平凡社 世界大百科事典

砂糖

ショ(蔗)糖を主体とする工業製品の総称で,化学名としてはショ糖を使う。ショ糖は,多くの植物によって光合成産物として生産される。

種類

砂糖は原料植物,製造法,製品などによって,それぞれ異なった分類がされる。

原料による分類

原料植物による分類で,カンショ糖(テンサイ。ビート糖ともいう)が代表的なもの。このほか,カエデ糖(サトウカエデ),ヤシ糖(サトウヤシ),ソルガムシュガー(サトウモロコシ)なども外国では一部生産されている。

製法による分類

カンショ糖は通常,サトウキビ栽培地周辺で原料糖(糖度96~98度の黄褐色の結晶)にし,これを消費地に運んで白砂糖,グラニュ糖などに精製される。しかし場合によっては,産地で直接白い砂糖にまで精製されることがあり,これを耕地白糖と呼ぶ。テンサイ糖は,ほとんどの場合耕地白糖である。大規模な工業生産の場合にはこのようになるが,伝統的な小規模生産の場合には,サトウキビからの搾汁をそのまま濃縮する黒砂糖,赤砂糖などと呼ばれるものが作られる。近代工場で製造されるものは,遠心分離機を用いて,結晶と蜜(みつ)を分離するので分蜜糖と呼ばれ,黒砂糖の場合,糖蜜分をもそのまま煮詰めて固めるために含蜜糖と呼ばれる。図に示すように,耕地白糖,精製糖にも,それぞれ車糖(くるまとう),白ざら(双)糖などがある。

製品の種類

砂糖製品は,結晶の大きさ,ショ糖含量,加工形態などによってひじょうに多くの種類がある。これを大きく分類するとざらめ(双目)糖と車糖に分けることができる。前者は結晶が大きく,砂糖純度が100%に近い高純度の糖で,別名ハードシュガーと呼ばれる。後者は結晶が小さく,転化糖が加えられており,しっとりした感じがあるので,ソフトシュガーと呼ばれている。それぞれの特徴的な砂糖製品の性質と用途を以下に説明する。

 (1)白ざら糖 結晶がグラニュ糖より大きく,無色透明で光沢があり,糖度99.9%と最も純度の高い高級な砂糖である。転化糖含量が低いので高温加熱しても着色せず,キャンディ,高級菓子や飲料に多く使われる。家庭用として使われる量は少ない。(2)中ざら糖 結晶の大きさは,白ざら糖とほとんど同じであるが,黄褐色をしている純度の高い砂糖であり,一種の風味をもち,煮物などに用いられる。(3)グラニュ糖 結晶が上白糖よりやや大きく,さらさらした感じの高純度の砂糖で,癖のない淡白な甘みをもつ。コーヒー,紅茶に最適で,菓子,料理用にも多く用いられている。純度は99.8%以上で,ほぼ純粋な砂糖と考えられ,ざらめよりも結晶が小さいために水に溶けやすい。このままの形で使うか,角砂糖の原料にもなる。

 (4)上白糖 日本人好みのしっとりしたソフトな甘みをもち白砂糖と呼ばれている。これは結晶に転化糖を添加しているもので,調味料,菓子用,飲物用に用いられ,日本で使われる砂糖の50%を占める万能型の砂糖である。(5)中白糖 上白糖に似ているが,純度がやや低いので淡黄色を呈している。転化糖含量が高いため甘みを強く感じるが,最近はほとんど生産されていない。(6)三温糖 中白糖よりもさらに純度が低く,また灰分などを多く含んでいるので,中白糖よりも色が濃く薄茶色で特有の風味をもっており,煮物やつくだ煮などに使われる。

 (7)角砂糖 グラニュ糖を四角に固めたもので,コーヒー,紅茶などに用いられる。(8)氷砂糖 純度99~99.5%の砂糖溶液から大型結晶を作らせたもので,キャンディとしてそのまま食べることもできるし,果実酒用にも広く使われる。(9)粉砂糖 白ざら糖やグラニュ糖などの純度の高い砂糖を細かくすりつぶしたもので,果物にかけたり,ケーキ,クッキーのアイシング,洋菓子のデコレーションに使う。(10)顆粒(かりゆう)状糖 多孔質の顆粒状をした高純度の砂糖で,ひじょうに水に溶解しやすいのでアイスコーヒー,果物にふりかけて用いる。新しいタイプの砂糖である。

