平凡社 世界大百科事典

イスラエル国

西アジアの地中海東岸に位置するユダヤ人の建設した共和国。

歴史

19世紀の後半,主としてロシアおよび東ヨーロッパに居住していたイスラエル王国との歴史的つながりを強調している。

 19世紀後半にシオニズム運動が興ったのは,一つには世界各地に興ったナショナリズム運動に影響されたからであるが,一つにはロシアおよび東ヨーロッパでパレスティナ問題)。

 イギリスのアラブ側に対する約束にもかかわらず,パレスティナは第1次大戦後イギリスの委任統治下に置かれ,しかも国際連盟とイギリスとの委任統治協定にはバルフォア宣言の趣旨が盛り込まれてユダヤ人のパレスティナ移住と建国への基礎固めが着々と進められることになった。とくに第2次世界大戦中,ナチス・ドイツによるユダヤ人の大量虐殺(ホロコースト)が行われたことは,ユダヤ人に対する世界的同情を呼び,ユダヤ国家の樹立を促進させる結果を生んだ。しかし,ユダヤ人のパレスティナ移住が増大するにつれてアラブ・ナショナリズムとの対立が激しくなり,パレスティナでは1920年代後半以降,ユダヤ人とアラブとの衝突事件がしばしば繰り返された。パレスティナに何世紀間にもわたって住み着いてきたアラブにとってみれば,大昔にそこにユダヤ人の国があったからという理由で,主としてヨーロッパから大量のユダヤ人が移住してきて国をつくろうというのは,まさしく父祖伝来の地への理不尽な〈侵入〉にほかならないと映った。イギリスはユダヤ,アラブ両者の対立抗争に妥協を見いだすべくさまざまな提案を行ったが,結局収拾することができず,第2次世界大戦後,委任統治の放棄を決意して国際連合に問題の解決をゆだねた。

 国連総会は47年11月29日,イギリス委任統治下のパレスティナをユダヤ国家,アラブ国家およびエルサレム特別管理地区の三つに分割するという決議(中東戦争が起こった。それ以後,イスラエルとアラブ側との間には4次にわたる戦争と無数の武力衝突が繰り返された。他方,国連のパレスティナ分割決議によれば,旧イギリス委任統治領パレスティナにはユダヤ国家と並んでアラブ国家が樹立されることになっていたが,第1次中東戦争でイスラエルが軍事的勝利をおさめた結果,イスラエルは分割決議でユダヤ国家に割り当てられていたよりもはるかに広い範囲に支配を及ぼすこととなり,半面アラブ国家の樹立は実現を見ることはなかった。さらにイスラエルは1967年の第3次中東戦争によりパレスティナの残りの部分もすべて占領するにいたった。

 このように建国後のイスラエルの歴史はつねに戦争に彩られていたが,PLO)との間に暫定自治に関する原則宣言が調印され,さらに94年10月にはヨルダンとの間に平和条約が調印されて,ようやく和平への道をたどることとなった。しかし,94年5月に開始されたパレスティナ占領地区での暫定自治は,その後96年5月のイスラエルの総選挙の結果,占領地からのイスラエル軍の撤退に消極的なリクードのネタニヤフ政権が登場したために予定通り進展せず,またシリアおよびレバノンとの間の平和条約交渉も停頓したままとなっている。

国土,住民

イスラエルは北はレバノン,北東はシリア,東はヨルダン,南西はエジプトと接しているが,エジプトおよびヨルダンとの間を除き国境はまだ法的に確定していない。第1次中東戦争は1949年に休戦に持ち込まれ,この休戦協定ラインが67年までイスラエルの事実上の国境線となっていたが,第3次中東戦争でイスラエルは東エルサレムを含むシナイ半島はエジプト・イスラエル平和条約に基づき82年4月に返還されたが,残りは占領が継続され,そのうち,東エルサレムとゴラン高原についてはイスラエルが一方的に併合措置をとった(ただし,その措置は国際的には認められていない)。イスラエルの国土を第3次中東戦争前の休戦協定ラインでとらえれば,総面積は2万0325km2で日本の四国にほぼ等しい。緯度では北緯29°30′から33°15′まで(日本の奄美諸島から九州までとほぼ同じ),経度では東経34°17′から35°41′までの範囲にあり,南北の長さが418kmに及ぶ半面,東西の幅は14~104kmときわめて狭い。

