平凡社 世界大百科事典

隋唐美術

古代社会の集大成である漢の滅亡以後,華北は北方遊牧民族の支配下におかれ,漢人は江南の穀倉地帯を経済基盤とする文化を開いた。遊牧民族と深いつながりの中にその政治文化を標榜した北朝に南朝が統合され,華北と江南とが漢以来再び一つの政治体制のもとに動きはじめたのが隋代である。隋代38年ののちこれを受けた軍閥貴族集団である唐は,北の政治,南の経済を長安・洛陽に集合し,対外的にも北方・西方の遊牧民族に対処しつつ,トゥルファン(吐魯番)以西パミール以東の異域に勢力を及ぼし,西域の確保と同時にその高次の文化を吸収していった。

 隋・唐の文化は南北合一に基盤があるが,支配者層の嗜好を反映していちじるしく外向的かつ華美であり,規模の点では南朝のような抑制された性格とは異なり,壮大かつ数量的であり,質の点で粗大であったといえる。それは,南朝の都城や王陵と隋・唐のそれらとの比較によって容易に理解できるであろう。この動向は隋の統一から初唐,すなわち6世紀末から7世紀末にむかって上昇線を保ち,8世紀前半の50年に頂点をむかえている。南北朝では一面で漢代に完成した旧文化を保つ一方,新たに西方から伝入した仏教とそれにともなう文化による刺激を受けて,南北それぞれがこれに対応するなかで新しい文化の動きをみせたのである。しかし,その動きは緩慢であった。隋から初唐にかけて前代の文化の基盤の上にさらに新しい異域の文化の刺激により急速に文化の各分野が活発になり,8世紀前半にいたって南北朝以来の文化が集大成されたのである。→大運河によって江南,とくに揚州と直結し,遭運によって米穀を北上させ,洛口倉を擁する北方経済の中心となった。

 隋大興城=唐長安城は北を渭水,南を終南山で限定され,ただ東西に風通しのよい交通線上におかれ,四通八達の地というよりも東西そして渭水をはさんだ北に対する守りの地であった。東西9.5km,南北8.4kmの規模は中央北端に南面する宮城とその南に皇城をおき,皇城の朱雀門と都の南門明徳門とを結ぶ幅150mの朱雀大街を中軸に右(西)街・左(東)街が区分され,碁盤目状に街路が形成されて各坊が区画された。唐の高宗は663年(竜朔3)に宮城北東外に接して興慶宮を拡張しここに移った。春明門は洛陽に通じ,また鉄行・絹行などの同業組合や倉庫のあった官設市場東市(隋では都会市)に直結していた。興慶宮に政治が移るころ貴族の邸宅もこのあたりに集中して殷賑(いんしん)をきわめた。西街には隋に利人市といった西市があり,開遠門とむすんで西域といった背景をもつ官設市場であった。7世紀後半からはゾロアスター教寺院(波斯胡寺)やネストリウス派キリスト教教会堂(大秦寺),そしてマニ教寺院(大雲光明寺)などの異域の宗教施設が多くの道観と並んで,開遠門南北の義寧普寧両坊,西市北の醴泉(れいせん)布政両坊にあった。唐長安城の宮殿は,大明宮含元殿が発掘や唐墓壁画,慈恩寺大雁塔の楣石(びせき)の線刻画などから復原され,高さ20mを測るが,規模としては洛陽の宮殿が概して大きかった。しかし,則天武后が建てた全高100mの明堂やその北にこれを見下ろす天堂(5層の仏殿)を建てたのは,北魏洛陽の永寧寺の壮大な架構と同巧の性格から出た建築といえよう。

 規模とおそらくは副葬品の質量とにおいてこの傾向を反映するのは皇帝陵である。隋の王陵は未調査であり,文帝の曾孫の幼女李静訓墓の厚葬から推量するばかりである。唐の王陵は歴代長安城北の丘陵地帯に営まれた。高宗と則天武后を合葬した石窟寺院は北魏についでさかんに造られ,隋では天竜山,雲門山,駝山などが開かれ,竜門にも造営された。隋から唐にかけては七尊形式はしだいに姿を消し,三尊・五尊形式の釈迦・阿弥陀の座像が好まれ,北魏の交脚像(弥勒)は倚座像にかわった。7世紀末は唐代を通じて仏像がもっとも多くつくられ,観音像が普及した。8世紀中ごろを境に仏像制作は急激に衰退し,石窟も四川甘粛でのみ多少つくられたが,姿態に充実がなく平俗に流れ,人間に近づいて観音,羅漢が多く,次代にひきつづいていく。

