平凡社 世界大百科事典

宇宙医学

人間が宇宙空間で生命を維持し,人体を防御する際に遭遇する諸問題を,医学的,心理学的,生理学的あるいは生化学的に研究する学問。人間が宇宙に飛び出した時には,人体にどのような変化が起こるか,それにはどう対処したらよいか,宇宙でかかる病気にはどのような特徴があるか,予防方法はないか,宇宙という特殊な環境をどうしたら病気の治療に利用できるか,宇宙で人間が生活していくためにどういう空間を設計したらよいか,食物や水の供給の問題,排出物の処理をどうするか,空気をどのようにして清浄な状態に保つか,ちりやごみの処理をどうするか,といった種々の問題が生じる。

 地上ではわれわれは1g(gは重力の加速度)という重力のもとで,空気の厚い層に囲まれて生活しているが,宇宙空間に出ると,いわゆる無重力といわれる無重量状態となり,空気層で吸収されていた紫外線や種々の放射線がそのままぶつかってくる。周囲はほぼ完全な真空で,温度は0Kに近く,太陽の放射を受ける表面では100℃以上となる。こういった過酷な環境で人間が生活していく場をつくり上げるためには,非常に高度な技術や知識やくふうが必要である。そこでは,医学や工学のみならず,広範な分野の専門家が国際的規模で協力し,問題を克服していかねばならない。

 人間の体のほうも,地上では決して起こらないような変化が出てくるので,その原因を探り,予防法や治療法を見いだすことが,まず宇宙での生活を確立するうえでの急務となる。

 宇宙での生活が可能になれば,次には宇宙環境の医学利用が考えられる。つまり,莫大な宇宙エネルギーの治療への応用(太陽熱を利用した大電力を医療機器へ供給するなど)と,無重量状態を利用した治療法の開発などである。具体的には,骨折の治療,褥創(じよくそう)(床ずれ)の治療,やけどの治療,心臓病の治療,呼吸器疾患の治療などが挙げられる。さらに実験動物や植物,菌類などを用いた実験,無重量状態を利用した精度の高い分析や特殊な薬剤の合成などもたいせつな開発目標である。

宇宙開発と宇宙医学

人類が初めて宇宙に飛び出してから,40年が経過し,宇宙における米ソ対立から米ロ協調に時代が変化し,1997年から建設が始まる国際宇宙ステーションでは,アメリカ,ロシア,ヨーロッパ,カナダ,日本が協力しあって21世紀の宇宙技術開発を分担する。有人宇宙滞在も延べで300人以上,最長がロシアのポリアコフ宇宙飛行士の437日18時間,日本人宇宙飛行士もすでに5人が宇宙を体験したという,素晴らしいテンポで時代が進んでいる。日本も新しく改訂された宇宙政策大綱において,独自の月面利用が盛り込まれ,インフラストラクチャーの整備が進められている。

 宇宙医学の分野でも,米ロ協調が進んだ結果,ロシアのデータベースが整備されて,日本でも利用可能になってきた。アメリカとロシアはともに宇宙飛行士の選抜,健康管理に大きな実績を有し,宇宙実験の結果も含めて世界の宇宙医学をリードしているが,地上における宇宙医学研究に関しては,日本も含め,広く世界中で行われている。宇宙で長期に微小重量に暴露される状態を地上で模擬するには,6度ヘッドダウン臥床(頭を6度くらい下げた状態で長期間ベッドに寝かせる),水浸実験(風呂のように,足や腹の方に水圧をかけて頭部に血液を押し上げる),または長期臥床などがあり,ごく短時間の微小重力で機器の性能や扱い方を試すには弾道飛行(パラボリックフライト)がある。

 現在日本で行われている宇宙医学関連の研究は,心・循環と脳循環,全身の神経系の協調,骨代謝とカルシウム喪失,筋萎縮,放射線防御,代謝と栄養,異文化と閉鎖環境,人間工学,遠隔医学(テレメディスン)など,以前に比べて格段に多様化しているのが特徴である。

宇宙での身体の変化

これまでに実施されたアメリカのマーキュリー計画,ジェミニ計画,アポロ計画,スカイラブ計画,スペースシャトル計画などの,短期ないし長期の宇宙飛行における飛行士の身体のおもな変化として,循環血液量の減少,血液濃度の変化,心循環系の失調,不整脈の出現,体重減少,起立耐性の減少,立ちくらみ,〈宇宙酔い〉の出現,食欲減退,運動容量の減少,筋肉の容量の減少,赤血球の大きさの減少,骨の密度の減少,骨のカルシウムの減少などが報告された。最初に心配されていた放射線などの影響は,宇宙船内に生活しているかぎり,今のところ大量の被曝者は出ていない。これらの変化は,宇宙動揺病(宇宙酔い)の発生,心循環系の失調と体液および電解質の損失,赤血球の損失,骨無機質および筋肉の減少などに大別することができる。

 宇宙酔いについては,以前は地上の動揺病(乗物酔い)と同等に考えられていた。しかしながら,スカイラブの乗員で,地上の動揺病に最も高い抵抗性を示したものが最も重篤な宇宙酔いにかかったという事実や,選抜されたはずのスペースシャトルの乗員のおよそ50%(ロシアの宇宙飛行士でも50%)が宇宙酔いにかかったという事実などから,宇宙酔いは地上の動揺病とは異なった原因によって生ずる一過性の平衡失調で,地上の動揺病で主役を演ずる三半規管ではなく,前庭系の耳石が関与しているという仮説が出されている。最近では宇宙酔いは宇宙に出た初期の一時的な変化と見なされ,長期滞在ではより全身的な神経系の機能変化に目が向けられている。向井宇宙飛行士が帰還後しばらくの間,角を直角に曲がれなかったというような事実がこうした全身の神経統合を示唆している。

 心循環系の失調については,無重量の影響でそれまで下半身に貯留していた血液が上半身に増加して血液分布が変わり,それに対する人体の適応の結果として,循環血液量の減少や血液濃度の変化が生じ,同時に血中の電解質の損失も生ずると考えられる。心臓の失調も一時的に起こり,まれには不整脈が観察されることもある。しかし,こうした心循環系の変化は4~6週間で落ち着き,宇宙での乗員の活動には大きな支障をきたさない。むしろ問題は,無重量状態に適応した乗員が地上に再帰還したのち,数時間以上にわたって,重力のため脳に十分な酸素濃度を維持しがたい心循環系の失調が生ずることである。これを防ぐため,飛行中に下半身陰圧負荷装置(LBNP)を用いて,帰還後の状態をシミュレートする訓練方法が採用されている。

 宇宙飛行中,持続的に骨の中のカルシウムやリンなどの無機質が減少し,骨密度が減少することが放射性同位元素を用いて確認されている。しかしながら少なくとも1年くらいまでは,骨の分解などという事態に至らないことも確かめられている。また,宇宙飛行中にかなりの程度の筋肉の萎縮が観察されており,それを予防するために飛行中,規則的に激しい運動をすることが要求されている。

 これらは今までのアメリカ,ロシア,その他各国の宇宙医学の成果であり,今後は国際宇宙ステーションにおいて,7人の宇宙飛行士が1人3~6ヵ月滞在するまでに,それぞれ有効な対策を具体的に確立し,実施するという,緊急の課題がある。例を挙げれば,効果的な運動処方,薬剤,栄養,ホルモン,水分摂取などの問題を,早急に解決して実施することが迫られているのである。

谷島 一嘉