平凡社 世界大百科事典

授乳

母が子に乳を与えること。母が子に乳を与える行為は,哺乳類が子を育てるときに欠くことのできない行為であるが,母が分泌した乳を子が飲むという物理的な行為であるのみならず,肌と肌のふれあいを通じて,母と子のきずなを結ぶという精神的な行為でもある。

 授乳が可能になるためには,母の手によって乳房が子に与えられなければならない。これはヒト独自の条件であって,他の哺乳類の子が,自力で乳房をさがし求めるのと対照的である。子には,乳房をさぐり,くわえ,吸啜し,乳を嚥下する反射がそなわっていなければならない。吸啜,嚥下反射は,在胎35週以前には不完全であるため,早産児は自力で乳を飲むことが難しく,チューブによる経鼻腔栄養が必要になることがある。成人に比べ乳児のほおの脂肪層は厚く,舌の位置が高いので,口腔内に陰圧をつくりやすく,乳首をしごきやすいようになっていて,口腔の構造そのものが授乳に適している。

 母の側についていえば,子が乳首を吸う刺激が神経を介して脳下垂体に至り,脳下垂体前葉からプロラクチンが分泌され,それが乳腺細胞の乳汁分泌を促す。と同時に,脳下垂体後葉からは,乳首を吸われる刺激に加えて,精神的刺激によって(子どもの泣声を聞いたり,子どものことを思い浮かべるだけで),オキシトシンが分泌され,それが血行を介して乳腺細胞群のまわりにある筋上皮細胞に作用して収縮させる。これによって,乳が乳首から射出され(射乳反射let-down reflex),また子宮の収縮,つまり産後の子宮の復古を促す。授乳の際の触覚,圧覚,肌の温かさ,におい,視線のふれあいが,母から子へ,子から母への愛着の形成に役立つ。栄養を与えるという目的のためのみの授乳は生後8~12ヵ月で役割を終えるが,授乳による愛情の形成,交流,母子の精神の安定は,授乳を続けるかぎり,母と子に与えられるものである。

 授乳開始の時期は,民族により,習慣によって異なるが,最近では,母子の愛着形成,泌乳の促進などの観点から,極力早期に(分娩台上で)始めるのがよいとされている。授乳間隔,授乳回数はとくに定める(規則授乳)必要はなく,子の欲するままに与えて(自律授乳)適当な間隔があき,体重が順調に増加するのが望ましい。

 授乳期間もまたさまざまであるが,栄養のみを考えれば,母乳にかわる人工栄養の進歩,安全な離乳用食品の普及によって,どの時期に母乳を中止しても成長に支障はない。しかし,アレルギー性疾患の予防や心理的な観点からは,授乳期間は1年以上でも差支えないし,むしろ,そのほうがよいと主張する人もある。歴史的,文化人類学的には,授乳期間は数ヵ月から数年間と長短さまざまである。

 人工乳を哺乳瓶を用いて子に与える場合は,母乳の授乳と以下の諸点で異なる。母乳は,子が乳首をくわえ,歯茎で口腔内に固定し,舌で乳暈部を上顎に押しつけてしごくことによって,射乳反射によってあふれ出てくる乳をしぼり出す。口腔内の陰圧で乳を吸い出す動作は従である。人工乳では,乳首を吸い,口腔内の陰圧によって哺乳瓶の中の乳を吸い出す動作が主である。

 母乳と人工乳の成分が異なるのは当然であるが,そのうえ,母乳は授乳開始後しだいにpHや脂肪濃度が変化するが,人工乳は,同じ濃度,同じ味で変化しない。母乳の授乳に際しては,五感による母と子の交流があるが,哺乳瓶による授乳は五感の関与が乏しい。哺乳瓶による授乳に際しては,これらの点を考慮して欠けるところを補う配慮が必要である。→

澤田 啓司