 隋の硬直した正面性から初唐に至って姿態に動きが出,8世紀初めには堂々たる唐様式が完成し,のち平俗化の一途をたどる状況は,仏像ばかりでなく,彫刻全般にわたり,さらに工芸の上でもみられる。隋から唐にいたる美術各分野の様相は年代の明白な墓葬出土品によってうかがうことができる。6世紀末が李和墓,張盛墓,7世紀初頭が李静訓墓,姫威墓,7世紀中葉が鄭仁泰墓,李爽墓,そして8世紀初頭の状況が懿徳(いとく)太子(李重潤)墓によって知られる。

 漢代以来の伝統工芸である鏡鑑は,漢三国時代に完成し,六朝時代はそのおそらく亜流にとどまったが,隋・初唐になると,まず四神鏡,規矩鏡などの在来形式を基礎にしつつ,銘文字体や施文に新たな動きをみせて製作され,次いでまったく新しい形式である団華文鏡をはじめとする新形式が生まれ,また西方の文様の消化吸収のうえに白銅の葡萄鏡が出現して好まれた。この中には方形鏡もある。しかし新形式出現にもかかわらず鏡鑑に対する意識はあくまで長楽瑞祥であって,盛唐には当時の金銀容器の型式と軌を一にする八花八稜の鏡も制作され,鏡背文様には鋳型による施文から一歩進めて金銀平脱,螺鈿(らでん)を用いた華麗で肉薄のものも大いに好まれた。従来紐を中心にした文様配置から絵画性の強い伯牙弾琴図などもあらわれ,神仙主題はなくなり,自由かつ多種な作風を生んだ。

 前代は金銀などの貴金属を容器に使うことは抑制されていたが,装飾具としての金銀細工には伝統があった。これを受けつぎ,パミール西方の文化の流入にともない,8世紀前半に急速に異常な活況をみせたのが金銀容器とその文様細工である。実例は西安何家村の一括出土品や安禄山事跡などの文献から知られ,精緻な魚子(ななこ)や文様に金鍍金(めつき)する技術は絶頂を極めた。8世紀後半以後は文様に伸びがなく,器形や用途も多岐となり,薄手の量産が始まり,宋・元へと続いていくが,陶磁器生産の確立と無関係ではない。

 貴金属容器の消長と軌を一にした動向は8世紀前半に明器(めいき)として貴紳の間に流行した唐代の創案にかかる三彩陶である(唐三彩)。藍・緑・褐の施釉と無色の白地とを効果的に使ったこの紅胎陶器は,墓に入らなければ日常品として通ずる器物から鎮墓俑や家屋明器まで多岐の製品から成り,東アジア地域でもこの模倣がおこったほどである。施釉陶は漢代以前にさかのぼって認められるがその発達は六朝を通じてゆるやかであったが,唐代に技術上の進展がおこってまことに青磁白磁の名に値する製品があらわれ,宋元陶磁への基礎をつくった。

 染織の分野でも唐のもつ意味は大きい。漢代の伝統の上に西域の染織品の流入の刺激をうけ,図文ばかりでなく織技術も改良され,宋以後の発展のもとをなしている。すなわち種々の織成の錦・綾・羅・紗や白畳・氈が隋・唐におこなわれ,技法では緯錦や綴錦が西域から入り,華麗で多彩な錦製作がはじまり,文様では従来の雷文・菱形文・雲文にかわって唐草,パルメット,蓮華,連珠文,花樹対獣文など新規の文様が入って旧文に取って代わった。また﨟纈(ろうけち)など三纈もインドから入り,隋・唐の染織を豊かにしていった。

桑山 正進