平凡社 世界大百科事典

中国,北周の武将で外戚でもあった楊堅(煬帝(ようだい))と2代38年間つづき,618年(皇泰1)に唐に取って代わられた中国の王朝。581-619年。隋の名の由来は,一説では,楊堅が北周において封ぜられた随国公(随王)の〈随〉から,政権の短命を連想させる辶(走の意)を削ったものといわれる。

文帝の時代

文帝は,新朝を興すと,当時高まりつつあった統一への気運に乗り,587年の後梁併合を経て589年には南朝最後の王朝陳を倒して,2世紀末以来の分裂と混乱の時代に終止符を打つ一方,支配体制の一元化に向けて精力的に取り組んだ。その最初に手がけたのは,中央官制の整備と三省六部制の確立,中央禁軍組織を十二衛府制へ一本化(のちに十四衛府から十六衛府へ拡大)およびそれに直結する地方軍府の充実と軍事権の中央への回収,律令法体系の整序(開皇律令,とくに律では肉刑廃止が確定),首都大興城(唐の長安城)の造営,といった全体にわたる体制固めの仕事であった。あわせて,官吏登用の方法として,清末まで続くことになる義倉(社倉)を設置した。この結果,隋代は戸口の把握が進み,およそ戸数900万,口数4600万という,唐の盛時をもしのぐほどに至ったのである。

 これら中央から地方末端におよぶ一連の統一事業の内容は,その多くがすでに前代までの諸王朝下で試みられつつあったものであり,すべて隋朝が始めたものとはいえない。とはいえ,それらを一括して系統的に,しかも成立後わずか10年ほどの短期間にやりとげ,つぎの唐朝にそのまま受け継がれる完備した中央集権体制を生み出したことは注目に値する。とりわけ地方行政制度をめぐる諸種の改革は,在地勢力の影響力を地方政界から排除し,地方分権的傾向の克服,中央からの威令の貫徹を可能にさせた一大事業として,中国史の上で特筆されるべき意義をもつ。こうした文帝の政治を支え,政策の立案・実行に加わったのは,高熲(こうけい),蘇威(534-621)に代表される一群の官僚たちであった。彼らは,西魏=北周の漢人・北人(とくに鮮卑系)協力体制のなかから出身したことによって,一般に〈関隴(かんろう)集団〉とよばれ,すぐれた現実感覚,文武両道にわたる実務的能力を備えて隋の政界において指導的役割を果たした。家柄のみを誇り,現実社会から遊離しつつあった門閥貴族層は,このような新しいタイプの官僚の進出,その彼らによる門閥主義の拠りどころであった九品官人法の撤廃,あるいは地方政治の場からの排除を通じて,基盤をひとつひとつ奪われ,後退を余儀なくされた。隋代は,この意味でも大きな転換期であった。

 かかる国内統一事業の進展は,対外関係にも大きな変化をもたらした。とくに中国北辺にあって,北朝諸政権を圧倒しつづけたトルコ系の和蕃公主)をめぐって進められる分断策,その一方で強まる軍事的圧力の両面作戦によって,ついに啓民(けいみん)可汗(?-609)のもとで恭順の意を示すに至った。ここに隋は,東アジアから北アジアにまたがる盟主としての地位を確立するが,ただ朝鮮半島に拠る高句麗だけはその勢力下に入るのを拒みつづけ,その解決がつぎの煬帝の課題として残されることになった。

煬帝の時代

さて2代目煬帝は,父文帝の名君ぶりとは対照をなす暴君として広く知られている。事実,兄の楊勇との後継争いに勝利して帝位を襲うと,ただちに東都洛陽城の再建,北は涿郡(たくぐん)(北京市付近)から南は江南の杭州(浙江省)に至る長大な運河の開削(通済渠,永済渠,邗溝(かんこう),江南河)といった一連の大土木工事に着手した(高句麗に対する3度の征討行動を展開し,加えてぜいたくな遊興の生活にふけった。この結果,文帝時代の蓄積を費消し,農民には過酷な誅求,動員を強い,その反動として巻き起こった動乱によって滅亡へと追いこまれたのである。だが留意しなければならないのは,その政治の基調は,本質的には文帝の踏襲・徹底化にあった。すなわち,官僚機構,軍制,税制等制度面の整備がいっそう進んで,皇帝を中心とする中央集権体制が完成の域にまでひき上げられ,大運河の開削を通しては,隋の当初から追求された政治・経済・文化の各方面での南北一体化がさらに促された。対外活動でも,文帝以来の方針を踏まえたうえで,吐谷渾を討って西方へ領土を広げ,同時に西域諸国との関係改善を図り,南は林邑(りんゆう)(ベトナム)や流求(台湾)に進出を果たしたのであり,しかも遠く倭(日本)からは聖徳太子の〈日出づる処の天子,書を日没する処の天子に致す,恙(つつが)無きや,云々〉で有名な国書を携えた遣隋使が派遣されてきた。ちなみに隋代における倭からの使者は,中国文献によれば文帝末時(600)が最初であり,後述にあるように,このときにもたらされたものが太子の政治改革に影響を与えたと考えられる。こうした順調な対外発展にあって,残るは文帝からの懸案であった対高句麗問題であり,その解決によって文帝以来の方針が完遂するはずであった。しかし高句麗側の執拗な抵抗はそれを許さず,その挫折が同時に隋の崩壊を意味することになった。

