平凡社 世界大百科事典

囀り

鳥が繁殖期に出す特殊な美しい鳴き声。地鳴きに対する語。分類学上のスズメ目の鳥で特によく発達しており,さえずるのは一般に雄である。さえずりには主に二つの重要な機能がある。一つはテリトリー(なわばり)の宣言である。テリトリーの境界そのものは攻撃行動によって維持されることが多いが,さえずりはほかの雄を自分のテリトリーに近づけさせない働きをもっている。もう一つの機能は,雌をひきつけてつがいを形成することである。このため,テリトリーをかまえ,つがいを形成してしまった雄は,繁殖期であってもあまりさえずらなくなることが多い。さえずりは,鳥の種ごとに異なっている。特に,外観のよく似ているムシクイ類やホトトギス類では,種によるさえずりの違いが著しい。こうした種間のさえずりの違いは,異種間のつがいが形成される危険を減らすことに役だっているらしい。一部の種では,雌もよくさえずり,雄とデュエットすることがある。日本の鳥の中では,コジュケイやアオバズクがその好例である。鳥のさえずりは,人の言葉によって置き換えることができる。例えばウグイスのさえずりは“法法華経”と,ブッポウソウの声は“仏法僧”と聞くことができる。このような人の言葉への置換えを,さえずりの〈ききなし〉という。

樋口 広芳
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中国における詩の六義(りくぎ)の一つ。〈風〉〈雅〉と並んで《詩経》の一分野を構成する。周王室および魯・宋(商)の諸侯が宗廟で祖先をたたえた神楽歌(かぐらうた)である(《古今集序》は〈いはひうた〉と訓ずる)。そこから発展して,韻文の文体の一種となり,主として個人の功業をたたえる内容をもつ。4字句から成り,偶数句で押韻する。《詩経》の伝統を承けて,典雅な趣が貴ばれる。このほか仏の徳を賛美する韻文も頌(じゆ)と称される。

興膳 宏
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宋(中国,春秋時代)

中国,春秋時代の侯国。?-前286年。殷の滅亡後,殷王帝辛(紂王)の兄微子啓が,殷の故都商邱(河南商邱県南)に封ぜられた国。春秋時代には河南東部を中心として勢力をもち,第19代襄公は桓公死後の斉の内乱を治め,覇者を志したが,楚に敗れ死亡。以後晋・楚の間にあり,両国の圧迫に苦しんだ。その間前588年,前546年の2回,宋が中心となって晋・楚の和平を実現させた。戦国時代には小国に転落,前286年斉,魏,楚に三分され滅んだ。→春秋戦国時代

伊藤 道治
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宋(中国,南朝)

中国,南朝四王朝の一つ。420-479年。創業者は劉裕(魏晋南北朝時代

吉川 忠夫

対倭政策

東晋のあとを継いだ宋は,東晋と交渉のあった諸国王をそのまま自王朝の藩臣として位置づけようとして,東晋が諸国王に与えていた将軍号のランクを昇進させた。宋朝樹立の420年に高句麗王高璉を征東将軍から征東大将軍に,百済王扶余腆を鎮東将軍から鎮東大将軍にそれぞれ進めた。しかし,この時点での倭国王の昇進はなく,421年倭国の朝貢をまってはじめて倭国王の讃を任官した。このときの官爵号は安東将軍・倭国王であったと思われる。倭国王の将軍号はこの後も高句麗王や百済王よりも低く,そこに宋の倭国に対する評価が示されている。宋の基本目標は北魏を滅ぼすことであったが,現実には北魏の勢力は強大で征服は困難であった。次善の策は北魏と境域を接する諸国と連携して対北魏包囲網を作り,北魏勢力を封じ込めることであった。宋のこの外交政策からみたとき,倭国の利用価値はうすい。倭国王の地位の低さはここに原因があろう。→倭の五王

坂元 義種
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宋(中国の王朝)

中国に960年から1279年まで存在した王朝。1127年(靖康2)の靖康の変によっていったん滅亡したので,それ以前を北宋,以後の南遷して杭州に都した時期を南宋という。

