平凡社 世界大百科事典

教皇

〈ローマ教皇〉〈ローマ法王〉ともいい,単に〈法王〉と記すこともある。ローマ司教,イエス・キリストの代理者,使徒ペテロの後継者,全カトリック教会の最高司祭,西欧総大司教,イタリア首座大司教,ローマ管区首都大司教,バチカン市国元首。パパPapaという親称は,本来ギリシア語のパパスpapas(〈父〉の意)に由来し,東方世界において修道院長,主教,総主教に対して使われていた。ローマでは初めてローマ司教リベリウスLiberius(在位352-366,以下同)の墓碑に記され,レオ1世Leo Ⅰ(440-461)あての東方教会からの手紙にはしばしば現れる。西方教会では5世紀中葉以来ローマ司教のみが〈パパ〉すなわち〈信仰上の父〉〈教皇〉と呼ばれるようになった。この親称はグレゴリウス7世Gregorius Ⅶ(1073-85)によって普遍化されるにいたった。グレゴリウス1世(590-604)は〈神のしもべらのしもべ(セルウス・セルウォルム・デイServus servorum Dei)〉とみずからを称したが,それこそ教皇職の真の姿を表している。西欧中世においてローマ司教は〈大司祭(ポンティフェクス・マクシムスPontifex maximus)〉〈キリストの代理者(ウィカリウス・クリスティVicarius Christi)〉〈最高司祭(ポンティフェクス・スンムスPontifex summus)〉と呼ばれている。それは全教会の最高の責任と使命の職を担うローマ司教の自己意識や使徒ペテロの後継者に対する全キリスト教徒の敬愛心,また聖・俗界の対立の中で形成された教皇職の霊的権能の宣言を表している。

教皇職の発展

4世紀初頭コンスタンティヌス大帝以来,ローマ帝国の政治的中心はローマからコンスタンティノープルに移った。かくてゲルマン民族移動時代において,ローマ司教は教皇としてローマ・イタリア民衆の霊的中心となった。その牧者的姿はダマスス1世Damasus Ⅰ(366-384),インノケンティウス1世Innocentius Ⅰ(401-417),ケレスティヌス1世Coelestinus Ⅰ(422-432),レオ1世に見られる。教皇職の西欧中世での発展はグレゴリウス1世によって基礎づけられた。彼はローマ・イタリア民衆の心の柱となり,かつアングロ・サクソンのキリスト教化を展開した。中世初期ゲルマン諸民族はカトリック信仰において教皇の霊的権能の下に集まり,部分的にスラブ民族もローマ教会に入った。ローマ教皇権とフランク国王権の協力はグレゴリウス2世(715-731)とザカリアスZacharias(741-752)に始まり,その連帯同盟はステファヌス2世Stephanus Ⅱ(752-757)において強化された。カロリング朝のピピンは教皇に教皇領を寄進し,その子カールは800年レオ3世から皇帝戴冠を受けてローマ教会化の諸政策を推進した。カロリング朝末期の衰退において特に教皇職の威信はニコラウス1世Nicolaus Ⅰ(858-867)によって高められた。

教皇職の光と影

教会改革の幕が開かれ,ドイツ人諸教皇が11世紀前半〈ペテロの座〉につき,教皇職の新時代を築いた後,グレゴリウス7世(1073-85)は〈教会の自由〉すなわち〈いっさいの世俗権力からの教皇職と教会の自由と独立〉を宣言した。そのためローマ教皇とドイツ皇帝との対立が激化していった(アビニョン捕囚〉が起こった。続いて全西欧キリスト教世界の教会大分裂(シスマ)が起こり,真の教皇はローマの教皇かアビニョンの教皇か,同時代人も教会史家も簡単に答えられないほど教会は混乱してしまった。かかる教会の危機の中で〈公会議至上主義〉が現れた。この危機を乗り越えて,ニコラウス5世(1447-55)以来,ルネサンス人文主義と教皇職との結合が始まった。ルネサンス諸教皇は芸術・文化の保護・創造に心酔したが,彼らは切迫する教会改革の諸問題に献身しなかった。ルネサンスの栄華を楽しむレオ10世(1513-21)の在位中,西欧キリスト教世界は宗教改革による信仰分裂の状況を迎え,教皇職の地位は沈んでしまった。

近代の諸教皇

苦悩と希望の中でパウルス3世Paulus Ⅲ(1534-49)は新時代を直視してキリスト教

鈴木 宣明
表-歴代教皇表
表-歴代教皇表
表-歴代教皇表(つづき1)
表-歴代教皇表(つづき1)
表-歴代教皇表(つづき2)
表-歴代教皇表(つづき2)