平凡社 世界大百科事典

スリナム

南アメリカ大陸の北東部に位置する共和国。面積は日本の2分の1弱で,南アメリカ諸国の中で最も小さい。

自然,住民

北部の海岸を除き西をガイアナ,東をフランス領ギアナ,南をブラジルと接した国土は,海岸低地と中部のサバンナ地帯,熱帯樹林におおわれた南部山地に分けられる。気候は亜熱帯性で高温多湿だが,沿岸部は北東の貿易風が吹くため比較的しのぎやすい。9~12月にわずかな乾季があるものの,年間降水量が多いため河川の水量は豊富で急流が随所にある。スリナムの名は土着語の〈岩の多い川〉にちなんでつけられた。全人口の37%がインド人で,クレオール(黒人系)31%,ジャワ系アジア人16%,黒人10%,その他中国系の住民も多く,全般にアジア的色彩が強い。公用語はオランダ語だが,英語,ヒンディー語などが広く通用し,スラナンと呼ばれるヨーロッパ諸語の混合語が人種間の共通語になっている。首都パラマリボはスリナム川の河口岸に接するオランダ風の町並みで,全人口の90%がその周辺に住み,商業・経済活動に従事している。

政治,経済

1948年オランダ修正憲法によりオランダ領植民地から脱却し,オランダ領西インド諸島とともに本国と対等の海外領土になった。さらに54年以降は軍事および外交を除き完全な自治権を与えられ,独自の国章,国歌および国旗をもつにいたった。自治形式はオランダ国王を代表する総督が政府の首班となり,選挙により選ばれた議員のうち9名の閣僚をもって内閣を組織した。75年11月25日オランダはスリナムに完全独立を与え,新憲法と新国旗が公布された。これにより,スリナムは共和制をとり旧総督が大統領に就任して国家元首となり,自治政府首相が新政府の首相の地位に就いた。独立時の憲法は80年の軍事クーデタで停止され,軍政がしかれたが,87年民政移管の直後に新憲法が制定された。一院制の国会は51名の議員からなり,任期は5年,総選挙で選ばれる。国会で選ばれた大統領が首相(副大統領)と閣僚を任命し内閣を組織する。

 17世紀にイギリスがはじめて植民に成功し,タバコ栽培を手がけた。最初はスリナム川などの上流地帯に居住地を築き,川岸に沿ってタバコ,コーヒー,カカオの栽培を始めた。しかし川岸地帯は当時需要の多かったサトウキビ栽培には不向きであったので,海岸低地の開発が必要となった。イギリス人はこの地域に関心を払わなかったが,1667年第2次英蘭戦争後,オランダ領になって以来,海岸低地のオランダ式干拓が開始されサトウキビ栽培が隆盛となった。

 1863年の奴隷廃止令によってサトウキビ農園は打撃を受けたが,73年にインド人の契約移民を導入し,さらに90年にジャワからの移民も加わって労働力を補った。契約移民の引止め策として土地所有を認め,サトウキビに代わってアジア人の主食である米の栽培を許したため,従来の農業構造に変化が生じた。米や果物類がサトウキビにとって代わり,輸出農産物の半分を占めるにいたった。

 また1950年代に入るとスリナムは世界有数のボーキサイト産地となり,アメリカ資本のスリナム・アルミニウム会社(Suralco)がコッティカおよびパラ川付近に大規模な露天掘りを行い,採掘量は世界第6位(1988)を占めたが,91年にはボーキサイトの輸出価格が25%も下落し,伸び悩んでいる。産業構造は隣国ガイアナと共通するが,水路を利用した林業や沿岸漁業などの多角化が進んでいる。

歴史

スリナムの人種構成は隣国ガイアナに類似しているが,アジア人種が数において黒人系住民をしのぐ。また同じオランダ領植民地ジャワからの契約移民が加わり,英領植民地とは異なる比較的穏健な植民地社会を形成した。黒人は奴隷解放後にプランテーションを出て小農となり伝統的なサトウキビ栽培に従事するか国外に去った。またインド人は契約終了後土地を得て自作農になったり,都市に進出して商業や知的職業に就いた。スリナムにおけるアジア系住民は教育熱心であり学校経営にも積極的で,隣国のガイアナにくらべて識字率が高く,知的面での貢献が大きい。砂糖業の没落は経済活動の多角化を促し,移住者の人種的な職業分化をもたらした。第2次世界大戦後の民族独立運動には人種間の協調関係がよく維持され,この点ではガイアナとは対照的である。スリナムの独立運動が比較的おだやかに進行したのは,インド・パキスタン系住民による政治的支配が原因と考えられる。

 第2次大戦後,同国初の政党としてインド・パキスタン系の統一ヒンドゥスターン党(VHP)が結成され,1973年にいたる約10年間,第一党の地位を固めていた。73年の総選挙において黒人系とジャワ系の利益を代表する諸政党が連合した国民政党連合(NPK)がVHPに勝ち,同国の政治情勢が大きく変化した。すなわち,それまで急激な独立を要求せず現状維持を主張したインド・パキスタン系の指導原理が崩壊し,スリナム国民党(NPS)を率いるヘンク・アロンの新政府がオランダに対して独立交渉を開始した。この政情の変化はスリナムに早期の独立をもたらしたが,同時に今まで目だたなかった人種間対立に拍車をかけた。約4万人のインド・パキスタン系住民が新政府の圧迫を恐れてオランダ本国に脱出し,また79年にはジャワ系住民党(KTPT)が与党NPKより離脱したためアロン支持がしだいに減り,オランダの経済援助も大幅に後退した。80年2月下士官らの起こしたクーデタでアロン政権が倒れ,同8月ブテルス国軍総司令官が実権を掌握した。82年12月反政府指導者15人を処刑するなど独裁体制を固めたが,旧宗主国オランダが処刑に抗議して援助を打ち切り,経済的に大打撃を被った。

 ブテルスは84年民政移管を公約,これに基づいて87年9月に新憲法が制定され,同11月には総選挙が実施された。選挙では野党3党の連合体〈民主主義と発展のための連合戦線〉が圧勝し,88年1月には国会でシャンカルが大統領に選ばれ,8年ぶりの文民大統領に就任した。90年にブテルスが軍指令官を辞任した直後,再び軍部が政府を転覆させた。オランダとEUによる制裁を回避するため,91年に米州機構派遣の監視団の下で総選挙が実施され,フェネティアンの率いる新戦線(NF)が第一党となった。フェネティアンの大統領選出後,軍属の員数の大幅削減と,軍部による政治への不介入を憲法の修正条項に加えたが,さまざまな干渉の主役ブテルスは国民民主党(NDP)を組織,政府の強敵に返り咲いた。他方フェネティアン政権は長年の政治不安が引き起こした対オランダ関係,資産階級のオランダ逃避,実質価値の10分の1に満たない軍政レートなどの改善策に乗り出した。92年に経済再建計画(1994-98)が発表され,94年には変動為替相場制を実施し,インフレ率の低下を達成したのと同時に,政府汚職の発覚に国民がフェネティアン政権に強い不満を示し,政局が再び悪化した。96年にNDPのビンデンボシュ元首相が大統領に選出され,外交面での欧米偏重を修正しブラジルなど南米経済圏への接近を図っているが,政治的安定が確保されないため,海外の援助国も状況を見守っている状態にある。なお,パラマリボ市郊外に基地を持つ,日本の漁業合弁会社がエビ漁船を多数出航させている。

寿里 順平