政治過程

後周世宗の武将であった趙匡胤(ちようきよういん)は,世宗の没後,部下の将兵に擁立されて皇帝となり,宋朝を開いた(960)。宋の太祖である。彼は世宗が始めた天下統一の事業を受け継いで,在位17年間に,南方に割拠していた荆南,楚,南漢,後蜀,南唐を相ついで征服した。残る呉越は,太祖を継いだ太宗のはじめに併合され,遼(契丹)の後ろだてをえて山西地方に独立国を建てていた北漢も,979年(太平興国4),親征した太宗によって滅ぼされた。かくして8世紀中ごろの安史の乱以後,2世紀以上にわたって分裂の状態がつづいた中国は,ようやくここに統一された。太祖は統一事業をすすめる一方で,唐末五代の混乱が武人の専横に起因したとの反省から,地方軍閥が握っていた軍事,財政,司法等の権限を取り上げて〈強幹弱枝策〉を推進し,さらに宰相等の職掌を分散して皇帝のみが全権を掌握するという君主独裁体制を築いた。しかも,武人をおさえて文臣を重用する文治主義を統治の基本方針とした。つづく太宗は,太祖の諸政策を継承するとともに,さらにいっそう強化して,宋朝の基盤をかためた。なかんずく,科挙の門をひろげて大量の知識人層を官僚に登用したことは,士大夫階級が政治,社会の指導層として進出する道を開くことになった。

 宋朝は中国統一によって国内の平和と繁栄をもたらしたが,対外的にはつねに周辺の新興国家の圧迫をうけた。太宗は北漢を平定した余勢をかって,五代後晋が遼に割譲したいわゆる燕雲十六州の奪回をめざして出兵したが,2度とも大敗して,その望みを断たれた。かえって1004年(景徳1),遼の大挙侵入をうけ,澶(せん)州において和議(澶淵の盟)を結び,宋は兄,遼は弟の関係とし,宋から多額の銀と絹とを歳幣として贈ることを定めた。そのころ西北辺にはタングート族が興起し,東西貿易の利を占めて強大となり,1038年(天授礼法延祚1)ついに独立して大夏国を建てた。宋側はこれを西夏とよんだ。西夏もまたしばしば宋の領内に侵入したので,仁宗は大軍を派遣して,4年間もこれと戦ったが,勝利をおさめることができなかった。44年(慶暦4)に和議が結ばれ,宋は西夏に毎年銀,絹,茶を与えることにした。その後も北辺に衝突が起こるごとに,宋は歳幣の額を増やすことで問題を処理した。こうして,周辺諸国を対等の国と認めてこれと和を結び,しかも多額の歳幣を贈るという,唐代にはなかった新しい外交関係がつくられた。宋はいわば,名より実をとり,消極的だが現実的な外交策を選んだのである。

 統一して数十年もたつと,ようやく社会のひずみが表面化してきた。ことに長期にわたる西夏との戦争によって軍事費がかさみ,そのうえ官僚と軍隊の数が年々増えて財政を圧迫した。そのしわよせが農民への重税となり,生活に苦しむ農民の中には流民や群盗となって各地に反乱を起こす者があった。しかし太平になれた政府は,これに対して無為無策であったから,社会矛盾は年とともにはげしくなった。そこで1043年,范仲淹(はんちゆうえん),欧陽修らは仁宗の信任をえて行政改革を試みたが,多くの反対にあってわずか1年で挫折した。事態がいっこうに改善されないうえに,英宗朝になると,英宗の生父を礼法上いかに処遇するかをめぐって,朝廷を二分する大論議(濮議(ぼくぎ))が起こり,いたずらに政治の空白が生じた。このような危局に即位した神宗は,王安石を抜擢(ばつてき)して,大規模な改革を行わせた。これを王安石の新法とよぶ。改革の第一の目的は,破綻した国家財政を立て直すことにあったが,従来のような重税と節減といった単純な施策では,もはや解決できない状態になっていた。王安石はそこで〈生財の道〉すなわち積極的に財源を生み出す方策をとり,改革は単に財政の問題だけに限られず,ひろく社会政策にも及んだ。69年(煕寧2)より均輸法,青苗法,市易法,募役法,保甲法,保馬法とやつぎばやに〈新法〉を発布した。

 これに対して既得権を侵害されることを恐れた官僚,大地主,大商人,それに宗室たちは猛然と反対したが,神宗は断固としてこれを遂行し,相当の成果を挙げ,財政は黒字に転じた。しかし神宗の没後,哲宗の摂政となった宣仁太后は,旧法党の領袖司馬光を宰相に任じて,新法をことごとく廃止し旧法にかえした。やがて哲宗が親政すると,今度は新法党人を起用したが,彼らは改革よりは反対派に報復することに力を注いだので,新旧両党の争いに拍車をかけることになり,政治の混乱を招いた。加えて事実上の北宋最後の皇帝となった徽宗は,政治のことは宰相の蔡京にまかせて,日夜遊興にふけり,書画骨董の収集に熱中し,豪壮な宮殿,庭園,道観等を造営したりして,莫大な金銭を使った。その補塡のために,蔡京はあらゆる手段を用いて誅求を行い,人民を苦しめたので,浙江の方臘(ほうろう),山東の宋江はじめ各地で反乱が勃発し,政府はその鎮圧に手をやいた。そのとき,東北地方に起こった女真族の金が遼を滅ぼし(1122),さらに南侵して,1127年都の開封を占領し,徽宗,欽宗らを捕らえて北に連れ去った(靖康の変)。