 国土は地形上の特徴により四つの地域に大別される。第1はレバノン国境からガザ地区に接するところまで細長く延びる地中海沿岸平野部で,海岸線(188km)にはほとんど出入がなく,カルメル山地を除けば起伏もほとんどない。第2は中央丘陵地帯で,北部のガリラヤ高地からヨルダン川西岸地区のサマリア,ユダの高地に接し,南部のネゲブへとつながっている。人口の大部分はこの二つの地域に集中しており,第1の沿岸平野部にはテルアビブ,ハイファといった商工業の中心地と農耕地帯が広がり,第2の丘陵地帯には首都エルサレム(人口約58万人,1994年)と果樹栽培地帯が広がる(ただし,エルサレムは国際的には首都として認められていない)。第3はヨルダン地溝地帯で,海面下212mのティベリアス湖(別名ガリラヤ湖またはキネレット湖)からヨルダン川を経て海面下397mの死海へとつながり,さらに南のアカバ湾に達している。この地溝はシリア・アフリカ大陥没溝の一部である。第4は南部のネゲブ乾燥地帯で,砂岩質の丘陵と黄土質の砂漠の合間に険阻な岩山と涸れ川(ワーディー)が走り,シナイ半島の砂漠へとつながっている。気象条件は地域によって異なり,ヨルダン地溝とネゲブ乾燥地帯は年間降水量が200mm足らずで乾ききっており,年間を通じて気温が高く,38℃を超えることも珍しくない。これに反し沿岸平野部と中央丘陵地帯は温暖な地中海性気候で,乾季(5~10月)と雨季(11~4月)とに分かれ,例えばテルアビブでは年降水量が761mm,最も暑い8月の最高気温は30℃,最も寒い2月の最低気温は10℃としのぎやすい。エルサレムなど中央丘陵地帯の高地では冬にはかなり冷え込み,年に1~2度降雪をみることもある。

 イスラエル政府の統計年報によれば,1996年末で総人口は576万人で,うちユダヤ人が81%,非ユダヤ人が19%となっている(イスラエルでは今なお〈ユダヤ人〉とは何か,という論争が続いており,その決着はついていないが,イスラエル国内に定住するユダヤ教徒はすべてユダヤ人とされ,イスラエル国籍を与えられる)。イスラエルに住むユダヤ人は,アシュケナジムと呼ばれる欧米系のユダヤ人とに大別される。両者の数はほぼ拮抗しているが,社会的・経済的には大きな格差があり,エリート層の多くはアシュケナジムによって占められている。非ユダヤ人の大多数は第1次中東戦争の際にイスラエルに残りイスラエル国籍を与えられたパレスティナ・アラブとその子孫であるが,その内訳を宗教別にみると,イスラム教徒81万人,キリスト教徒17万人,ドルーズ教徒その他9万人となっている。なお,暫定自治が開始された占領地区のヨルダン川西岸地区には112万人,ガザ地区には79万人(いずれも1994年末推計)のパレスティナ・アラブが居住している。公用語はヘブライ語とアラビア語。

政治

イスラエルは議会制民主主義に基づく共和政体を採っているが,成文憲法はなく,イギリス流に実際に即して憲法的法規を制定するという方式を採用している。憲法的法規としては,法および行政施行令(1948),帰還法(1950),婦人同権法(1952),裁判関係法(1953),教育法(1953),国会基本法(1958),大統領法(1964),選挙法(1969)などがある。元首は大統領(任期5年)で,国会により選出されるが,政治的権限はなく,国会を通過した法律への署名,内閣総辞職の受理と後継首相候補への組閣要請,大公使・裁判官などの認証,外国の大公使の信任状受理,恩赦・特赦の発布などがおもな職務である。初代大統領はT.ヘルツル亡き後のシオニズム運動の最高指導者ベン・ツビ(1952-63),シャザールZalman Shazar(1963-73),カツィールEphraim Katzir(1973-78),イツハク・ナボンYitzhak Navon(1978-83),ハイム・ヘルツォーグChaim Herzog(1983-93),エゼル・ワイツマンEzer Weizman(1993- )と続いてきた。

