ライター・編集者の飯田一史さんとSF・文芸評論家の藤田直哉さんの対談。前編記事に続いて映画『シン・ゴジラ』について語り合います。
ネタバレあり。

『シン・ゴジラ』はニュータイプの国策映画か?


「シン・ゴジラ」は福島原発の比喩そのもの 責任取る側をきちんと描いた意義
(C)2016 TOHO CO.,LTD.

藤田 エヴァ直撃世代として、庵野監督作品として観た場合の感想も言いたいわけですが。同世代の前島賢氏は、庵野監督は自分に厳しいと言っていたのは面白かったです。旧エヴァ劇場版で「現実に帰れ」と言い、『シン・ゴジラ』で「仕事しろ」と言ってきたと……(笑)

飯田 庵野さんはTV版の『エヴァ』以降ずっと「オタクは現実に帰れ」「日本人は幼児化している」とか説教親父のテンプレみたいなことを言いつづけてますよ。今に始まったことじゃない。そしてそれがめっちゃ村上龍くさい点でもある。

藤田 ただ、震災後が反映されているとぼくが(勝手に)思った『ヱヴァQ』の終わりの絶望感と比較するなら、随分と立ち直ったなという感じがします。
もう日本も世界も壊滅しちゃってるぐらいのノリだったじゃないですか、『Q』は、そこで虚脱状態で終わる。その「続き」として勝手に観たぼくは、日本が「壊滅する」手前で寸止めして、立て直すために異端児達や政治家、科学者、技術者、民間人たちが「がんばる」この映画では、ちょっと「前向きになったのかな?」とは感じますよね(エヴァの音楽が使われているので、連続性を見ても許されるでしょう)。

飯田 『Q』は『序』『破』からの流れでいったん落とさないとクライマックスにもっていけないからああなるのはしょうがない、作劇上の必然でしょう。単体で『シン・ゴジラ』と比べるべきものではないと僕は思います。まあ、『Q』のころの庵野さんが混乱していたことも間違いないけど……。

藤田 『シン・ゴジラ』は「がんぼろう日本」というか「日本の技術スゲー」みたいになっちゃっているところは、ナショナリズムを高揚させるような危険があると思うんですよ。
そもそも日本の戦後のSFや特撮やアニメ全般の魅力は、敗戦で失われた日本のナショナリズム誇りを、科学技術立国としてのアイデンティティとして、虚構の中で回復させたり高揚させるところにあったと思うんですよ。ぼくも、そういうものに高揚する感性は随分と持ち合わせています。『シン・ゴジラ』は、むしろ「萌え」以前の日本のサブカルチャーの感性を敢えて復活させてきたのかなと思いましたが、しかし、現実と比較すると、どうなんだろう。
 既に、科学技術立国とは言いがたい。経済的にもそれほど豊かではない。重工業が頑張って勝利する、という話が、どうも現実で失われたプライドやナルシズムを「虚構」で補償しているようにも見える。


飯田 世界各国のスパコンの力借りてゴジラのことを解析してるし、そこまで「日本の技術すげえ」的な話じゃなかったと思うけどなあ……。政治家が「日本はまだやれる」とか言うのは口癖みたいなものでしかないし。くりかえしになるけど「老害は全部殺せば世代交代してうまくいく」みたいな感じはちょっといただけないなと思いましたが。

藤田 杉田俊介氏が「『シン・ゴジラ』は一番作っちゃいけない作品だったのでは」「この国はまだまだやれる」「この国は立ち直れる」という日本人=日本国家への信頼と鼓舞ばかりが語られ、不気味だった。」「『シン・ゴジラ』は、ニュータイプの国策映画の時代のはじまりを告げる記念碑的な作品じゃないかな」と発言して、大変に、炎上していますが、その部分は、真面目に反省するべきかとも思うんですよ。

飯田 ふーん。一生反省してればいいんじゃないですか。


藤田 単に気持ちがいい「エンタメ」が、プロパガンダ映画に使われるのは、リーフェンシュタールがナチスに協力して作った『オリンピア』などで明らかです。そして、自衛隊なども協力している。ぼくは兵器を観るの好きなので単純に気持ちが燃えますが、同時に反省する気持ちも持つわけです。「虚構は虚構」と簡単に現実と切り離せないタイプの映画であり、現実に対してメッセージを発している映画だからこそ、この部分が気になるわけですが。