 地方に出ていて難を免れた欽宗の弟高宗は,その年のうちに南京応天府(河南)で即位して宋朝を再興したが,金軍に追われて江南に逃がれ,杭州を仮の都臨安と定めた。このとき,高宗に従って華北の官民が多数江南に移住した。このことは,4世紀の晋の東遷につぐ中国史上の大事件であり,江南の開発が一段と促進され,華北に対する江南の経済的優位を決定づけることになった。南宋ははじめ,岳飛らの活躍によって一時は開封近くまで盛り返したが,高宗は金から帰還した秦檜(しんかい)の献策に従って,武将たちを都に召還し,42年(紹興12),金と和議を結んだ。それは淮水(わいすい)と大散関(陝西)を結ぶ線を両国の国境とし,宋は金に対して臣礼をとり,歳幣として銀25万両,絹25万匹を贈るという,宋にとってはなはだ屈辱的な条件であったが,これによって以後20年間は平和がつづき,国力の充実をはかることができた。そして61年,中国統一を夢見た金の海陵王の南侵が失敗に終わったのち,金の世宗と南宋の孝宗との間で再講和が成立し,歳幣の額を減らし,宋主は金主を叔父とよぶなど,宋に少しく有利に改められた。

 その後,両国とも自国の整備につとめたので,しばらく平穏であったが,13世紀はじめ,寧宗の宰相韓侂冑(かんたくちゆう)は,金が北方のモンゴルに苦しめられている機に乗じて,北伐を敢行して,大敗を喫した。そのため,今度はきわめて不利な条件で和を結ばねばならなかった。しかもこのころになると,年々増加する軍事費のために財政が窮乏し,正税のほか諸種の雑税が加徴され,強制的な軍糧調達も行われた。さらに会子とよぶ紙幣を乱発して物価騰貴を招き,経済界を混乱させた。そこで賈似道(かじどう)は公田法を施行(1263)して大地主の土地を買い上げることにし,ある程度の成果を挙げた。しかし国力を挽回するまでにはいたらず,元の世祖フビライの攻撃をうけて,1276年に臨安が陥落,恭帝は元の軍門に下った。文天祥らは幼帝を奉じてなおも抵抗をつづけたが,79年(祥興2),広州湾の厓山島に追いつめられて全滅し,宋朝はここに完全に滅亡した。

君主独裁体制の展開

宋朝は建国にあたって,抜本的な統治制度の改変を行うことなく,前代の制度を踏襲して,その足りないところを補うという,現実的で穏和な方策をとった。そうした傾向をもっともよく表すのが官制である。宋代の官制は唐の三省六部制を継承したが,五代の軍閥政権のあいだにその実質的な機能は失われた。宋代になると,旧来の〈官〉はほとんどが職掌をもたず,ただ官員の序列と俸禄の高とを示すものにすぎなくなった。実際に職務を帯びるのは,《大唐六典》には記載されない令外の〈差遣〉であった。ほかに科挙に及第した文学の士に授ける館職,略して〈職〉があった。このように宋代とくに北宋では官と職と差遣という三本立ての複雑な官制が行われたのである。そのうえ唐末五代の混乱の一因が皇帝権の弱体化にあったことの反省から,職掌を分散し重複させて,特定の官員に権力が集まるのを防ぎ,あらゆる権限をすべて皇帝に集中せしめる君主独裁体制を築いた。

 すなわち,中央官制では,宰相の同中書門下平章事は複数とし,ほかに副宰相の参知政事を置いて,あわせて宰執と称し,政務はこれら宰執の合議ですすめられ,最終の決定は皇帝にゆだねられた。さらにもと兵部の管掌であった軍政は,皇帝直属の枢密院がつかさどり,財政は,唐末以来しだいに大きくなった三司が担当し,その長官である三司使は計相,すなわち財政上の宰相といわれた。事実,三司使は宰相に匹敵する権限を有した。ほかにも官僚人事をつかさどる審官院,司法をつかさどる審刑院など,六部を離れて皇帝に直属する独立機関がいくつも設けられた。その結果,唐代では〈事の統べざるなし〉といわれ,全権をにぎっていた宰相は権限が著しく縮小されて,皇帝の秘書官のような地位になり下がった。

