平凡社 世界大百科事典

シベリア流刑

ロシアにおける政治的流刑制度。すでにモスクワ大公イワン3世の時代(1462-1505)から存在したが,16~17世紀にはヨーロッパ・ロシアへの流刑が多く,シベリア流刑はごくまれであった。18世紀になるとシベリアの資源の開発と結びついて,植民や強制労働を目的とするシベリア流刑が多くなった。1760年の法律により地主貴族は自分の農奴を裁判にかけることなくシベリアに強制移住させることが認められたが,さらに65年の法は彼らに農奴をシベリア徒刑にする権利を与えた。このようにして72年までにトボリスク県とエニセイスク地方に移住させられた農奴は2万0515人にのぼった。1822年,〈流刑囚に関する法〉と〈シベリア諸県のエタープ(宿営)に関する法〉が出され,各県や州に流刑囚を扱う役所がつくられた。流刑囚に関する行政は内務,大蔵,国有財産の各省が担当し,政治的流刑囚は皇帝官房第三部が監視した。45年の〈刑罰に関する法〉は流刑をもって刑事犯と政治犯の双方に科する最も重要な刑罰と定め,さらに裁判によらず行政措置による流刑を〈勅令にもとづく〉ものとして定めた。19世紀の政治的流刑の例としては,1825年のデカブリストの反乱の参加者,30-31年のポーランドの十一月蜂起の参加者,49年のペトラシェフスキーのグループ,63-64年のポーランド一月蜂起の参加者,70年代のナロードニキの革命家たち,そして90年代以降のレーニンらマルクス主義の革命家たちがある。流刑者には(1)有期,無期の徒刑囚,(2)強制移住囚,(3)追放囚の3種類があって,20世紀初めには29万8577人の流刑囚がシベリアとサハリン(樺太)にいたが,そのうち徒刑囚は約1万2000人(半数はサハリン)で,全流刑囚の約半分が行政措置による追放囚であった。ソ連邦になっても流刑は存在した。その最高は5年と定められていたが,最低はロシア共和国などでは2年,ウズベク共和国などでは1年であった。流刑は18歳以下のもの,妊娠中の女性および8歳以下の子どもを扶養している女性には適用されないことになっていた。

外川 継男