幕末期に土佐で漂流し、アメリカへ渡ったジョン・万次郎や浜田彦蔵(ジョセフ・ヒコ)のお話はよく知られていますが、雪深い越後の地にもアメリカへ渡った漂流民のお話が残されています。その名を、伊之助(または勇之助)といいます。
そう、これは漂流民・伊之助のお話なのです。
■北前船の乗船中に遭難
1832(天保3)年、越後国岩船郡板貝いたがい村で伊之助は産まれました。伊之助は、1852(嘉永5)年、19歳のときに北前船「八幡丸やはたまる」の乗員として蝦夷えぞへ向かっていました。
その帰路のことです。
■滞米中に浜田彦蔵と出会う
漂流してから9か月ほどたった頃、半死半生の状態だった伊之助は、たまたま付近を通過中だったアメリカの商船エマ・パッカー号に助けらました。
それから約1年間、彼はストンシッペという船の番人として生活することになります。この間、伊之助は浜田彦蔵と会っています。彦蔵の自伝には、伊之助のことが詳細に書かれており、それによれば、伊之助は脇差を身に付け、身のこなしも丁寧で役人風に見えたこと、日本語で話しかけると大変驚き、助けを乞うたことなどが記されています。
滞米中、伊之助と出会った浜田彦蔵
また、1853年10月8日付けのアメリカの絵入り新聞「イラストレイテッド・ニュース」に「八幡丸」や伊之助に関する記事が掲載されました。
■伊之助の願いが叶い故郷へ
1854(嘉永7)年の6月、伊之助はようやく願いが叶い、カリフォルニア商船レディピアス号によって日本に送り届けられます。
さて、帰国後の伊之助ですが、英語がある程度理解できたことから、通訳として幕府に仕える話もあったようです。ところが、本人は帰郷を強く望んでいたため、下田・江戸で簡単な取り調べを受けた後、8月になってようやく故郷板貝村に帰りました。
新潟県立公文書館には、帰郷後、伊之助が庄屋辰蔵に語った文書が保存されています。そこには、「湊みなとはサンフランセシコといふ 都はニウヤラカといふ 御奉行はガハナといふ 男をマンといふ 女をヲンメンといふ」など、伊之助が見聞したアメリカの町の様子や言葉のことなど、またアメリカ人が着ていた洋服などが克明に綴られています。
ひょうんなことから、言葉も文化も全く異なる土地で暮らすことになった伊之助。滞米中、不安で心が休まることはなかったのではないでしょうか。
参考:新潟県立図書館、「漂流譚 アメリカへ渡った越後人」新潟県立歴史博物館編
勇之助 または伊之助
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