 地方官制でも,特定の官僚が独断専行できないように組織され,さらに中央の監督が強化された。州の長官には刺史に代わって中央の官員が派遣され,これを権知某州軍州事,略して知州といった。また新たに通判を置いた。通判は地位こそ知州よりやや低いが,知州の副官や属官ではなく,権限は知州と対等で,共同して州の行政を担当するものであった。しかも知州の行動を監視し,随時朝廷に報告したので,通判は監州ともよばれ,知州にとってはうるさい存在であった。末端の県の官吏は,五代のとき軍閥に籠絡されて,そのなすがままになっていたので,ここでも中央の官員を知県に任命し,政府が直接に県政を掌握することにした。一方,州の上には路という監督区分を設けて,転運司(漕),提点刑獄司(憲),経略安撫司(帥)を置き,それぞれ一路の財政,司法,軍事をつかさどり,のちに提挙常平茶塩公事(倉)を置き,総称して監司といった。路の数ははじめ15であったが,のちに23に増え,北宋末期には26路になった。本来は監督区分であったが,後代には行政区分に変わり,現在の省の区分の起源となった。このように在来の官制の上に新しい官職を加えていったので,宋代の官僚機構は複雑で膨大なものになった。

 そこで神宗は,1082年(元豊5)に中央官制の大改革を断行して,《大唐六典》に記す旧制にもどし,名実を一致させた。たとえば審刑院は刑部に,三司の業務は戸部に移管するなど,機構を整理統合した。これによって形式的には整然たる組織に復帰したけれども,六部の分掌に不均衡や重複が多く,けっして機能的なものとはいえなかった。また時代の変化にともなって,すべてを旧に復することはもはや不可能であり,枢密院は唐制になかったが存続され,権限を分散する方針も維持された。なお宰相の名称も改められて尚書左僕射兼門下侍郎と尚書右僕射兼中書侍郎となり,さらに南宋には左右丞相に改められた。

 宋代における主要な官僚供給源は,科挙であった。科挙の制は隋代に始まり,唐代でも行われたが,もっとも重要な官吏登用制度となったのは,宋代以後のことである。とくに太祖が従来の解試と省試とに加えて,皇帝みずからが試験する殿試を創設したことは,重要な意味をもった。すなわち,皇帝が試験の及落に最終の決定権をもち,及第者はその恩義に感じ,天子の門生として終生忠誠をつくすことになり,君主独裁制を強化するのに貢献した。また太宗以後は及第者の数が激増し,とくに進士科が重視されて,〈進士及第者にあらずんば美官を得ず〉といわれたように,進士でなければ出世できないことになった。事実,宰相などの高官にのぼった者の大部分がその及第者であった。そして進士に何年に及第したかは,その官僚にとってきわめて重要な経歴事項とみなされ,宋代以後の官僚の伝記には,必ず何年の進士かが記載されることになった。

 君主独裁体制を支えたもう一本の柱は,強力な軍隊であった。すでに五代において,後唐の明宗,後周の世宗が親衛隊である禁軍の強化をはかった。宋の太祖はその禁軍をそっくり引き継ぐとともに,地方の強壮な兵卒を中央に集めて禁軍に編入し,地方軍たる廂軍をすっかり骨抜きにした。禁軍は殿前軍,侍衛馬軍,侍衛歩軍の3軍(三衙)から成り,それぞれが皇帝に直属して,3軍を統べる総司令官は置かれなかった。また3軍の指揮官は部下の将兵を管理し訓練する握兵権をもったが,軍隊を動かす権限はなかった。その発兵権は文臣の枢密使にゆだねられていた。禁軍は首都の警護に当たるほか,国境付近や内地の軍事的要衝に派遣されて防衛に任じた。これを駐泊とか屯駐と称し,路の都総管,州の兵馬鈐轄(けんかつ),都監の指揮を受け,知州はこれに干与できなかった。しかも地方に派遣される禁軍は2,3年ごとに定期的に交代させられた。これを更戍法(こうじゆほう)といい,地方に勢力を扶植したり,将兵間に親密な関係が結ばれるのを防止した。

 こうして,唐末五代にしばしばみられた,禁軍の策動によって皇帝が廃立されたり,地方に軍閥が割拠したりするおそれがなくなって,皇帝の地位は安泰なものとなった。ところで宋代の軍隊は召募制であったから,用がなくなってもすぐに解雇するわけにいかず,その数は年とともに増加して,国初40万にすぎなかったものが,北宋中期には140万にも達し,財政赤字の一因となった。そこで王安石は保甲法を実施して,兵員の数を大幅に削減し,代わって民兵制度を拡大し活用する改革を行った。しかし兵は社会の落伍者がなるものとの通念にはばまれて,その強兵策は十分な効果を上げることができなかった。

