「無戸籍の日本人がいる」

 そう聞いて、どんな感情を抱くだろうか? おそらくほとんどの人は、「本当に?」と疑う。もしくは、「なぜ?」と疑問を抱くだろう。

戸籍を作る手続きは簡単だ。子どもが生まれてから、14日以内に出生届を役所に提出する。たったそれだけ。けれど、なんらかの事情で、両親がもしも出生届けを出すことができなかったら――。その子どもは戸籍上、「存在しない人」となる。多くの場合、両親がその存在を隠してしまうため、世間とほとんど関わることがないまま、大人になる。


『無戸籍の日本人』(集英社)には、20代から40代の今を生きる、“成年無戸籍者”が登場する。例えば、ホストの近藤雅樹さん(27歳)。生まれてすぐに母親が亡くなり、義母に育てられた。16歳から働きに出たが、ある日、義母が火事に巻き込まれて死亡。自分の存在を証明するものが何もなくなってしまった。また、佐々木百合さん(32歳)は、両親が出産費用を工面できず、病院が出生証明書を預かったまま無戸籍で育った。
その後、時がたち、病院は閉院。ある男性との婚姻届を提出したが受理されず、妊娠4カ月を迎えていた。西成のドヤ街で肉体労働をしている白石明さん(40歳)の母親は、売春婦だった。父親は誰かわからない。19歳の誕生日の夜、母親と大ゲンカし、20年以上会っていない。ほかにも、複雑な家族のもとに生まれた性同一性障害を抱える「彼」ヒロミさん(32歳)、DV夫を恐れる母親が出生届を出さず、無戸籍のまま2児の母となった藤田春香さん(31歳)など、誰もがそれぞれに過酷な人生を送っている。


 戸籍がないということは、住民票が作れないので、就学通知が届かず、義務教育を受けられない。さらには、家を借りたり、銀行口座を作ることもできないし、携帯電話の契約もできない。健康保険証がないので、医療費はすべて自己負担になる。就職はどう考えても極めて困難で、働くことができる場所は限られている。では、無戸籍者はいったい、どうやって生き抜いているのか? 

 そんな彼らを追ったのは、著者で経済ジャーナリストの井戸まさえ氏。自身の子どもが約1年間、無戸籍となったことがきっかけで、13年間にわたり、無戸籍者への支援を続けている。
井戸氏の子どもが無戸籍になった理由は「離婚後300日以内に生まれた子は、前夫の子と推定する」という、約120年前に誕生した法律・民法772条(嫡出の推定)にある。

 井戸氏は、長期間におよぶ別居と離婚調停の末、前夫と離婚。その後、まもなく交際相手との間に子どもを授かるが、離婚後265日という、早産だった。離婚後に妊娠しているし、なんの落ち度もない。ところが、300日という日数に阻まれ、父親は前夫としなければ、戸籍を取得することができなかった。再婚相手の男性を父親にするためには、前夫に協力してもらうほかない。
それは大変な重荷だった。当時、役所からこの法律を知らされ、驚いた井戸氏が「なぜ離婚しているのに、前夫が父親になるのですか?」と当然の疑問を役所に投げかけると、担当者は「離婚のペナルティです」と言い放った。

 この“ペナルティ”は、本当に必要なのだろうか? 本書によれば、戸籍がない日本人は推定1万人。この法律の裏で、戸籍を手に入れることができないまま、常にどこかうしろめたさを抱えながら生きている犠牲者たちが、これだけ多く存在しているのだ。彼らがいったい何をしたというのだろうか? 「存在しない子」として育ち、大人になった無戸籍者たちは、声を上げることもできず、いまもどこかで身を隠すように生きている。
(文=上浦未来)

●いど・まさえ
1965年生まれ。
宮城県仙台市出身。東京女子大卒。松下政経塾9期生。5児の母。東洋経済新報社勤務を経て、経済ジャーナリストとして独立。兵庫県議会議員(二期)、衆議院議員(一期)。NPO法人「親子法改正研究会」代表理事、「民法772条による無戸籍児家族の会」代表として無戸籍問題、特別養子縁組など、法の狭間で苦しむ人々の支援を行っている。著書に『子どもの教養の育て方』『小学校社会科の教科書で、政治の基礎知識をいっきに身につける』(2冊とも東洋経済新報社・佐藤優氏と共著)。