平凡社 世界大百科事典

詭弁

一見正しそうに見えるが実は成り立たない議論。ことさらに自己主張したり,相手を論破し困惑させたり,奇矯の説によってひとをおもしろがらせたりするのに用いられる。議論を売物としたギリシアのソフィストたちを論駁するために,すでにアリストテレスが統一的に研究している(《トピカ》《詭弁論》)。

 詭弁は一般に受け入れられている,あるいは少なくとも相手に受け入れられる前提から出発し,論理的手続,あるいは少なくとも論理的にみえる手続によって結論に至らなければならない。したがって誤りがあるとすればその手続に誤りがあるはずである。その誤りは純粋に論理的なものないし統語論的なものか,意味論的ないし実用論的なもの,あるいは両者を合わせたものである。前者はいわば論理法則の誤った適用による。たとえば〈成功する政治家はみな太っ腹だ〉として,このことから〈あいつは太っ腹だから政治家として成功する〉と主張する議論は詭弁的だが,それは,〈すべてのABである〉がいえても,かならずしも〈どのBAである〉とはいえないからである。また,知り合った女性がみな感情的だとしても,このことから〈女性はみな感情的だ〉とするのは誤った,詭弁的議論であるが,それは〈部分について成立することも全体については成立するとはかぎらない〉という論理学的原則を無視したために起こった。少し複雑な詭弁にジレンマ(両刀論法)の誤った適用がある。〈本当のことをいえば世間から憎まれ,噓をつけば神様から憎まれる。本当のことをいうか噓をつくかのどちらかだ。だからお前はどうしても憎まれるのだ〉という議論は正しいようにみえる。しかしこれは詭弁である。それは,〈本当のことをいうか噓をつくかのどちらかだ〉が成立しないからである。ここにはだまっているという逃げ道がある。このかたちのジレンマは,〈pならばrqならばrpまたはq。ゆえにr〉の形式を満足しなければならない。

 意味論的詭弁は〈犬は四足だ。あいつは(警察の)犬だ。ゆえにあいつは四足だ〉という議論にみられる。この推論は形式的・統語論的には正しいが,前の〈犬〉とあとの〈犬〉とでは,意味が違い,あとの〈犬〉はいわば比喩的犬を意味する。これを中項多義の誤謬という。そのため一見してまちがった結論が生じたのである。〈あなたは山田さんです。あなたは高田さんです。だから山田さんと高田さんは同じ人です〉も,結論が明らかに認められない詭弁的議論で,これは前の〈あなた〉とあとの〈あなた〉が別の人を指すことを無視したために起こった。しかし別の人を指しても〈あなた〉の意味に違いがあるともみえないから,これは前の例とは性質を異にしている。それは人称代名詞や指示代名詞が文脈によって別の対象を指しうる文脈依存的な語であることを無視したために生じた詭弁である。多くの語の多義性にもとづく誤謬はこれほど明示的なものではない。〈日本人とは日本国籍を持つものである。アメリカ市民権を持つものは日本国籍を持たない。だがかなり多くの日本人がアメリカ国籍を持っている。ゆえにかなり多くの日本人は日本人ではない〉。この結論は同一律に反するようにみえ,とうてい承認できない。それはこの文脈に現れる〈日本人〉の多義性を無視した議論である。最初の〈日本人〉は法的見地からみた日本人であり,あとの〈日本人〉は民族ないし人種としての日本人とみられる。両者の意味は違い,外延にはずれがある。だがこのことを明記すればこの議論は成立し,結果も矛盾律に反しないものとなる。たとえば最初の〈日本人〉を〈日本人1〉,あとの日本人を〈日本人2〉と別の語と考えればよい。こうすると詭弁は消える。結論が論理法則に反する詭弁に次のような別種のものもある。〈ネズミはみな小さい(たとえば人間に比べて)。ネズミはみな大きい(たとえばアリに比べて)。ゆえにある大きいものは小さいものである。しかし大きいものはすべて小さくはない。したがってある小さいものは小さくない〉。これは〈大きい〉〈小さい〉がふつうの性質語,たとえば〈赤い〉〈甘い〉と違って適当な規準に照らしていえる規定であるのに,同一の推論のなかでその規準を動かしたために起こった詭弁である。さらに,表現する言語の種類に特有な詭弁もある。ヨーロッパ語には〈ある〉に相当する語がコプラ(繫辞)と存在を表す述語の両方に使われる国語が多い(たとえば“be”,“être”)。これに反し,日本語では〈である〉と〈が(は)ある〉というように助詞で両者を使い分ける。この使い分けのないヨーロッパ語では,〈幽霊はいる(ある)。なぜなら幽霊はそれであるところのもの(たとえば白くあるところのもの,暗いところに現れるところのもの)である。したがってそれはある〉という詭弁が成立する。この議論は,元来〈それはそれであるところのものである〉から〈それはある〉に進めないのだ,とみれば意味論的誤謬というよりは統語論的誤謬である。

 以上の例からみると,詭弁は簡単にそれとわかるようにみえるが,われわれがふつう疑わない日常的推論の多くが実は論理的飛躍になっているから,詭弁とそうでないものとの見分けは困難である。たとえば,〈彼は非常な秀才だからきっとその試験に合格するだろう〉といえば,秀才でも試験に落ちることはいくらでもあるのだから,これは冒頭の定義の詭弁ともみられる。われわれが詭弁と感じないのはこの論法が常識に合っているからである。詭弁にはどこか無理なところが感じられなければならない。その第1は結論の明確な偽,または偽らしくみえることである。そこで初めから詭弁の定義に,結論の偽,または偽として現れることを入れる論者もいる。→パラドックス

中村 秀吉