 税法もまた唐代の両税法を継承し,田土を基準にして夏には銭,秋にはアワ,米を納入させたが,実際には銭の代りに絹,綿,麦などを徴収した。こうした正規の両税に加えて,農民を苦しめたのは,租税を他の州県まで運ばせ,その運賃を徴収する支移,規定の銭物の代りに他の物を納めさせる折変であった。そのうえ江南地域では,五代の遺制である身丁銭米,沿納とか雑変とかよばれる付加税があった。また政府が強制的に米を買い上げる和糴(わてき),春に銭や塩を貸しつけて,絹で返済させる和買絹なども,後には代価を支給しなくなって付加税に等しくなった。北宋中期以後,財政が苦しくなると付加税はいっそう重くなり,南宋では経制銭,総制銭などの新税がつぎつぎにつくられ,朱熹(しゆき)(子)が指摘するように,〈古(いにしえ)の刻剝の法は,本朝(宋)にみな備わっていた〉のである。

 宋代に特徴的なことは,唐代まではおもに土地税によって財政がまかなわれていたのに対し,宋代になると,塩,茶,酒等の専売益金や商税など課利の収入が急激に増加して,額において租税に匹敵するほどになったことである。これはいうまでもなく,経済の発展,なかんずく商業の飛躍的な発展によるものである。その点は銅銭の鋳造額にも示される。唐代では752年(天宝11)の32万7000貫が最高であったが,宋初ですでに約80万貫(995),王安石の新法実施中の1080年(元豊3)には506万貫にのぼり,北宋160年間の鋳銭総額は実に2億貫に達したと推定されている。それでも鋳造が需要に追いつかず,しばしば銭不足(銭荒)の現象を生じた。一方,鉄銭の流通圏であった四川では,北宋中ごろから,持ち運びに不便な貨幣に代えて,会子とよばれ,全国的に流通した。

変貌する社会

中国の社会は8世紀から11世紀にかけて,王朝でいえば唐から宋の間に大きく変動したので,この時期は唐・宋変革期とよばれている。その変化の一つは,支配階級の交代である。六朝以来の支配階級であった門閥貴族は唐末五代の混乱のなかですっかり没落し,代わって士大夫階級が新たな指導層として登場した。士大夫は科挙の受験をめざして儒教の教養を身につけた知識人,読書人であり,科挙に及第して官僚となり,国政を担当して人民を統治することを目標とする者であった。彼らはおもに唐末五代に台頭してきた新興地主階級つまり義荘が,11世紀以降盛んに設置された。その先駆は,宋代第一の名臣とうたわれた范仲淹の范氏義荘である。

 農民は戸籍上,主戸と客戸とに分けられた。主戸は原則として土地財産を所有する者で,財産高によってさらに5等に分けられ,3年ごとに,主戸の資産と丁口の数目を記載し徴税や差役割当の基準とした,五等丁産簿が作成された。5等のうち1等戸から3等戸までは地主階級に属する〈上戸〉であって,国の労役奉仕に当たる義務を負った。それは差役とか職役とよばれて,官物の保管と輸送(衙前),州県官衙への出仕(承符),租税の徴収(里正,戸長,郷書手),郷村の治安維持(耆長,弓手,壮丁)などに従事した。

 これらの差役に就くことは,唐代では名誉とされ,代償として諸種の恩典も与えられたので,希望者は多かったが,宋代には中央集権化がすすんで地方の負担が多くなり,農民にはこれが大きな重荷となった。ことに衙前に当てられると,官物を損傷すれば弁償しなければならず,そのため一家破産に追い込まれることも珍しくなかった。当時,差役はもっとも農民を苦しめていたものであり,農村疲弊の原因をつくっていたので,王安石は募役法を実施して,上戸から免役銭を徴収し,その銭で希望者を募って役に当てる方法に変えた。しかし南宋になると,徴税や警備の役務は都保正,大保長らが担当するようになり,免税銭は総制銭に繰り入れられ付加税の一種になった。差役のほかに,官府の治水工事や官舎の修築,官物の輸送などに臨時に徴発される夫役,雑徭があって,戸等に関係なく割り当てられた。主戸の大部分は4等戸と5等戸とであって,所によっては全戸数の7割から9割以上を占めた。彼らはわずかな土地しかもたない自作農ないしは自小作農であり,5等戸中には,財産がないのに納税の義務を負う無産税戸も含まれていた。

