ロックバンドTHE BOOMが1993年に発表し、世代、人種を超えて愛されている名曲『島唄』。楽曲発売20周年目となる2013年3月に、ニュー・レコーディングバージョンとして『島唄』が再び蘇る。
本土復帰40年の節目を迎えながらも、米軍機オスプレイ配備問題で揺れる沖縄。そして未だ震災の傷癒えぬ日本。そんな現代にあって、鎮魂と平和の願いが込められた同曲が新たな歌詞を追加して歌われることに、運命めいたものを感じずにはいられない。この『島唄』を生み出した張本人である、THE BOOMの宮沢和史にその思いを聞いた。

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 『島唄』のイメージから、沖縄出身のバンドと思う人もいるかもしれないが、宮沢ふくめバンドメンバーはみな、県外出身。宮沢は、沖縄音楽を代表する三線の音色に惹かれ、沖縄民謡に興味を持った。
そして初めて訪れた沖縄で知った太平洋戦争中の悲惨な歴史が、26歳の宮沢に『島唄』を書かせた。「沖縄には米軍基地もあって、戦争はまだ続いている。それでも惨たらしい歴史を繰り返さないよう、平和を祈る鎮魂歌として作りました。重いテーマではあるけれど、表面上は男女の悲哀を描いた歌にしたんです」と楽曲誕生の舞台裏を語る。その一方で「三線は沖縄の人にとっては神聖なもの。それをロックバンドがステージで演奏するということを面白がらない人もいました。
それに沖縄県民でもない戦争を知らない僕が、鎮魂の曲を歌っていいものだろうか」という葛藤もあった。

 沖縄県内での限定発売から、全国発売された『島唄』は、後に150万枚を超える全国的ヒットを記録。だがバンドにとって、それは微妙な時期だった。宮沢は「ヒットしたとき、THE BOOMは煮詰まっており、活動休止状態。複雑な心境でしたね」と当時を振り返る。90年代初頭に沖縄音階を入れた楽曲は実験的であったが、それが評価されたことで「自分たちがやってきたことは間違いではなかった」との手応えを得ることもできた。
しかし爆発的ヒットは諸刃の剣。THE BOOMに、沖縄音楽というパブリックイメージが定着する。「次に新しい音楽をやってみようと思っても、『島唄』のようなものを期待されてしまう。ブラジル音楽に傾倒した30歳のころは、そんな期待が重荷になって『島唄』を歌いたくない、離れたいと思っていた」と、もがき苦しんだ時期もあった。 そんな宮沢の思いを変えたのは、『島唄』がポピュラーミュージックとして浸透し、普遍的な曲として人々に愛されるようになってからだ。「那覇空港で立ち読みをしているときに、隣の人の携帯電話の着信音楽が『島唄』でした。
その時に、ふと特別な曲ではなくなったんだと思い、気分が楽になったんです」と声を弾ませる。そして今回発売される『島唄』には「社会情勢が複雑化している今だからこその思いや、要素を入れたかった」と完全なる新作として向き合い、一部歌詞を変更した。中でも「波」と「未来」というワードが意味深だ。

 宮沢は「震災を体験して、未来がない可能性があることを知りました。現に3万人の方が未来を奪われ、残された家族にも未来が見えない人もいる。未来は無限に広がる意味を持つ一方で、そうではなくなるときもある。
今の時代の中では、未来という言葉ほど危ういものはない」と言い切る。だからこそ「今までやってきたことを、より一所懸命にやる。もしかしたら明日、すべてが奪われるかもしれない。だからといって逃げるわけにもいかない。人間はだらしないけれど、そんな自分と向き合い、一所懸命やる。そういった思いを一人一人が持てば、全体的な熱量も上がっていくはず」と“未来”に期待を込める。


 宮沢にとって『島唄』は「歌えば歌うほど、新しく生まれる曲です。どんなに歌っても、再演という感覚にならない」稀な楽曲なのだという。問題山積の現代日本において、この鎮魂歌は新たな一歩を踏み出すことになった。宮沢が同曲に込めた思いが現実になったときに、この曲の役目は終るのだろう。しかし、その「永遠の夕凪」が訪れるのはいつのことになるのだろうか。

 THE BOOM『島唄』20周年記念シングルは、現在発売中。