 (11)黒砂糖 サトウキビの搾汁を濃縮した含蜜糖の一種で,沖縄,鹿児島で作られている。ショ糖純度は85%前後であるが,甘さはかえって濃厚で,強い風味をもっている。かりん糖,ようかんなどに用いられる。

 このほかにも,液状糖(液糖)や種々の再生糖がある。代表的な砂糖製品の平均的な成分を表に示す。

製法

ここでは代表的なカンショ糖の製法を中心に述べる。

カンショ糖の製法

(1)原料糖の製造 サトウキビの生産地は熱帯,亜熱帯地域にあり,一般に砂糖の消費地から離れている場合が多い。収穫したサトウキビの形での運搬は不便なために,搾汁,濃縮,結晶の工程で粗糖をつくり,腐敗しにくく貯蔵,輸送に便利な形に変える。

(2)精製糖の製法 サトウキビから製造された原料糖は,消費国に輸送され,ここで最終商品の形に精製,加工される。原料糖を蜜で洗浄し,結晶表面に付着している不純物を除いた後に,温水で溶解し,石灰を加えて炭酸ガスを吹きこむ炭酸飽充によって炭酸石灰の沈殿を作り,これに不純物を吸着させて除去する。そのあと,活性炭,イオン交換樹脂などで精製,脱色して濃縮し,結晶化,結晶分離をくり返して,種々の純度の性質の異なる製品を製造する。

テンサイ糖の製法

テンサイ糖は,代表的な耕地白糖なので,原料を収穫してから最終商品までを一つの工場内で製造するのが特徴である。カンショ糖と最も異なるのは,搾汁ではなく,テンサイを細長い小片に細切し,温水を用いてショ糖分を抽出する点である。精製工程の原理は,精製糖と基本的に同じである。

副産物の利用

サトウキビの圧搾かすは糖蜜はアルコール,酢酸,アミノ酸の発酵原料として使われるほか,酵母の生産用糖原として利用される。

貝沼 圭二

生産の歴史

サトウキビからとるものと,18世紀末に開発されたテンサイからとるものに大別されるが,歴史的に重要なのは前者である。サトウキビは,ニューギニアが原産と考えられ,地中海東部には7世紀ごろアラブ人がもたらした。しかし,その生産が急増し,ヨーロッパ人の食生活に決定的な影響を与えるようになったのは,16世紀に新世界の植民地が開発されて以来のことである。すなわち,16世紀にはまずポルトガル領のブラジルにサトウキビ・プランテーションがひらかれ,ついで17世紀にはオランダ人の手によって,イギリス領西インド諸島のバルバドスやネビスに移植される。砂糖は,いかなる土地においても人々の嗜好(しこう)に合致する典型的な世界商品=換金作物として,熱帯植民地の最大の生産物となったのである。近世の世界経済の動向は,砂糖の生産と流通をたどることによって描くことも可能なのである。

 17世紀後半以後は,ジャマイカにも生産がひろがり,18世紀にはこの島とフランス領のマルティニク,グアドループ両島が生産の中心となる。以上のどの植民地でも,サトウキビは黒人奴隷を労働力として栽培されたうえ,モノカルチャー化が進行したので,社会そのものが,少数の白人プランターと大量の黒人奴隷によって構成されるようになる。ふつうこのような変化を,〈砂糖革命Sugar Revolution〉と呼んでいる。1804年にハイチ革命が起こり,07年にはイギリスが奴隷貿易を廃止すると,砂糖生産の中心はキューバに移る。またこのころには,モーリシャス,ジャワ,フィリピン,レユニオン,ルイジアナなどにも栽培がひろがっており,37年にはハワイ,50年には南アフリカのナタール,64年にオーストラリアのクイーンズランドへも,それぞれ導入される。奴隷貿易や奴隷制度が廃止されたのちも,サトウキビはおもにアジア系の契約労働者(債務にしばられた半ば不自由な労働力)によって栽培されていたために,かつてのサトウキビ・プランテーション地帯は,いまだに深刻な社会矛盾をかかえ込んでいる。上述のようにサトウキビ栽培がふつう,主食生産を含む他のあらゆる経済活動を犠牲にするモノカルチャーの形態をとったことも,同様の悪影響をその後の歴史に残した。