 最高意思決定機関はクネセットkneṣetと呼ばれる国会で,議員定数120の一院制。国会議員(任期4年)は比例代表制に基づく総選挙によって政党を基盤に選出される。国会は内閣の信任あるいは不信任の決議を行い,予算を承認し,法律を制定し,本会議および委員会の審議を通じて行政府を監視する。建国以来,総選挙において最多議席を獲得した政党あるいは政党連合の届出名簿の第1順位にあった者(通常は党首)が大統領によって組閣を要請され,国会の信任を受けて首相に就任する制度が採られていたが,1995年の法改正により,96年の総選挙から首相公選制に改められた。

 イスラエルでは〈2人寄れば三つの政党ができる〉といわれるほど多数の政党が分立し,しかもその間に多くの離合集散が行われてきた。これは,(1)建国前のシオニズム運動の展開過程でさまざまな考え方の相違や人脈の対立があり,それが建国後も多数の政党に引き継がれた,(2)中東和平問題および経済・社会政策をめぐってさまざまな異論が存在する,(3)移民社会であるイスラエルにおいて出身地域別グループ間に利害の対立や経済的・社会的格差が生じてきた,(4)総選挙が比例代表制で行われるため,選挙のたびにかなり打算的な新党結成や政党間の連合が行われる,などの理由による。かくして多数の政党が分立するところから,建国後1988年までに行われた12回の総選挙において,どの政党(あるいは政党連合)も単独では国会の議席の過半数を制することができず,つねに複数の政党の連立によって政権が樹立されてきた。しかし,どの政党も単独では政権を樹立できない半面,1977年まではつねに社会主義シオニズム政党である労働党(かつてはマパイMapa'i党と名のっていた)が国会で最多議席を獲得し,政権の中核を占めていた。イスラエル建国のために主導的役割を果たしたのは,ロシア・東欧から移住してきた,社会主義の影響を受けたシオニストたちであったが,その流れを汲むマパイ=労働党はイスラエル社会のあらゆる分野で有力な人材と強力な支持層を擁していたからである。初代および第3代の首相を務めたメイア(1968-74),第6代のイツハク・ラビンYitzhak Rabin(1974-77)と,1977年まで歴代の首相はすべてマパイ=労働党によって占められていた。

 ところが77年5月の総選挙において労働党連合(労働党と左派社会主義政党マパームMapam党との連合)ははじめて第2党に転落し,万年野党のごとき存在であったヘルートḤerut党を中核とするリクードLikud(〈統一〉を意味する)が第1党に進出して右派・中道・宗教勢力の連立政権が樹立され,ヘルート党首メナヘム・ベギンMenachem Begin(1913-92)が首相に就任した。ヘルート党はユダヤ国家樹立の戦術をめぐり1935年に主流派のシオニストとたもとを分かったウラジーミル・ジャボティンスキーら修正派シオニストの系譜につながる右翼政党で,65年まではヨルダン川東岸(現在のヨルダン)をも含む歴史上のパレスティナ全部がイスラエルの主権に属すべきだという主張を掲げていた。ヘルート党は65年に自由党と連合し(その際,ヨルダン川東岸に対する主権の主張は引っ込めたが,旧委任統治領パレスティナ全部に対する主権の主張は依然として掲げ続けた),73年にはさらにいくつかの小政党と連合してリクードを結成した。労働党連合の敗退とリクードの勝利は,(1)パレスティナ全土に対するイスラエルの支配が続くなかでイスラエル社会全体が右傾化の方向をたどった,(2)つねに戦争に備えねばならない重圧のなかでインフレと生活不安が高まり,アシュケナジムとセファルディムとの経済的・社会的格差が大きくなり,現状に不満を抱くセファルディムの票の多くがリクードに流れた,(3)カリスマ的指導者を欠いた労働党が派閥争いや汚職でイメージを低下させたのに反し,ベギンの強い個性と対アラブ強硬路線が有権者を引きつけた,などの理由によるものであった。81年6月に行われた第10回総選挙でもリクードは僅差ながら勝利を収め,宗教勢力および小右翼政党と連立して第2次ベギン内閣が発足した。

