれている。水利を除く土地条件は,湿潤地帯よりすぐれているため,20世紀に入ってから灌漑施設の復旧とマラリアの撲滅により,入植事業が推進されるようになった。スリランカ第1の大河であるマハウェリMahaweli水系(335km)を開発し,乾燥地帯を灌漑して穀倉化し,南西地方の住民を移住させる計画が長期的に進められている。

住民,言語

先住民族はベッダ人Veddaであるが,今日では1000名弱の人口に減少し,固有のベッダ語もしだいに失われつつあるとみられている。総人口の約74%を占めるシンハラ人が多数民族であり,低地シンハラ人と山地シンハラ人とに区分され,それぞれ適用される身分法が異なる。1956年以降シンハラ語が公用語とされている。少数民族のうちで最大のものは,タミル人Tamilであり,総人口の18.2%(1981)を占める。このうち12.7%のスリランカ・タミル人は,シンハラ人同様に古くから定住していたが,5.5%のインド・タミル人は英領時代にプランテーション労働者として来島し,スリランカとインドの両国政府から市民権を拒否されている。マラッカラ人Marakkalaと呼ばれるイスラム教徒の住民が約7.1%で東部および南西部の沿海地方に住み,タミル人同様タミル語を母語としている。タミル語は1978年に国語の地位を与えられた。このほか,マレー語を母語とするマレー人,英語を母語とするバーガー人Burgherが,それぞれ約0.3%ずつの人口比率を占める少数民族である。

歴史

スリランカの国旗には剣を手にしたライオンが描かれている。最初のシンハラ王がライオンの孫であるという建国説話にちなんでいる。現存する最古の史書《ブラーフミー文字による古代シンハラ語の刻文は,さらに古く前3世紀にまでさかのぼることができる。インドの西海岸から700人の部下とともに漂着したビジャヤVijayaが,先住民族を征服し,シンハラ王朝を建てたのは,前483年と伝えられている。南インドのマドゥライから700名の女性を招き,生まれた子孫が今日のシンハラ人の出自であると信じられている。しかし,タミル人学者の間では,ポーク海峡をはさむインドとスリランカの沿岸地方の双方を領域とする海峡国家が,このころ成立したという説も有力である。

 前3世紀中葉に仏教が伝えられ,王をはじめとする有力者を帰依させた。このとき以来,仏教はこの島で最も勢力のある宗教でありつづけ,東南アジアで広く行われている上座部仏教の源流となった。後1世紀ころから王都ポロンナルワに都を置いたパラクラマバーフParakuramabahu王(在位1140-84)の事跡に象徴される。灌漑農業の生産力を基礎に同王は,インドやビルマ(現ミャンマー)にまで遠征軍を進めたと記録されている。しかし,1000年以上にわたって営々と築き上げられた乾燥地帯の灌漑農業も,13世紀には放棄され,人々は天水に依存する湿潤地帯へと移り住んでいったのである。この時期になぜ灌漑施設が放棄され,ジャングル化していったかについて,王朝の内紛,外国からの侵略,気候の急変,病虫害による不作,土壌の疲弊,洪水による水利施設の決壊,マラリアのまんえん,灌漑の維持管理組織の解体,水資源の過剰開発など,さまざまな説がたてられている。しかし,いずれも定説とはなっていない。

 15世紀初頭に鄭和の船隊が来島し,中国(明朝)の朝貢国となるが,植民地として実質的な支配を受けることはなかった。1505年にポルトガルの艦隊がコロンボColombo近くに漂着した。この頃,南部のシンハラ王朝は分裂し,三つの小王国に分かれていた。北部にはキャンディに都を置くシンハラ王国のみとなり,内陸部に封じこめられていた。