 客戸は,もともと客来の戸を意味し,僑居する商工業者もその中にはいったが,大部分は佃戸,佃農などとよばれ,地主の土地を耕作する無産の小作人たちであった。佃戸は唐代の部曲とは異なって,社会的にも法的にも自由民であって,地主とは契約によって結ばれていた。北宋中期,江南では,秋の収穫が終われば,地主の許可証なしにどこへでも移住してよいとの命令が出されていた。もっとも労働力が不足する僻遠の地では,佃戸を土地にしばりつける古い法律を行用し,あるいは地主保護のために,佃戸が地主に暴行を加えると,常人より重く罰せられた。また小作料は一般に収穫量の5割にも及び,無一物の佃戸は地主から農具,耕牛,種子をはじめ食糧,冠婚葬祭の費用まで借り,経済的に地主に大きく依存する者がいた。反面,独立して生計をたて,小作地を他に転貸して利をかせいだ者もいた。しかも江南の先進地帯では,南宋になると,佃戸の地主に対する小作料の不払いや,地主に味方する官憲への抵抗など,いわゆる〈頑佃抗租〉の風潮が強まった。

 五代十国の分裂時代,江南に割拠した諸王国はそれぞれ富国強兵につとめて,国内産業の振興に努力したが,国境にはばまれて諸国間の自由な交易ができなかった。宋の統一によって国境という障害が取り払われ,五代の間に培われた諸産業は,全国的な販路を得て,飛躍的に発展することになった。農業についていえば,長江(揚子江)下流のデルタ地帯では,稲の品種改良や囲田(いでん),圩田(うでん),湖田など水利田の開発によって,生産量が著しく増大し,〈蘇常熟すれば天下足る〉とのことわざが生まれたほど,この時代から中国の穀倉地帯として重きをなした。領土が半減しながらも,南宋が150年間も存続できたのは,実にこの地域を擁していたからである。一方,生育が速く干害に強い南方の占城稲(チャンパ稲)が移入されて,江西,湖南,福建,広南等の水の乏しい地帯で普及した。

 唐代までの農業は自給自足を原則として,たまたま余剰があれば売りに出すという程度であったが,宋代になると,はじめから商品としての作物栽培がおこり,それぞれの土地に適した特産物がつくられた。また江西,福建等の山地では茶の栽培が盛んになり,茶は専売品,貿易品として重んぜられた。江西の景徳鎮,河北の磁州をはじめとして各地に陶磁器産業が勃興して,陶磁器は絹と茶につぐ重要な貿易品として遠く海外にも輸出された。金,銀,銅,鉄,鉛,スズなどの鉱山の開発もすすみ,その産額は唐代の10倍ないし数十倍に達した。製鉄の燃料に,木炭と並んで石炭が使われるようになり,生産量の増大をもたらしたことは,とくに注目される。そのほか温州の漆器,湖州の筆,徽州の墨など名高い特産品が生まれ,四川をはじめとする製紙業の発達は,印刷術の発展と相まって,文化の普及向上に貢献した。これらの手工業では,工程の分業がすすみ,農村から出てきた労働力を吸収した。

 これら諸産業の勃興をうながしたものは商業であり,とくに宋代は商業が飛躍的に発展した時代と特徴づけることができる。商人には,遠隔地商業を専門とする客商,都市に常住して店舗をかまえる坐賈(ざこ),仲買を業とする牙儈(がかい),牙人に大別することができ,大都市の商人たちは業種ごとに行(こう)という商人組合を結成した。行はもともと自律的な組織であったが,その大部分は政府所要の物資を調達するかわりに営業の独占権が認められた御用組合となり,二,三の豪商に牛耳られることが多かった。職人もまた同業組合を結び,これも行とか作といった。

 商業の発展は,都市の姿を一変させた。従来の都市は政治都市,軍事都市の性格が強く,高い城壁をめぐらし,城内も坊に区切られて,夜間の外出は禁止され,商業は〈市〉区域でのみ許されていた。宋代にはこうした坊市の制がくずれて,自由な都市生活が行えるようになり,都の開封,臨安はかつての長安,洛陽などとは異なって,活気にみちた商業都市,娯楽都市に変わった。一方,村落には各地に草市とか村市とよばれる定期市が立ち,それが成長して市,店などの市場町となり,かつて軍隊の駐屯地であった鎮は,軍事的機能を失って,交易の拠点として発達し,小都市に成長した。こうした鎮市は,農村の交易の中心となり,都市と農村とを結ぶ中継点の役割を果たした。

 貨幣経済の農村への浸透によって,農民の生活にも大きな変化をもたらすことになった。自給自足の農業がくずれ,農民は生産物を市場にもっていって日常品と交換した。また農業の分業化がすすんで,11世紀中ごろでも,すでに,農民でありながら野菜を買う者すらいた。農家の大多数は零細経営であったから,自分の土地だけでは生活できず,小作を兼ねたり,季節労働や日雇いに出かけたり,売薬や卜占などの副業を営む者もあった。それでも生活できないと,大都市に流れ込んだ。都市に出れば,賃仕事などでなんとか食いつなぐことができたのである。貧農に限らず,地主も都市に移住した。およそ,都市のほうが農村より国家負担がはるかに軽微であった。農村では差役という重い負担があったが,都市の住民は,政府所要の物資を調達する科配と,町長ともいうべき坊正の役務につけばよかった。しかも地主が都市に移住すると,都市住民と同じ扱いをうけることができた。政府は何度も命令を出して都市への移住を禁止したが,効果は上がらなかった。こうして人口は都市に集中し,開封は100万,臨安は150万に達したと推定されている。