 1747年には,プロイセンの化学者A.S.マルクグラーフがテンサイ中に砂糖を発見し,テンサイ糖製造の道をひらき,19世紀にはドイツ,オーストリア,ハンガリーを中心に急速にひろまった。テンサイ糖は1859年には世界の砂糖生産の4分の1,94年には5分の3を占めるほどになった。この結果,近年では,ロシア,キューバ,アメリカ,ブラジル,インドなどが主要な砂糖生産国となっている。

 近世初頭以来,砂糖生産は激増し続け,砂糖の消費量が生活水準の指標と考えられてきた。16~17世紀のヨーロッパでは,なお砂糖はごく上流の人々にしか用いられず,〈薬〉ともみなされるほどの貴重品であったが,17世紀末以降,とくに紅茶の普及にともなって,イギリスを中心にその消費が一般化した。そのため,ブドウ酒が豊富で紅茶の普及しなかったフランスに比べると,1775年ごろでもイギリスでは,3倍程度の国内消費(人口1人当りにすると8~9倍)があった。ビクトリア朝のイギリスでは,貧民にとってさえ,それが重要なカロリー源の一つになった。したがって,1807年の奴隷貿易の廃止や33年の奴隷制廃止は,W.ウィルバーフォースらによる宗教的,人道主義的な運動の成果というより,国際的にみて高価なイギリス領西インド諸島産砂糖への保護政策を廃し,労働者のために〈安価な朝食〉を確保しようとするブルジョアジーの利害に沿った動きであった。つまり,穀物法の廃止と同じ動機に動かされたものである。

川北 稔

日本人と砂糖

日本に初めて砂糖が伝えられたのは,754年(天平勝宝6)に来朝した鑑真(がんじん)によってであるとされることが多い。それは鑑真の第1次渡航のさいの積荷の中に〈石蜜〉〈蔗糖〉の名が見えるためで,この石蜜を氷砂糖とする説も多い。しかし,鑑真の渡航は難破,遭難をくり返したすえ,6度目にやっと成功したもので,最後の航海時にもそれらを積んでいたかどうかは不明である。しかし,砂糖が奈良時代に伝えられていたことは正倉院宝物の薬剤の中に〈蔗糖〉があることでも明らかである。そして787年(延暦6)6月,宝物の曝涼(ばくりよう)が行われたとき,どういうわけか,その〈蔗糖〉の量が増えていたという記録がある。《後二条師通記》寛治5年(1091)10月25日条を見ると,藤原師通はその日橘俊綱から砂糖を贈られ,それを持参した使者が〈これは唐菓物(からくだもの)だということです〉といったことを記している。平安後期,砂糖は宋との私貿易によってわずかながら舶載されており,薬品ではなく菓子として認識されるようになりつつあったことがうかがわれる。

 室町期に入ると,砂糖は急激にクローズアップされてくる。砂糖,白砂糖の語だけでなく,砂糖ようかん,砂糖まんじゅう,砂糖あめ,砂糖餅といった言葉がいろいろな文献に見られるようになる。輸入も消費も著しく増加したためであるが,それでもなお,ようかんやまんじゅうでさえ砂糖を使うものがまれだったことの証左であろう。室町末期,奈良興福寺の塔頭(たつちゆう)多聞院の住職英俊は,1579年(天正7)2月と83年閏正月に堺まで人をやって砂糖を購入しているが,その代金は1斤あたり最初が185文,2回目が140文強であった。単に〈サタウ〉としてあるので黒砂糖だったと思われるが,1回目の直後に買ったそうめんが12把で100文だったから,黒砂糖といえども高価なものだった。毒物と称して主人が壺に秘蔵していた〈黒うどんみりとして,うまさうなもの〉を砂糖だと知って,太郎冠者と次郎冠者が食べてしまう狂言《附子(ぶす)》のこっけいには,当時の日本人と砂糖との関係がみごとに描き出されている。そして,平安期以降においては,日本の甘味料の代表として賞味された甘葛(あまずら)は,いつのまにか歴史の舞台からおりていたようである。→甘味料