 一方,農民は,文帝期から厳しい戸口調査,郷村統治による抑圧を受けており,煬帝の支配が過酷であったといっても,基本的に置かれた状態に変りはなかった。したがって,隋末から唐初の10年間に,全土で数百という膨大な数にのぼった農民の蜂起は,直接には煬帝の暴政への反抗として現れるが,底流には反隋反中央集権の意識が脈うっていたとみなければならない。だがそうした農民の強い意欲から出発した反乱であったにもかかわらず,結局は隋と同じ〈関隴集団〉の系列に属する唐の李淵集団に屈服させられた。それはいいかえれば,広い視野と展望,隋に代わる新たな論理を用意できず,また一つにまとまりきれないという限界性をさらけ出した農民側と,太原(山西省)の地で隋の高官(太原留守)としてまとまった官僚集団と軍事力をもち,広範な人々の期待を結集することができた李淵(高祖)との違いによるものであった。とはいえ,この農民の動きを通して,奴賊や弥勒教徒,あるいは仮父子関係や任俠的結合など民衆世界の多様な姿が浮彫りになり,また結果として唐の統治のあり方を規定し,唐朝三百年の素地をつくったことは注目される。

隋の文化

文化面では,隋代は,政権そのものが短命に終わったうえ,なお政治がすべてに優先する時期に当たっていたため,全体として独自性を打ち出すまでには至らなかった。ただ仏教において,隋帝みずから熱心な帰依者であり,人心収攬の一手段としても重視されて,積極的な保護がなされたため,北周武帝の廃仏政策で受けた壊滅的打撃からいち早く立ち直り,文帝期にすでに寺院3700余,僧尼23万と記録される隆盛をみた。そのなかで,教理において外来的宗教から中国仏教への脱皮が進み,大乗仏教としての隋唐美術

気賀沢 保規

隋と日本

日本の古代国家の形成は,隋帝国の出現と深いかかわりがあった。隋が589年に南朝の陳を滅ぼして中国を統一すると,高句麗は隋の進攻をおそれて防備を固め,高句麗・百済・新羅3国間の緊張も高まった。任那(加羅)の回復をめざして新羅と敵対していた倭は,隋との外交を開くことによって新羅に対する立場を有利にすべく,約1世紀間中絶していた中国王朝との外交を再開し,600年(推古8)に使節を隋の都に送った。

 この600年の遣隋使について《日本書紀》は何も記していないが,この遣使のあと,603年に冠位十二階,604年に十七条憲法が制定され,607年に小野妹子を大使とする本格的な遣隋使が派遣されているので,600年の遣隋使が長安の都で受けた政治的・文化的なショックが,推古朝の国政改革の重要な契機となった可能性が強い。十二階の冠位の制定も,国内的な要因によるだけでなく,遣隋使の威儀を正し,その使節の地位を明示するためでもあったと推定される。また十七条憲法が天皇の権威の根源を日の神を中心とする神話ではなく,中国の天覆地載の理論に求めたのも,600年の遣隋使の天皇についての説明に対して,隋の文帝が〈此れ大いに義理なし〉といったことと関連があるかもしれない。蕃夷からの朝貢使に対して,その国の王の名や歴史,戸口数,産物,風土などを報告させるのは,中国王朝の伝統であったが,推古朝に《天皇記》《国記》等の編纂が始められたのも,隋への遣使を契機とした可能性が強い。

 これまでの朝鮮諸国を媒介とする大陸文化の受容から,中国文化の直接的継受への転換を企図した朝廷は,遣隋使といっしょに,遣隋使

吉田 孝
平凡社 世界大百科事典

中国,周代諸侯国の一つ。姓は姫,爵は侯。春秋時代を通じて存続し,戦国の初めに楚に滅ぼされたと考えられるが,封建された時代や事情などについては不明な点が多い。都邑は現在の湖北省随県とみる説が有力。しかし随県城の北西にある前5世紀ころの古墓(曾侯乙墓(そうこういつぼ))から〈曾侯〉の銘のある青銅器が出土しており,随と曾との関係が論議されている。なお,隋・唐の隋とは,楊堅(文帝)の父の楊忠が北周のとき随国公に封ぜられたことによる命名とされる。

永田 英正

曾侯乙墓

1978年,随県擂鼓墩で調査された戦国時代初期(前5世紀後半)の曾国の乙侯の墓。岩に不規則多辺形の竪穴墓坑を掘り,中に4室からなる木槨室をつくり,そのまわりに木炭と白陶土をまいていた。東槨室内に漆絵が描かれた二重の木製の主棺があり,ともに21個の殉葬者棺と犬棺が1個あった。副葬品は楽器,銅礼器,武器,金器,玉器,漆木竹器,竹簡など7000余点があり,なかでも3層の木製の横木にかけられた,最大が高さ153.4cmある64点の編鐘と鎛鐘1点,編磬32点,鼓,瑟,排簫などの楽器のセットはとくに注目される。また漆箱のふたには青竜,白虎と朱書きされた二十八宿の名称のある図があり,二十八宿の考えが早く中国におこったことを示す。銅礼器のセットや高度の鋳造技術を駆使した銅器も注目される。

杉本 憲司