近世文化の開花

宋代は文化の面においても一大転換期であった。その特色は,新興の士大夫階級が前代の貴族文化を否定して,きわめて個性的で自由清新の気風にあふれた新文化を創造したこと,大都市を中心にして,文芸や演劇などに新しい庶民文化が生まれたことである。木版印刷術の発達によって,知識の伝播普及が容易になり,知識人の層が飛躍的に厚くなったことも,宋代文化の顕著な特色の一つである。

 士大夫による新文化運動は,彼らの政治的社会的地歩がかたまった11世紀中ごろ,范仲淹,欧陽修らを中心として一気に盛り上がった。彼らが朝堂にあったときの年号をとって,これを〈慶暦の正学〉とよぶ。強烈な個性の持主であった彼らは,既存のあらゆる権威を否定し,経書そのものに没入してその真の精神を体得し,それを現在に生かそうとする理想に燃えていた。范仲淹,欧陽修らはそれを学問的に体系づけるまでにはいたらなかったが,これをうけた周敦頤(しゆうとんい)は,宇宙の生成過程を図式化して説明を加えた《太極図説》を著して,新儒学の青写真を示した。その学説は張載,程顥(ていこう),程頤(ていい)に受け継がれ,南宋の朱熹(子)にいたって大成された。宇宙生成の原理や人間の本性を究明する学問なので性理学,理学などといい,あるいは朱子学,程朱学,道学,宋学などとさまざまによばれる。朱子の生前,道学は偽学として迫害をうけたが,彼の死後,多くの学者に継承されて儒学の正統の地位を占めるようになり,明代には官学として大いに興隆し,朝鮮や日本の学術思想にも影響を及ぼした。朱子と同時代の陸九淵は,朱子学の知識偏重に反対して徳性の修養を強調し,浙学といわれる陳亮,葉適らは経世功利の説を唱えて,道学の空理空論に走るのを批判した。

 思弁的な道学の流れのほかに,《春秋》を学んで歴史のうえから道義を明らかにしようとする歴史主義の流れがあった。先駆者の欧陽修は《新唐書》《新五代史》を著し,後者において,《春秋》の精神にもとづいて五代の政治,世相を痛烈に批判した。つづく司馬光は,《春秋》の後を継いで戦国から五代までの編年体の通史《資治通鑑(しじつがん)》を著した。これは,治乱興亡の跡をたどって客観的に大義名分論を展開し,帝王の治政に資することを目的として書かれたものであるが,できた当初から高い評価をうけ,史書の模範とされて,後代これにならう史書が多くつくられた。朱熹の《資治通鑑綱目》は史実よりは義理を重んじ,宋学の道徳史観を結集したものである。宋代の史学にみられる一つの特色は,当代史への関心が強く,北宋通史である李燾(りとう)《続資治通鑑長編》はじめ,多くの宋人による宋代史書がつくられたことである。この傾向は,彼らの現実肯定の思想と無関係ではなかろう。

 このほか宋代には,欧陽修《集古録》にはじまる金石学,特異な歴史理論と目録学を展開した鄭樵(ていしよう)の《通志》の学,考証学の源をつくった王応麟の学問など,多種多様の学術が開花し,清代学術の淵源をなした。さらに宋代の士大夫は実用的な学問,水利,算数,兵法,医薬,農学などの広範な科学技術に深い関心を示した。官僚でもあった彼らには,むしろこうした実学の知識は,行政を行ううえに欠くことのできないものであった。そこで実用的な学問に理解を示すとともに,在野の水利学者を登用したり,その業績を顕彰したりした。

 宋代には文体も一変した。貴族文化の象徴ともいうべき儷体(べんれいたい)の文章をやめて,それ以前の古文にかえれとする運動は,唐の韓愈,柳宗元らに始まったが,なかなか普及しなかった。ところが欧陽修が古文復興を唱道すると,大きな反響をよび,形式にこだわらず達意の文章を書くことが一躍盛んになり,彼の門下からは王安石,曾鞏(そうきよう),蘇軾(そしよく)兄弟らの名文家が輩出し,以後清代まで,古文は文体の主流を占めることになった。詩も唐代にひきつづいて盛んで,王安石,蘇軾,黄庭堅,陸游(りくゆう)らの大詩人が生まれたが,南宋後期になると,浙江温州の〈永嘉四霊〉,臨安の書店主陳起を中心とする江湖派など,市井の小詩人たちの活躍がみられた。これは,士大夫文化の庶民への拡大を示すものとして,注目される。また唐代に民謡からおこった雑劇などが盛んに演じられ,とくに雑劇は金代では院本とよばれ,元代の雑劇に発展した。