 ナポレオン戦争の一環として,1796年にイギリス東インド会社がオランダ領を接収し,1802年のアミアン条約で,スリランカを直轄植民地に編入することが認められた。1815年にはキャンディ王国の内紛に乗じて,これを併合し全島の一円支配を完成した。1818年と48年にイギリス支配をくつがえそうとする反乱が企てられたが,いずれも圧倒的な軍事力の差で鎮圧された。イギリスの植民地経営は当初,オランダ同様にニッケイ貿易の独占を目的としていたが,1830年代からプランテーション農業の開発へと転換した。湿潤地帯の山地にコーヒーを栽植し,南インドの下層カーストの労働力を移植した。こうしてプランテーション的生産様式の基本的な経営形態が,19世紀中葉に成立したのである。80年代にコーヒーの葉の病害がひどくなったうえ,国際市場におけるブラジル産コーヒーとの競争条件も悪化したので,紅茶への植替えが進められた。20世紀に入ると,同じプランテーション方式によるゴムの栽培が大規模に行われるようになった。紅茶とゴムの農園に居住するタミル人労働者の定住化が進み,老後も南インドへ帰らず,生活の本拠を湿潤地帯の山地に置くようになったのである。インドとスリランカが政治的独立を達成したのち,これらのタミル人労働者(約100万人)は,双方の政府から市民権を与えられず,事実上の無国籍状態を余儀なくされている。両国間の交渉が繰り返され,1964年には一定の比率(インド8対スリランカ5)で,両国が引き取ることに合意したものの,この協定は部分的に実施されただけである。インド・タミル人の処遇は,今日もなお両国間の大きな課題として残っている。

 イギリス植民地支配のもとで英語教育が進められ,プランテーション関連産業を中心にして,スリランカ人の間で中産階級が形成されていった。第1次世界大戦以降,インド各地で高まりつつあった民族運動やイギリスの労働運動の影響下に,これらの英語教育を受けた中産階級を主体に,民族の自決や仏教の復興を目ざす運動がしだいに高まっていった。1931年のドノモア憲法Donoughmore Constitutionによって,普通選挙に基づく国家評議会が設置され,外交,財政,治安を除く一定の範囲で,島民の自治が認められた。そして,第2次世界大戦後,インド,パキスタン,ビルマなどの民族運動にも助けられ,イギリス連邦内の自治領として1948年2月4日に独立した。

政治

独立後の政権は,シンハラ人中産階級の利害を代表する二つの政党が,総選挙のたびに与・野党を交替しながら担っている。ともに非同盟の外交政策をとっているが,統一国民党Eksat Jātika Pakshaya(シンハラ名)は親欧米色が強く,自由党Sri Lanka Nidahas Pakshaya(シンハラ名)はより民族主義的であり,社会主義諸国との友好関係を重視するといわれている。植民地時代には,分割統治政策によって,相対的に優遇されていたタミル人中産階級は,独立後の政権に参画する機会が乏しく,多数民族への不満が大きい。とりわけ,1956年にシンハラ語が公用語化されて以来,行政職,警察官,軍人などの分野は,ほぼ完全にシンハラ人が独占するようになり,タミル人は医師,技師,法律家などの専門職に向かいがちである。しかし,大学教育における英語の比重が低くなり,ジャフナ地方出身のジャフナ・タミル人に不利な入学制度が採用され,専門職の門戸も狭くなりつつある。北部のタミル人中産階級を中心に,シンハラ化政策に反発して,連邦制国家を求める声が強くなり,70年代中ごろから〈イーラム国Eelam〉として分離独立を主張する運動へと発展している(タミル問題)。

 他方,中産階級の政権交替劇から排除されていたシンハラ人農村青年の不満も大きく,人民解放戦線を結成し,71年には自由党,平等社会党および共産党の左翼統一戦線への大規模な武装反乱を行った。この反乱を支援したという理由で,朝鮮民主主義人民共和国の大使に国外退去を命ずるかたわら,イギリス,アメリカ,ソ連,インドなどに軍事援助を求めるという,国際的にも複雑な対応がとられた。72年の憲法制定により,自治領から共和国へと政体を改め,同時に上院を廃止し,一院制の議会制度を採用した。この憲法で,仏教に第1の地位を与え,仏教を保護し,育成することが国家の義務である,と定めているのは,シンハラ民族主義の表明でもあるが,ヒンドゥー教徒,イスラム教徒およびキリスト教徒の反発を招いている。

 77年の総選挙で大勝した統一国民党は,翌78年に憲法を改正し,スリランカ民主社会主義共和国として社会主義国家であることを宣明した。しかし,政策的には生産手段の国有化が進められた前政権の社会主義化を是正し,私企業による市場経済の競争関係を重視する方針をとっている。78年憲法では,国民の直接投票によって選ばれる大統領に行政権を集中し,議院内閣制の首相が補佐する制度をとり,第1回の大統領選挙が82年10月に行われ,J.R.ジャヤワルダナJayawardaneが就任した。国会議員の選出もイギリス風の小選挙区制から,比例代表制に改められた。しかし,82年12月に国民投票によって,現議会の任期をそのまま6年間延長する政府案が可決された。

