平凡社 世界大百科事典

主権

近代国家の基本的構成要素として,それに帰属させられてきた最高権力の概念。フランスの法学者J.ボーダンがその《国家論》(1576)において最初に用いたとされる。〈主権とは国家の絶対的かつ永続的権力である〉という彼の定義が示すように,主権は中世ヨーロッパの秩序を打ち破って領域国家を形成した絶対王政の自己主張として,多分に論争的な概念であった。すなわち,対外的には神聖ローマ帝国皇帝やとくにローマ教皇の普遍的権威に対抗する自立性の主張であるとともに,対内的には領域内の身分的,地域的,言語的,宗教的差異にかかわらぬ超越性の主張であった。後者を端的に示すのが,ボーダンが主権の属性としてまず〈他人の同意を得ることなく,すべての人々または個人に法を与える〉立法権をあげていることであり,それは治者と被治者とをともに拘束する法,その法にもとづく共同体としての国家に代わって,法を主権者の命令とし,国家を君主の一方的な支配対象とするものであった。一方,前者を指示するのは彼が第2にあげた戦争と平和との権限であって,中世的な普遍的権威による正しい戦争の観念を打ち破って,戦争と平和とを君主の利害判断のみにかかわらせることによって,主権をいわば戦争する権利としたのである。その発動は国力によって実質的には拘束を受けるにしても,法的にはひとしく君主の自由である点で,近代国際法における主権平等の原則が生まれたのである。他国の領域内では公権力の行使をさしひかえる主権不可侵の原則はここに由来し,その相互承認のうえに,近代における主権国家とその間の国際関係とが成立したのである。そして,この両面にわたる手段は軍事警察の暴力の集中独占であった。

 このように元来絶対君主の領域内における排他的な支配を正当化した主権の観念は,国家を実力による支配対象から,被治者の合意による共同社会へと組み替えようとする思想と運動とによって逆転されて,ついにルソーにおける人民主権の主張と,フランス革命によるその確認にいたる。人民主権の観念は近代国家の民主化に道を開くものであったが,君主という自然人から人民という集合的人格にその主体がおきかえられながら,しかも主権概念自体は維持されたことは重要である。第1に,人民主権は経験的には何らかの意味での機構化なしには作動しえないが,それは通常代議制による立法権の優位に落ち着いた。第2に,近代革命の今一つの目標であった人権の保障とは,主権の限界,あるいは主権への参加によって両立するものとされた。第3に,いかなる民主化も主権国家を自明の枠組みとして前提するものとなった。

 もちろん,このような組替えは,各国の歴史的事情によって態様を異にし,伝統的な議会制度が役割を果たしたイギリスにおいては,議会主権の形をとり,議会そのものの民主化の要求とともに国民の政治的主権と議会の法律的主権という説明がされるようになった。一方,君主の権力の強大なドイツ諸邦では,立憲制の進展とともに,人権の保障を主権の自己制限として説明し,あるいは主権を共同社会ないし擬制人としての国家そのものに帰属させて,君主をその機関とする学説(国家法人説)も現れた。自由民権運動に対抗して欽定憲法をつくった明治国家においては,天皇主権は国体という宗教的観念に支持されてまことに強固であった。第1次世界大戦後の世界的な民主化の気運のなかで政党政治をめざす運動が民本主義を名乗り,国家法人説が憲法解釈に導入されたが,それが国体明徴の名の下に天皇機関説として葬られ,国民主権の原理が確認されたのは,敗戦後日本国憲法の制定過程においてにすぎない。

 一方,ヨーロッパ諸国における民主化の進展,ことに労働運動の発展に伴う国家の枠内における多様な集団の存在の確認は,伝統的な主権概念に対する理論的批判,団体の固有性,したがって主権性を主張する学説(多元的国家論)を生み出した。この批判は必ずしも国家主権の暴力的契機に及ぶものではなかったが,戦争をする権利としての主権を制限する努力も,第1次大戦の惨禍への反省に支えられて不戦条約(1928)を生んだ。第2次大戦の惨禍と何にもまして核兵器の出現・発達とは,戦争をする権利としての主権概念の危険性を明らかにするとともに,国際的相互依存関係の進展は主権国家の枠組みを確実に過去のものにしつつある。

 けれども,自国の安全を軍事力に求める習性はなお強く先進諸国を支配しているばかりでなく,人類の多数が第2次大戦後ようやく植民地状態から解放された歴史的事情から,それ自体独立を意味する主権観念への執着は,新興諸国においてことに強いのが現実である。そうであればこそ,そもそも主権国家の枠組みを含めて主権概念の根本的な見直しを,人類は迫られているのである。→国家

福田 歓一