飯田 しかし、ああいう始まり方をしておいて米軍が決着つけるとかいつものゴジラ映画みたいに「人間の攻撃はまったく歯が立たなかった」っつってゴジラがどっかに消えていったら「ぽかーん」としないですか? あの終わらせ方は、かなり偶然なんとかなった、ギリギリまにあったという程度の冷静さはあると思うんだけどなあ……。震災シミュレーション映画としての側面を強くもたせた以上、ああやって事態を収束させるのは、僕は必然だと思いますが。


「シン・ゴジラ」は福島原発の比喩そのもの 責任取る側をきちんと描いた意義
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藤田 現実に対応させること、東京や日本を「壊さない」選択をした意図を解釈するべきだ、と思うんですよね。映画ですから、なんでもできたわけですよ、『エヴァ』だったら、日本も世界もぶっ壊しちゃってた。しかし、本作はやらないで、日本政府がゴジラを止めることに成功する物語にした。そのことの是非は、議論されてしかるべきかと思います。庵野さんが大人になった、震災後の鬱から治った、という単純な解釈でいいものか……。
 ぼくは本作が単純な「右傾エンタメ」であるとは思わなくて、もう少し苦い両義性があると思うんですよね。
主役であるゴジラは、日米合作で生み出した原爆と原発の象徴であり、日本と人類に報復に来る話ですからね。ぼくの解釈では、人類に絶望した博士がなんらかの物質を自身に投与してゴジラ化したわけですから、政府の総動員体制に象徴される政治、科学それ自体が生みだしたものである。解決した手段が、また原因となる構造を持った循環的な危機なんです。それを描いている以上、単純なプロパガンダ映画ではない。その称揚しているように一見見えるものの中に危機が内在されていることをちゃんと描いている。
 
飯田 「自然災害」だって作中でも強調されているのに、自然災害、害獣と戦う人間を描いたら右傾、国策ってのは、ちょっとよくわかりません。

藤田 自然災害ではないでしょう。象徴としては原子炉なのですから。作中の設定としても、放射性物質の影響を受けてゴジラは巨大化しているわけなので、人災でしょう。

飯田 はあ。じゃあ原子炉を収束させる映画は右傾、国策だと。

藤田 国策によって発生した災害(の象徴)である、というところはまず抑えた上で。
 自衛隊らをカッコよく描いている部分や、危機に対処するために官民一体となっていたり、民間の会社の技術力が活躍するところなどには、ナショナリズムを高揚させる効果は確かにあると思いますよ。

飯田 人災の面もあるけど災害でしょ? 災害を収める、害獣を駆除するのと戦争で人殺すのは根本的に違いますよ。
それに、これまでだって自衛隊はわりと怪獣映画では好意的に描かれてきたと思いますがね……今回いきなり怒り狂うのは、ちょっと理解できない。平成ガメラのころから怒り続けているなら「そういう人ね」って思いますが。

藤田 繰り返しになりますが、ぼくは、自業自得でゴジラ生み出して、必要のない災害と死者を出して、それに対応するために必死に奮闘させられるという、無駄な話である、という側面も本作の裏にはあると思うんですよ。原発収束させた人たちは偉いんだけど、そもそもあの事故は発生させないで済むものだったわけで。

飯田 はあ。事故(作中では博士の自殺?)が発生しなかったらどうやって映画にするの? 物語が始まらないでしょ。それで自衛隊は活躍しない、日本がんばってもどうにもならない、それでどうやって話をまとめるのか。何言ってんだ。

藤田 映画なのだから、現実に「合わせて」収束させる必要はないわけでしょう。そこまでリアリズムに拘ってきた作者でもないわけですし。
 たとえば、他の終わらせ方だと、ゴジラには核攻撃を行って、日本政府も人類も敗北する結末(あるいはそのぐらいギリギリまで追い詰められてからの逆転でもよい)もありえると思うんですよ。日本政府が頑張って止めたことを「映画として」の着地点にどうしてもしなくてはならないわけではないですよね。