 南インドには数千万人のタミル人が住んでいるので,シンハラ人の間には相対的に少数民族であるとの意識もぬぐい難い。そのため,タミル統一解放戦線の分離独立運動が,タミル・ナードゥ州の政治勢力と結ぶことへの警戒心が強い。このような民族対立が起爆剤となった暴動が,1958年,66年,77年,81年,83年,84年と間欠的に発生し,以後もシンハラ人とタミル人との流血の抗争が続発,戦争状態にまでなった。87年6月,インドはタミル人救援を理由に領空を侵犯してまで食糧や医薬品の投下を行い,積極介入に踏み切った。同年7月,ジャヤワルダナ大統領は一部閣僚の反対を押し切って,インド平和維持軍のスリランカ駐留を含む和平協定を,来島したガンディー・インド首相と結んだ。88年12月の大統領選挙で統一国民党のプレマダサ首相が当選し,89年2月の総選挙でも同党が勝利した。89年7月からインド平和維持軍の撤退が始まったが,この民族対立の解決は,長期にわたる苦痛にみちた道程を要するであろう。

 1994年12月,政府軍はスリランカ・タミル人の中心都市であるジャフナ市を制圧した。それ以来,分離独立派〈タミル・イーラム解放の虎〉(LTTE)は軍事的な根拠地を北東部のジャングルに移し,都市と農村の双方でゲリラ戦争を続けている。政府は,少数民族居住地域に自治権を認める憲法改正案を96年1月に公表した。しかし,野党や仏教界は,譲歩のしすぎであると反対している。コロンボでは同年1月末に爆発物を積み込んだトラックが白昼に大統領官邸近くの中央銀行に突入し,91名の死者と約1400名の負傷者を出した。7月にはコロンボ南部で通勤列車が爆破され,70名の乗客が死亡した。97年9月にも中央銀行近くの高級観光ホテルに爆弾攻撃が行われ,欧米や日本の観光業者や投資家にスリランカ離れを促す効果も発揮した。この間,北・東部州でも軍事拠点の争奪戦が続き,政府軍とLTTE軍が激しい戦闘を繰り返し,双方とも1万名を超える戦死者を出している。

経済

植民地経済を引き継いだ当時のスリランカは,典型的なモノカルチャーの新興国で,輸出の9割以上を紅茶,ゴムおよびココナッツの三大作物が占めていた。しかし,社会資本は相対的に充実していて,1人当り国民所得,人口当りの自動車保有台数,道路舗装率,死亡率などの指標でみるかぎり,日本よりも上位にあった。統一国民党および自由党の歴代政権は,日本と違って高度成長政策をとらず,福祉政策に力を入れてきた。食糧の無料配給,入院や手術を含む医療の無償化,小学校から大学までの無償教育,農民への各種補助金などへの財政支出が大きな比重を占めていた。歴代内閣にとって,福祉と開発をいかに両立させるかが,最も大きな政策課題となり,総選挙も常にこの点をめぐって争われてきた。

 モノカルチャー経済から抜け出し自立する方策としては,輸入代替型の工業化政策がとられた。1950年代から保険,銀行,路線バス,食糧貿易,教育などの分野が公的部門に移管され,各種の製造業が公企業として設立された。製紙業,窯業,皮革製品,苛性ソーダ,製塩,セメント,イルメナイト鉱石,綿紡織,煉瓦,製粉業,タイヤ・チューブ,農器具,乳製品,石油精製,精糖業,黒鉛,海運業などがその主要なものである。生産手段の国有化を基礎に経済建設を進めるという理念が強く,72年には小生産者部門の農地改革,75年にはプランテーション部門の農地改革が実施されたが,農民や農園労働者に再配分されることなく,土地改革委員会によって収用された農地は,公企業の経営にゆだねられている。水産業についても,沖合漁業のために漁業公社が設立されている。しかし,全体として公的部門の生産性は低く,所期の成果をあげていない。アジア諸国のなかでも,経済成長率が著しく低い国に数えられている。

