平凡社 世界大百科事典

立体化学

分子内の原子または多原子イオンの相対的位置関係を三次元的に考え,おもに立体配置の問題であったが,単結合のまわりの回転による立体異性の可能性はすでにファント・ホフの時代にも認識されていた。シクロヘキサン環の構造に関する論争を通じて,単結合のまわりの回転による立体異性として,シクロヘキサンにおけるいす形,舟形が認識され,ハースは立体配座なる用語を確立した。なお,エタン誘導体における回転異性は,1934年水島三一郎らによって実験的に証明された。

 化学反応における立体化学の重要性はすでに19世紀末,P.ワルデンのワルデン反転の発見によって認められていたが,その意義は1920年代になって主としてインゴルドChristopher Kelk Ingold(1893-1970)に代表されるイギリス学派によって明らかにされた。立体化学の進歩は20世紀後半の機器分析の発展によってとくに加速された。1951年バイフートJ.M.BijvoetがX線異状散乱を用いて酒石酸塩の絶対立体配置を決定し,また赤外(IR),核磁気共鳴(NMR)スペクトルなども立体化学の決定に利用されるようになった。

 これに対応して,合成においても可能な立体異性体のうち必要なものを合成することが大きな課題となってきた。立体特異的ないし立体選択的に反応を進行させることは,とくに20世紀後半の有機合成化学の中心的課題となった。とくに生体関連物質の構造や生合成機構,あるいは一般に生体内反応機構が理解されてくるにつれて,in vivoの現象をin vitroに実現するためのくふうとして重要性が認識されたためである。今日では光学収率が100%に近いような不斉合成,すなわちエナンチオマーの一方を合成する反応も数多く開発されている。

 一方,三次元的広がりをもっていない分子はなく,したがって立体化学的側面をもたない化学はないから,立体化学という分野をたてることには意味がない,という主張もある。しかし歴史的にみても教育的見地からみても,立体化学的側面を強調した化学の存在価値は高く,今後とも化学の一分野としてみなされつづけるものと予想される。

竹内 敬人