鈴木 晋一

江戸時代の砂糖製造

近世初期の日本の砂糖は,中国・オランダ船が舶載するいわゆる唐砂糖のみで,幕府は初め350万斤に制限していたが,1715年(正徳5)には430万斤に改定された。1673年(延宝1)のオランダ人の報告書では,100斤につき中国での仕入値は氷砂糖銀36匁・白糖20匁・黒糖14匁,日本での取引値はそれぞれ70匁・60匁・50匁の高値であった。国産糖の初めは琉球で,1623年儀間真常(ぎましんじよう)が家人を福建に遣わして伝習させたのに始まるというが,事実は1392年福建からいわゆる36姓の唐人が帰化したときにもたらしたものらしい。奄美大島糖業の創始については〈大和浜の直川智(すなおかわち)が中国に漂着滞在中に技術を習得して,ひそかに蔗苗を携え帰り,1610年に製糖を始めた〉という慶長創業説が,1880年の綿糖共進会への報告書以来通説化しているが,1850-55年(嘉永3-安政2)に書かれた《南島雑話》や和家文書(にぎけもんじよ)では〈元禄の初年に川智の孫の嘉和知(かわち)が琉球より伝習し帰り,大和浜西浜原にて試製して120斤を得,それより段々と大島中に流行した〉としており,この元禄創業説が正しい。薩摩藩では1695年(元禄8)黍検者(きびけんしや)を派遣し,また3年後には黍横目,津口横目,竹木横目を設けて産糖支配に乗り出し,早くも1713年(正徳3)には大坂に黒糖を積み登ししている。45年(延享2)には,貢米は砂糖1斤・米3合替で代納するといういわゆる〈延享の換糖上納令〉を出し,さらに77年(安永6)には奄美大島・徳之島・喜界島3島砂糖総買入制を実施した。1830年(天保1)には藩債が500万両に達し,破局の財政再建のために有名な〈天保の改革〉が行われた。30-39年の10年間の大坂積登砂糖金額は235万両であるから,砂糖の果たした役割は大きい。49年(嘉永2)の仕登糖は1610万斤,うち450万斤が琉球糖であったが,薩摩藩は奄美のほか琉球,種子島や領内海辺の産糖もすべて抑え,54年(安政1)以来は沖永良部島・与論島産の砂糖も専売網に組みこんだ。過酷さから64年(元治1)には薩摩藩には稀有(けう)といわれた一揆が徳之島犬田布(いぬたぶ)に勃発した。廃藩置県後も鹿児島県は,政府の砂糖勝手売買の令を秘して大島商社を設立し,藩政時代同様の専売制を引き継がしめたから,各島に猛烈な自由売買請願運動が起こり,いわゆる〈勝手世騒動〉なる大事件となったが,1878年に解決した。

 薩摩藩以外では,徳川吉宗はじめ財政難に苦しむ諸大名の奨励や,《農業全書》(1697)の著者宮崎安貞や池上幸豊,大蔵永常,平賀源内など識者の唱導によって各地に糖業が起こったが,1794年(寛政6)には高松藩が大坂に砂糖の積み登しをはじめ,1835年(天保6)になると大坂市場には讃岐,阿波,土佐,和泉,河内,紀伊,駿河,遠江,三河などからの廻着高が1123万斤にも達し,中には讃岐,阿波などの三盆白なる上品さえも登場してきた。これら諸国産の砂糖は〈和製砂糖〉と名づけ,薩藩糖はその形より丸玉または〈たどん〉と称した。薩摩藩でも白糖製造に1767年(明和4)以来着手し,ことに1865年(慶応1)にはイギリス人を招いて白糖の洋式製造を始めたが成功せず,国産糖における独占的地位を失った。