 このように停滞した国民経済を活性化すべく,77年に経済政策の全面的な転換が行われた。国際通貨基金と世界銀行の助言により,貿易・為替の自由化,福祉事業の削減,価格統制の撤廃,私企業への奨励策などを含む市場機構重視の開放経済体制をとって,韓国やシンガポールのような高度成長を目ざしている。西側諸国からの経済援助を積極的に受け入れ,三つの大きな開発事業に乗り出している。(1)マハウェリ水系開発による乾燥地帯への入植事業と水力発電,(2)コロンボ北部の自由貿易地域設定による外国資本の導入,(3)立法府の移転を含む都市開発事業,である。これらの開発事業による島内各地の土木工事は,西アジア諸国への出稼ぎと並んで,失業率の低下をもたらす一方,インフレーションを引き起こしている。また,開発事業がシンハラ人居住地域のみで実施されている,という批判が北部のタミル人側から出されている。開放経済体制によって,日本からの工業製品輸入が急増したが,日本への輸出は停滞しているので,巨額の貿易赤字が拡大している。この格差を少なくするため,日本から病院建設,カラーテレビ放送局建設,コロンボ港近代化事業,カトナーヤカ空港整備事業などの経済協力が行われている。

社会

プランテーション関連産業の発達,植民地行政への参加,英語教育の普及,キリスト教の布教活動などの結果として,スリランカ社会では,中産階級の層が比較的厚く形成されている。生活様式や社会意識において,西欧化指向が著しく強く,ロンドンの中産階級の生活様式をモデルとすることが多い。中産階級は人口の1割弱を占めるにすぎないが,英語を話し,ズボンを着用し,電気製品を使用し,官職や専門職を独占することによって,他の住民から画然と区分されている。人口の9割は,シンハラ語もしくはタミル語を話し,サロン(腰衣)などの在来の服装をし,ランプを使用し,英語を必要としない職業に就いている。近年は,開放経済体制下の物価騰貴によって,固定的な所得源しかもたない公的部門の職員など特定の中産階級の地位が低下し,その不満がタミル系商店攻撃の遠因であるとみられている。中産階級は都市の住宅地区や商業地区に居住し,その他の人びとはおおむね農村とプランテーションに住んでいる。コロンボなどのスラム地区も,他のアジアの巨大都市に比べると小さい。全人口の半数以上(約800万)の人びとは,1世帯当り月収が300ルピー(約3000円)以下であり,食糧と灯油の配給切符を交付されている(1977以降)。

 住民の身分法は,ローマン・ダッチRoman-Dutch法(沿海地方のシンハラ人),キャンディ法(内陸部のシンハラ人),テーサマライTesamalai法(北部のタミル人),ヒンドゥー法(プランテーションのタミル人),イスラム法(イスラム教徒住民)などの異なった法域をもっている。司法制度は植民地時代にイギリス風に改められ,法律家の地位は高い。村会が一定の司法権をもっていた伝統があり,農村における訴訟件数は日本に比して非常に多い。内陸部では一妻多夫の慣行が認められていたが,今日ではほとんど行われていない。カースト制は,シンハラ社会とタミル社会の双方に存在するが,インドに比べその規制力が弱いといわれている。バラモン,クシャトリヤ,バイシャに対応するカーストがみられず,ゴイガマGoyigama(シンハラ人)とベッラーラVellāla(タミル人)という農民カーストが最上位を占めているのが特徴的である。カーストは通婚単位としての機能が中心であり,持参金(ダウリ)制度とともに配偶者を決める大きな条件となっている。

 宗教生活は多様であるが,相互に融和的である。たとえば,山岳信仰の対象となるスリ・パダにある山頂の足跡は,仏教徒にとっては仏足跡,ヒンドゥー教徒にとってはシバ神の足跡,イスラム教徒やキリスト教徒にとってはアダムの足跡として,ともに尊重されている。とくに仏教徒がヒンドゥー神にお参りに行ったり,ヒンドゥー教徒が仏像に手を合わせている光景は珍しくない。

 公教育はアジアでも最もよく普及しており,40歳以下で学校に通ったことのない人はほとんどいない。一つの私立医科大学を除く8大学はすべて公立である。学歴社会化が進み,入学資格を得るには10倍前後の競争試験を経なければならない。私塾や家庭教師への家計支出が,中産階級にとって大きな負担となっている。医学部,工学部など理科系の就職率はよいが,文科系の場合英語が話せない学生は,半数以上が卒業と同時に失業者になるといわれている。

 医療サービスの水準は高く,平均寿命は男68歳,女73歳(1988)に達している。都市部では西洋医学による病院で医療を受けるが,農村地帯では伝統的なアーユル・ベーダ医学が重要な役割を演じている。

 全体として,スリランカ社会の構造は,多民族,多宗教,多言語,多法域,多カースト,多階層という多様性によって特徴づけられよう。自然的にも文化的にも,インド的な要因と東南アジア的な要因とをあわせもっている,とみることもできるのである。

中村 尚司