 宋代文化の特色は,書画にも顕著にみられる。書はもともと士大夫が習得すべき六芸の一つであったが,唐代までは,立派な書をつくるのは専門家にゆだねられ,一般知識人が趣味としてこれを楽しむ風はなかった。しかも均整のとれた冷厳な書が尊ばれた。ところが宋代には,書は士大夫だれもが参加して楽しめる芸術となり,士大夫はそれぞれ個性にあふれた,人間的で親しみある書をつくり,また鑑賞した。絵画でも,宮廷の画院につとめた専門画家による宋代美術

竺沙 雅章

日本との関係

日本の朝廷では,9世紀末に遣唐使が中止され,10世紀はじめに渤海との交渉が終わると,諸外国と公使の往来を伴うような外交関係はなくなり,一方では日本人の海外渡航を禁止するなど,しだいに対外関係に消極的になっていった。また来日商人に対しても10世紀はじめに毎三年一航という制限規定を作り,宋商人に対しても適用して,規定を守らない商人には貿易を許さずに帰国を命ずる場合もあった。しかし貴族たちの唐物欲求は根強く,ほとんどの場合貿易を事実上認めた。また外国への渡航を禁止されていた時期にあっても,おもに天台山・五台山巡礼を目的とする入宋僧が宋船を利用して往来した。宋では,唐末五代の混乱によって多くの経典,一般書籍が散逸し,入宋日本僧がもたらす,かつて中国から日本に舶載された典籍が珍重された。入宋僧の中でも成尋(じようじん)らは著名で,日中両国の宗教界に大きな影響を残している。1073年(延久5)には国内産業の発達を背景として対外活動を熱心に進めた神宗皇帝から,自筆の文書と多くの品物が日本に贈られてきた。それまでにも宋商人の中には,来航に際して明州刺史の大宰府あるいは朝廷あての牒状をもたらす場合があったが,日本の朝廷は消極的な対応に終始し,公式の外交関係を結ぶにはいたらなかった。今度は皇帝自身からの文書および贈物であったが,なお文書の語句を問題にしたり,返礼品を何にするかなどについて延々と審議を重ねた末,ようやく78年(承暦2)に使者を遣わして返書および水銀等の品物を贈った。しかし,このときの返書も大宰府からの回答という形をとっていたようであり,対宋外交関係に積極的に取り組む姿勢はみられない。

 その後,1126年宋は金によっていったん滅ぼされ,翌年に再興したが,金との攻防が続いたため国内の社会・経済が混乱し,その影響が対外貿易にも及んで日本に来航する商船も減少した。一方,このころ日本では武士階級が成長し,源・平2氏と貴族たちとが複雑に絡んで権力争いが起こり,保元・平治の乱(1156,59)を経て,平氏ついで源氏による武家政権が樹立された。平氏は旧来の方針にとらわれずに開国的政策をとり,対外貿易を積極的に進めたため,日本商人が宋へと進出するようになった。すなわち,12世紀後半に平清盛が政権を握ると,彼は大輪田泊(兵庫港)の修築,音戸瀬戸の開削等を行い,大船の瀬戸内海の航行・停泊の便宜をはかっている。一方では日宋関係の促進も従来の慣習にとらわれずに推し進めた。たとえば,宋人の滞在する別荘に後白河法皇の御幸を求めたり(1170),1172年(承安2)に明州刺史から法皇および清盛に贈物があったときも,貴族には受け取るべきではないという意見が強かったが,清盛はこれを受納したうえ,返書および律令で国外への搬出を禁じられている武器を贈っている。このような清盛を中心とした平氏政権の開国的性格は鎌倉幕府にも引き継がれ,3代将軍源実朝はみずから渡宋を企てたほどである。また宋商人の中には,博多など貿易上の要地に居留し,地方豪族と姻戚関係を結ぶものも現れてきた。

 こうして,日本がそれまでの対外的消極策から積極策へと変化していったころ,宋でも金との紛争が終わり,国内の秩序が回復して国家経済の発展をはかるようになった。このため日宋間に活発な貿易が展開され,1279年に宋が蒙古(元)によって滅ぼされるまで,両国商人によって多くの宋の文物がもたらされ,日本の社会,経済,文化の諸方面に大きな影響を与えた。たとえば宗教では,12世紀後半に栄西,道元らによって日宋貿易

石井 正敏