平凡社 世界大百科事典

シュタウフェン朝

中世中期ドイツの貴族家門。ホーエンシュタウフェン朝Hohenstaufenとも呼ばれる。11世紀末いらい13世紀中葉の一門断絶にいたるまでシェワーベン大公。1138年から1254年まで,事実上連続してドイツ国王位につく。その間,フリードリヒ2世という3世代の英主は,いわゆる神聖ローマ皇帝としてヨーロッパ的覇権の樹立を目ざす。彼らの努力は挫折に終わるが,シュタウフェン諸帝の活躍は中世的皇帝権に最後の輝きを添えたと評価される。

 草深い北東シュワーベンの地に,小城ホーエンシュタウフェン(現,ゲッピンゲン市北東5km)を本拠とし,ロルヒLorch修道院(城の北6km)を一門の墓所として歴史に登場したこの中堅貴族が,遂には王座にまで急上昇する契機は,叙任権闘争期におけるロタール(国王として3世)の前に敗れたが,同王の死(1137)後,今度はコンラートが先王の女婿ウェルフェン家Welfenのハインリヒ倨傲公Heinrich der Stolze(?-1139)の競争を退けてドイツ国王に選出された。

 シュタウフェン朝諸王のうち最も大きな足跡を残したのはフリードリヒ1世(バルバロッサ,赤髭王)である。コンラート3世の治世14年間がウェルフェン家との抗争に明け暮れたとすれば,その甥フリードリヒ1世は母(ユーディト)からひいたウェルフェンの血のゆえに,両家和解の象徴として聖俗諸侯の一致した支持のもとで王位についた(1152)。彼は国内の係争事項を個別的に解決したのちイタリア遠征に赴き(在位中のイタリア遠征は6回をかぞえる),1155年,教皇ハドリアヌスの手によって皇帝に戴冠される。

 フリードリヒ1世のドイツ国内政策は,一口でいえば,強力な王権を中心にレーン制のきずなで束ねられた聖俗帝国諸侯によって構成される身分制的ドイツ王国の形成であり,これは,1180年のいわゆるシチリア王国がシュタウフェン朝の皇帝の手中に帰したことは,すべての反シュタウフェン政治勢力を結集せしめる結果となった。そして,1197年,ハインリヒ6世が2歳の王子(フリードリヒ2世)をシチリアに残して夭折すると,この機をとらえた教皇は諸侯を動かしてウェルフェン家のオットー4世Otto IV(在位1198-1215)をドイツ国王に選出せしめ,これに対抗するシュタウフェン派は皇帝の末弟フィリップPhilipp(シュワーベン公)を擁立,ドイツは二重国王体制の混乱に陥る。

 1208年,フィリップが私怨によって暗殺され,中心を失ったシュタウフェン家の勢力を再び興したのは,フリードリヒ2世であった。彼の壮大な政治理念は,イタリアを中心とする地中海帝国の形成にあり,ドイツの統治は長子ハインリヒ7世,次子コンラート4世Konrad IV(ドイツ国王,在位1237-54)にまかせた。フリードリヒの命とりになったのは教皇との対立であり,異端の烙印をおされ,教会の迫害者として破門された彼に対抗して,ドイツでは1246年ハインリヒ・ラスペが,1247年にはウィルヘルム・フォン・ホラントWilhelm von Hollandが国王に選出された。フリードリヒが死去するとともに,シュタウフェン家の勢いは落日の早さで落ち,シチリアを手中にするため遠征したコンラート4世が1254年他界した後には,同家からのドイツ国王候補は現れなかった(大空位時代)。その子コンラーディンKonradin(Konrad,1252-68)は1267年,イタリアに遠征して敗れ,翌年シャルル・ダンジューの命によってナポリに処刑され,シュタウフェン家は断絶した。

山田 欣吾
図-シュタウフェン朝
図-シュタウフェン朝