軍事

イスラエルの大きな特徴の一つは,建国以来つねに周辺アラブ諸国と敵対関係にあり,臨戦状態を維持する必要に迫られてきたということである。そして,4次にわたる中東戦争に加え,レバノンへの大規模な侵攻作戦を経たイスラエルは,今日では中東地域で並ぶものなき軍事強国と化した。その軍事強国体制を維持するため,国民総生産(GNP)の9.6%,中央政府支出の21.1%が国防費にあてられ(1995),男子は18歳から36ヵ月間,既婚者と母親を除く女子は18歳から24ヵ月間兵役義務が課され,兵役義務終了後も男子は51歳まで,子どものない女子は24歳まで予備兵役として毎年一定期間,軍事訓練義務が課される(ただし,イスラム教徒とキリスト教徒は志願制)。

経済・産業

国土が狭く天然資源に乏しいという条件の下で国造りに取り組んだユダヤ人移住者たちは当初,キブツやモシャブmoshavと呼ばれる農村共同体を基礎に自給自足経済の確立に努めた。キブツとは土地・建物を含むすべての資産を共有し,生産・消費・育児などを共同化するという一種のコミューン組織であり,またモシャブとは各戸ごとに割り当てられた農地で家族経営を行うが,灌漑,収穫,貯蔵,出荷,購入などはすべて共同で行うという組合方式である。他方,都市部ではヒスタドルートHiṣtadrutと呼ばれる労働組合の連合体組織が銀行,保険,建設,運輸,医療などの分野で数多くの事業体を興し,経営した。イスラエルの建国運動で大きな役割を果たしたのが社会主義の影響を受けてパレスティナにユダヤ人の新たな理想社会を建設しようと夢見たロシア・東欧からの移民たちであったことから,こうした社会主義的な経済体制が採られたのである。建国から1970年代半ばまで労働党がつねに政権党の地位を維持し得たのも,こうした建国の理想を引き継ぎ,キブツ,モシャブ,ヒスタドルートを支持基盤としていたからである。労働党政権の下で,建国初期には数多くの国営企業も作られた。しかし建国後,資本主義諸国からのユダヤ移民が増えるにつれて多くの私企業が興され,とくに欧米のユダヤ人からの投資が拡大するにつれて私企業の比重が増大した。

 こうした独特の混合経済体制の下で,イスラエルはめざましい経済発展を遂げてきた。とくに建国から第4次中東戦争が起こった1973年までの25年間には,国民総生産(GNP)の伸び率が年平均10%台という驚異的成長を続けた。第4次中東戦争後,石油価格の高騰,イスラエルの主要貿易相手である欧米諸国の経済不況,軍事費の重圧などの理由からGNPの伸び率は年平均3%台に低下し,また80年代初めから半ばにかけてはリクード政権の放漫財政によって,一時は400%という猛烈なインフレに見舞われた。しかし,80年代後半にはデノミと緊縮財政によってインフレを克服し,90年代には年平均6%台の成長率に回復した。とくに中東和平交渉の進展は,アラブ諸国との経済関係の拡大およびイスラエルへの諸外国からの投資拡大という効果を生むことが期待されたが,ネタニヤフ政権の登場によってその期待には暗雲が垂れこめている。

社会,文化

イスラエルの最大の特徴は,世界中の100を超える国々から移住してきたユダヤ人の移民社会であることで,出身各国のさまざまな文化や風俗が持ち込まれている。こうしたさまざまな文化的背景を持つ人びとをイスラエル国民として結びつけているのは,一つはヘブライ語である。イスラエルではいまだに公式にはユダヤ暦が用いられている(したがって独立記念日も西暦年では年によって日が異なる)ほか,安息日(金曜日の日没から土曜日の日没まで)や祝祭日もユダヤ教に基づいて定められている。ユダヤ教のさまざまな戒律は今でもたてまえとして堅持されており,例えば安息日にはすべての公共運輸機関が営業を停止するほか,一般の商店や劇場,レストランなども休みとなる。冠婚葬祭はもとより,日常生活や学校教育にもユダヤ教は絶大な影響力を及ぼしており,個人的にはユダヤ教の戒律を厳格に守らない多くのイスラエル国民も,たてまえとしてはそれに服している。