原口 虎雄

製糖業

サトウキビ,テンサイなどの原料作物から砂糖製品を作る工業。日本の製糖業は,国内の原料作物から砂糖を作る砂糖製造業と,外国から粗糖を輸入してそれを精製する砂糖精製業に分けられる。日本では北海道でテンサイが,沖縄,鹿児島でサトウキビが作られている。国産糖の生産量は73万t(1981砂糖年度,1981年10月~82年9月)で総需要量269万tの27.1%を占めている。砂糖自給率は1975砂糖年度の15.6%から大幅に上昇している。これには,テンサイが北海道の,サトウキビがとくに沖縄の農業の基幹作物であるため,政府がこれらの生産を振興していることがある。国産糖保護のため,輸入される粗糖には高い関税や調整金が課されている。

 国民1人当りの砂糖消費量は,1981砂糖年度で約23kgで,1970年代後半から減少ないし横ばい状態となっている。これには消費者の砂糖離れと競合商品の異性化糖の急増がその背景にある。

 日本において,近代的な製糖業が始まったのは明治に入ってからである。1896年,東京に日本精製糖が設立された。この会社は,鈴木藤三郎が1883年に静岡に設立した,氷砂糖をつくる鈴木製糖所を継承したものである。98年には渋沢栄一により日本精糖が大阪に設立されている。その後1906年には,日本精製糖が日本精糖を吸収合併する形で大日本製糖が誕生した。しかし日本で本格的な近代的製糖業が始まったのは,日清戦争の結果,台湾が日本の領土となってからである。1900年には台湾製糖(現,台糖)が設立されている。この台湾における製糖業は,植民地経営の主軸となり,大規模な奨励策をうけて生産能力は飛躍的に拡大し,40年代には産出量が年間150万t以上になり,国内消費量(120万t)をこえ,完全な過剰生産になるまでに至った。第2次大戦の敗戦とともに,台湾,南洋諸島などの植民地を返還するに及んで,日本の製糖業は外国から原料糖を輸入して精製するだけの砂糖精糖業として再出発することになったのである。

 戦後の製糖業は,1947-48年にキューバの粗糖が,主食代替品として配給されたことに始まる。これを契機として,50年に政府が製糖業復活のため保護育成策に乗り出したため,日本各地に製糖会社がつくられた。この時期,粗糖の輸入制限のため外貨の割当制が実施され,外貨を割り当てられたメーカーは,安い輸入価格と,国内産糖保護のための高い国内価格によって莫大な超過利潤を得ていた。しかし,このことは同時に不必要な設備拡張をもたらした。

 1963年の原料糖の輸入自由化とともに設備能力の過剰が明白となり,市価は製造コストを下回るようになり,精糖各社は赤字決算を続けるようになった。また製糖産業は市況産業であるため,糖価を安定させるために,65年〈糖価安定法〉が公布されたが,この法律には数量制限の規定がなく,また砂糖が差別化のしにくい商品のため,シェア拡大には価格引下げしかないこともあって,市価はこの法律で指定された目標価格よりはるかに安く推移した。このため,適正価格維持のためや業界の構造改善を目的とした設備の休止,廃棄のための法律が制定されている。この業界は,原料の輸入から製品の販売まで商社との結びつきが強く,原糖の輸入自由化以降の不況のなかで,商社を中心とした業界再編が行われている。

高橋 秀夫+黒田 満
図-砂糖の分類と種類
図-砂糖の分類と種類
表-砂糖の平均的成分
表-砂糖の平均的成分
平凡社 世界大百科事典

もともとは天然の甘味成分に対して与えられた漠然たる用語であるため,場合により多少違った意味で用いられる。(1)もっとも厳密には糖類saccharideのうち水溶性で甘味をもつものの総称で,単糖と多くの少糖を含める。(2)糖類一般,つまり単糖,少糖,多糖を含める。(3)さらに広く糖質一般,つまり炭水化物を指すこともある。→単糖

村松 喬
平凡社 世界大百科事典

糖質

炭水化物の別称。炭水化物は(CH2O)nの分子式を示すことが多く,あたかも炭素と水が化合したかのように受け取られ,このように称された。しかし,これは誤解とも言え,他のしかるべき名称に置き換えるべきだとの考えがあり,日本でも糖質という言葉が広く使われるようになっている。→炭水化物

村松 喬