平凡社 世界大百科事典

社会主義リアリズム

芸術創作方法の一つ。1930年代初めにソ連邦で提唱され,34年の批判的リアリズム”が,現実の欠陥,矛盾をあばきながら,その批判を未来への明るい展望と結びつけられなかったのとは異なり,革命的に発展する現実そのものの中に未来社会への歴史的必然性を見いだす新しい質のリアリズムである〉,その意味でこれは〈革命的ロマンティシズムをも内包する〉と強調された。実作面でこの方法に道を開いた作品としては,ゴーリキーの諸作品,とくに《母》(1906),ファジェーエフの《壊滅》(1927),N.A.オストロフスキーの《鋼鉄はいかに鍛えられたか》(1932-34)などが挙げられた。

 方法提唱の段階では,それが1920年代の雪どけ〉後,この概念を無原則的に拡張し,強権的性格を緩和しようとする動きも見られたが,成果はあがらず,一種のスローガン的意味をしかもちえていない。

 社会主義リアリズムの理論は日本にも1933年ころから紹介され,崩壊期にあったプロレタリア文学運動に大きな影響を与えた。森山啓,久保栄らによる〈社会主義リアリズム論争〉も行われたが,この方法は,蔵原惟人の〈プロレタリア・リアリズム〉の主張の影響下にあった日本の運動にとっては,脱イデオロギー的な主張と受けとられた節が濃く,社会主義が現実となっていない日本でのその適用の可否について疑問も表明された。国際的には,バルビュス,アラゴン,A.スティール,ゼーガース,ビュヒャーらが,この理論に共感を表明しているが,それよりはむしろ30年代中期の人民戦線運動の中で,これがソ連作家と西側の進歩的作家とを創作的にも結びつける懸橋となったことが評価される。スターリン批判後,ソ連国外でのこの理論への関心はほとんど消滅した。

江川 卓

演劇・映画,美術

社会主義リアリズムの理論は,明らかにソビエト文学の状況から生まれたものであるが,他のあらゆる芸術分野にも適用され,1920年代に盛んであったアバンギャルド的実験とプロレタリア芸術運動を閉塞させた。その点では,36年に始まる〈形式主義〉〈コスモポリタニズム〉批判と粛清裁判が,この理論を補完する役割を果たした。

 演劇では,俳優の肉体訓練法〈ビオ・メハニカ〉の提唱者イワン雷帝》第1部(1945)では,歴史的主題の精神分析的スペクタクルへと後退した。美術では,構成主義とマレービチ,ラリオーノフ,コンチャロフスキーPyotr Petrovich Konchalovskii(1876-1956)らは,〈ブルジョア的退廃〉として否定され,A.M.ゲラシモフ,Yu.I.ピメノフ,B.V.イオガンソンらによる党指導者・芸術家の肖像,革命・内戦期のエピソードを劇的に誇張した絵画,V.I.ムーヒナ,N.V.トムスキー,M.G.マニゼルらの記念碑的彫刻がもてはやされた。近代的表現をめざすA.A.デイネカ,B.M.クストジエフ,民衆絵画の伝統をうけつぐアルメニアのM.S.サリヤンらも,大きな屈折を余儀なくされた。建築でも,英雄的生活感情と生産技術を結合した,いかめしく装飾過剰な建物が賛美された。これらの傾向は大祖国戦争下の愛国心の高揚とともに頂点に達したが,戦後も46-48年にジダーノフの〈形式主義〉〈コスモポリタニズム〉批判が復活し,フランスのA.フージュロン,イタリアのR.グットゥーゾのように西ヨーロッパにも社会主義リアリズムの同調者を生み出した。

針生 一郎

音楽

1930年代に入ってから,音楽の分野でも社会主義リアリズムの創作方法が広く論じられた。すでに1920年代にASM(Assotsiatsiya sovremennykh muzykantov。現代音楽協会)とRAPM(Rossiiskaya assotsiatsiya proletarskikh muzykantov。ロシア・プロレタリア音楽家協会)の対立のなかで,社会主義社会における音楽のありかたについて模索されていた。ASMが,古典音楽から前衛音楽までを含む芸術音楽の広い枠のなかで新しい音楽を多様に求めようとしたのに対して,RAPMは伝統的な芸術音楽をブルジョア的であると否定して,民謡や労働・革命歌謡など,大衆の中から直接おこってきたものを発展させようとした。30年代に入って前者は形式主義,後者は俗流社会主義としてともに批判され,両者を止揚したところに社会主義リアリズムの方法の確立が求められた。32年共産党の指導によって作曲家同盟が発足し,排他的に優勢になっていたRAPMは解散させられて,すべての音楽家の力が作曲家同盟に結集された。その後,芸術音楽畑の人々の社会的課題にこたえる作品が数多く生まれた。西ヨーロッパから帰ってきたプロコフィエフ,ソビエトの生んだショスタコービチ,カバレフスキー,ハチャトゥリヤンらの1930年代の活躍は目覚ましいものがある。

 36年のショスタコービチのオペラ《ムツェンスク郡のマクベス夫人》に対する《プラウダ》の批判は,社会主義リアリズムとは何かを初めて具体的な音楽作品にもとづいて公式に論じた文書である。当時のソ連社会に吹き荒れていた粛清の嵐を背景に,この批判は作曲家たちを萎縮させ,彼らの大胆な試みを封じる結果になり,大衆にもわかりやすい保守的で類型的な技法を用いた個性のとぼしい作品を数多く生むことになった。のちにジダーノフ批判があるが,これは国際的に知られた作曲家をほとんどすべて槍玉にあげたもので,36年の批判以上の意味はなく,フルシチョフのスターリン批判以後,実質的に意味をもたなくなった。むしろスターリンの死の直後に発表されたショスタコービチの《第10交響曲》(1953)をめぐる論争が,その後のソ連の作曲界の展開に大きな影響を与えた。54-55年にわたったこの論争は作曲家のもっと自由な実験を求める方向に進んだ。〈現実を革命的展開の中でとらえ,大衆を社会主義的に教育する〉という社会主義リアリズムの基本はふまえながら,その後のソ連・ロシアの音楽は着実に多様性を増している。

森田 稔