 軍事強国体制の下での経済的・心理的重圧,社会主義と資本主義との奇妙な混合体制下におけるアシュケナジムとセファルディムとの経済的・社会的格差の拡大など,イスラエル社会は多くの矛盾をかかえてきたが,それにもかかわらず,敵意ある国々に包囲され生存と安全を脅かされてきたという自己イメージがイスラエル国民を団結させてきた。しかもその自己イメージは,過去にユダヤ人が被った迫害,とりわけポグロムやホロコーストの体験や記憶と重ね合わされて増幅されてきた。しかし,いわば被害者としての立場にあると思われてきたイスラエルが中東随一の軍事強国と化し,その力に基づいてパレスティナ人の民族解放運動を圧殺しようという政策をとってきたことに対しては,多くの国民のなかから深刻な疑問が提起されるようになった。故ラビン首相に率いられた労働党政権が,〈領土と平和との交換〉という考え方の下にパレスティナ人との歴史的和解に踏み切った背景には,こうした深刻な疑問が存在した。しかし半面,神によってユダヤの民に約束された〈エレツ・イスラエル〉(〈イスラエルの地〉という意味で,パレスティナに対するユダヤ人の呼び名)はあくまでイスラエルの主権下にとどめて置くべきであり,パレスティナ国家の樹立は絶対に認めるべきではないという,過激な信念に凝り固まったイスラエル人も少なくはなく,それがイスラエル社会を分裂させる大きな要因となっている。他方,シオニストの先覚者たちは,ユダヤ民族の新しいアイデンティティのきずなとして,話し言葉としてははるか以前に死語と化していたヘブライ語を現代化して復活させ,パレスティナのユダヤ人社会でそれを日常語として用いるように努めた。今日のイスラエルでもその方針は徹底しており,イスラエル国籍を有するアラブのためにアラビア語が併用されているのを除いて,学校教育,放送,新聞,雑誌などは,ほとんどヘブライ語で貫かれている。とりわけ,新しい移民に対してはウルパンと呼ばれるヘブライ語習得施設が随所に設けられている。もっとも,徹底したヘブライ語化の努力が行われている半面,移民社会であるイスラエルでは出身地域別のコミュニティにおいて,ありとあらゆる言語を耳にすることができる。

 イスラエルのもう一つの特徴は,中東地域において最も欧米化された社会であるということである。建国の基礎を築いたのが主としてヨーロッパからの移民であり,建国後は在米ユダヤ人を通じてアメリカと特殊な関係を維持してきたため,文化や生活様式には欧米の影響が色濃く出ている。テルアビブやエルサレムの高層住宅街やスーパーマーケット,モータリゼーションの普及などは欧米の都市と見まがうばかりであり,音楽,美術,スポーツ,学術などについても欧米との交流がきわめて盛んである。とりわけ学術の振興には力が注がれており,ヘブライ大学(エルサレム),テルアビブ大学,ワイツマン研究所(レホボト)などは世界の一流の水準にある。

木村 修三

音楽

古代イスラエルの音楽はユダヤ音楽そのものであり,現代イスラエル音楽は旧約聖書,タルムードといった歴史的民族素材と,離散地でつちかった音楽遺産を基盤に,パレスティナで,すでに独立以前の20世紀前半より始動されていた。まずキブツで《ハバ・ナギラ》《マイム・マイム》などの新民謡(民俗舞曲)が台頭し,ついで現代ヘブライ語によるフォークソングがサブラsabra(イスラエル生れの若者)間に流行した。ナオミ・シェメルNaomi Shemerの《黄金のエルサレム》(1967)などがその例である。

 芸術音楽はヨーロッパやアラブの作曲手法から出発,今日その現代音楽の分野でのめざましい成果は,世界的にも注目されつつある。そこではユダヤ世界における古代と現代,東洋と西洋を芸術的に総合しようとする試みが顕著である。作曲家にパウル・ベン・ハイムPaul Ben-Haim,ベン・ツィオン・オルガドBen-Zion Orgad,ヨセフ・タールJoseph Talら,演奏家にエリアフ・インバルEliahu Inbal(指揮),ユダヤ人

水野 信男
図-中東戦争と領土問題
図-中東戦争と領土問題