飯田 僕はまったくそう思いません。このタイミングでつくられる国産ゴジラ映画としては、ああいう選択肢が最良だったと思います。

事態を収束させる側をきちんと描いたことの意義


「シン・ゴジラ」は福島原発の比喩そのもの 責任取る側をきちんと描いた意義
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飯田 Yahoo!個人で書いたことのくりかえしになりますが、これまでの震災後文学はほぼすべて被災者・被害者・批判者目線で描かれています。だけど『シン・ゴジラ』はほとんど初めて、事態を収束させる側をちゃんと描き切った、責任取る側の立場を見せた。そのことで震災の見え方も変わるし、政治に対する目線も変わると思う。ゴジラは福島の原発の比喩そのもので、しかし、原発事故をどうやって止めたのか、ということはノンフィクションでは扱われてきてもフィクションではほぼまともに扱われてこなかった。ケツをもつ側、なんとかする側の目線が全然なかった。これはやはり問題だったと思う。まあそれがイヤだというひとがいるのもわかるけど、僕はそこがよかった。
 しかも「震災映画は全然人が入らない」と言われてきたなか、このヒットしたことの意味もあると思う。もちろん人々は「震災映画」だから見に行ったんじゃなくてゴジラだから見に行ったわけだけど、これだけたくさんの人に3・11を思い起こさせたことの社会的意味は大きいと思いますよ。ほかにそんなことができた作品はひとつもない。

藤田 その評価はよくわかります。震災映画で、しかも収束させる側を描いたことが評価に値するというのは、よくわかります。「責任をとる」というか、「対処する」とぼくは呼びたいですが。
 東日本大震災を「再考させる」効果もよく分かります。しかし、「再考」だけじゃなくて、イメージを上書きしたり、「こうであってほしい」という願望なども入り混じって、なかなか複雑な様相を呈しているのが本作だと思います。「映画」というフィクションなのに、まるで現実であるかのように人が熱く議論するのは、それが現実に、観客の感性や認識を通じてなんらかの効果を及ぼすという前提があるのか、あるいは観客がこの映画を観た「効果」として、虚構と現実の感覚を狂わされたのであろうと、推測されます。その効果がどうやって生じたのかについては、後半で細かく見ていきましょう。
 一方で、一番極端に「現実」の要素を排除して観ようとする人も一定数いるようです。単に映像的な快楽のあるシーンを繋げただけのエンターテイメントだから政治性なんて関係ないとする意見。「面白い怪獣映画」として刺激を与え、興奮するための「サンプリングの素材」として現実を使っただけだ、という説も結構根強くあるようです。

飯田 いやまあ、ケツもちたくない、いつまでもツッコミを入れる批判者側でいたい、フィクションに政治を持ち込んでほしくない、みたいなひとがいるのはわかります。別にそういうひとはいつまでもそうしていればいい。というか、そうすることしかできない。だけど一部の人だけでも気持ちに火がつけば十分じゃないかと。どんな作品もすべての人間を満足させることはできないし、全員が同じ気持ちになる必要もない。観方が統一されていたら気持ち悪い。
 ただ、僕らは現実の3・11のときには政治家から官僚から東電からなにからが(それぞれは必死だったけども)当時ぐだぐだで大混乱していたことは知っている。その前提で観ているから「こうだったらどれほどよかったか」とか「なんでこれができなかったのかなあ」とか「どうすればこういうふうにできるかなあ」とかいろいろ思う。思わせられる。『シンゴジ』ではめっちゃかっこいいからよけいに思う部分もある。そうやって観ているひとに自己への問い返しをさせるのはすぐれたフィクションのもつ重要な力だと思うし、なにかしら観たひとに思わせる力があったことは否定しようがない。
 自衛隊が出てくるだけで「自衛隊が―」「右傾化―」「日本賛美気持ち悪い―」とかテンプレすぎて藤田くんが毎回その話をするの、本当にイヤ。

藤田 自衛隊だけじゃなくて、クレジットを見ると、政府関係がかなりあるんですよね。

飯田 そりゃそうだ。そういう話だもの。

藤田 自衛隊や政府が登場する映画の全てに彼らは協力するわけではないんですよね。内容的にNGだったら結構断ってくる。その辺の事情が内容にどの程度影響しているのかどうか、ぼくにはわかりませんが。

飯田 自衛隊は現実の指揮命令系統等を無視しまくった作品および自衛隊が無能すぎて何の役にも立たないような作品に協力はしない、と広報の方針で決まっているみたいですね。過去のゴジラの撮影もそれで断られたものがある。
 それは当たり前でしょう。他の企業だって同じ。テレビドラマだってスポンサーの悪口は描けない。協力していたら自衛隊や政府礼賛なのでクソ映画っていうの、思考停止ですよ。
 むしろ3・11のころ情報管理も意思決定も政治家・自衛隊の百倍くらいマズかった東電(的な組織)を出さなかったことのほうが問題だ、くらい言ってほしい。『シンゴジ』は東電的な組織が出てこないからわりとスムースに事が運んでいることは間違いないんだから。映画で見えている自衛隊とかを叩くなら、東電を消したことについてもつっこめよ、と思う。


後編記事に続く