根本陸夫外伝~証言で綴る「球界の革命児」の知られざる真実
連載第8回
証言者・松沼博久(3)

前回の記事はこちら>>

 1979年の年明け早々に発売された野球週刊誌が、全国の書店から一斉に回収された。同誌には<江川に続く大逆転! 巨人松沼兄弟獲得>との記事が掲載されていたが、その一週間前の78年12月27日、松沼博久・雅之兄弟は西武入団を決断。

すでに新聞各紙が伝えていたから、その記事は誤報となってしまったのだ。結果、次号には<松沼兄弟 大逆転で西武入団>と題したお詫び記事が載ったが、なぜ見切り発車されたのか。真相を兄・博久に聞く。

当事者が語る「巨人松沼兄弟獲得」大誤報の真実と根本陸夫の口説...の画像はこちら >>
「週刊誌の記者の人がオトマツ(弟・雅之)と知り合いだったんです。日米大学野球の時からね。それで僕らが巨人の長嶋(茂雄)監督に会ったという話を聞きつけて取材に来た。
『長嶋さんと交渉したんだったら、決まりだろ?』って言われて。ただ、その時はまだ西武と交渉する前だったから、僕は肯定も否定もしなかった。オトマツは肯定したみたいだけど」

 たしかに記事にも、<締め切りが昨年暮れの25日午後。このギリギリの時点で、当事者である松沼兄弟に念を押し、巨人入りを確認した>とある。弟・雅之から<26日か27日には巨人と契約する、年内にも発表されるでしょう>と伝えられたことも記されている。

 だが、その直後の西武との交渉で「新生西武ライオンズを手伝ってくれ。
オレが監督で、お前らふたりを使うから」と根本陸夫が言った。ふたり一緒に一軍でプレーしたいと望んでいた兄弟にとって、その言葉は"殺し文句"となった。

 もっとも、文中では西武入団の<決定打>として、契約金の違いが強調されている。巨人の提示額1億2000万円に対し、西武は1億5000万円だったことで<松沼兄弟は一も二もなく降参してしまった>と。この金額は兄弟ふたりの合計額だが、ひとり7500万円としても、当時の一流選手の年俸の倍近いから、破格の金額だったことは間違いない。

 一方で、西武グループの戦略も<大逆転>につながったと伝えられてきたが、実際にはどうだったのか。



「家族とか親戚とか、選手の周りを固めるってヤツでしょ? その点、親父は砂利店なんですね。もともと東武開発さんと懇意にしてもらっていて、そちらと仕事のやり取りがずっとあったんです。それで西武グループには西武建設があって、たぶん『一緒にやりましょうよ』って声がけはあったんでしょうね。でも、親父は義理人情に堅いから、『いや、それはできない』ってお断りしてるんですよ。だから僕たち、本当に『根本さんのところに行こう』って言って決めたんです」

 交渉の場所は東京・新宿で、最終的に決断したのは千葉・松戸だった。じつは西武との交渉を終えたあとも、社会人の東京ガスのことが頭にあって、なかなか踏ん切りがつかず、帰路、ふたりで松戸のスナックに立ち寄った。
それぞれの自宅から近い店で相談したが、埒(らち)が明かない。

 そこで、当時流行し始めたインベーダーゲームで決着をつけることにした。博久が勝ったらプロ、雅之が勝ったら社会人と決めて勝負した。だが、雅之が勝つと、どちらが言うともなく「もう1回やろう」となった。結局、5回ほど対戦したのちに「ふたりとも本当はプロに行きたいんだろ」となって、西武入団を決めたのだった。

「クラウンライターライオンズでスカウトに来られてもね、僕たち入ってなかったと思うんですよ。

それが西武ライオンズは、レオのマークが示したとおり、みんなが喜びそうなチームに仕上げようとしてたじゃないですか。華やかさを出そうとしてたじゃないですか、パ・リーグなのに(笑)。その『新しい!』っていうイメージには惹きつけられましたよね。でも入団した時、まだ西武球場ができあがっていなかった。それは仕方ないとして、新人合同自主トレをやったのは高輪プリンスホテルの駐車場ですよ(笑)。『コンクリートの上で何ができるの?』と」
 
 高輪で可能な限りの練習をしたあとは新宿・高田馬場のトレーニング施設に行った。
その後、静岡の伊豆・下田で第一次キャンプに入っても、野球場ではないグラウンドでの練習。不満を漏らす選手もいたなか、「道端でもキャッチボールはできるじゃないか」と根本が言った。博久自身、「プロっていうイメージと重ならない、変なスタート」と感じていた。急造の新生球団ゆえの準備不足によるものだったが、米国フロリダ州ブラデントンでの第二次キャンプは博久にとって快適だった。

「日本のキャンプと比べて......ですけど、練習時間が短くて、グラウンドコンディションによっては練習できなかったり、メジャー球団が来たら途中で明け渡さないといけなかったり。目一杯にやることがなくて、投内連携みたいな細かい練習もあんまりやらなかったし、サインプレーもほとんどやってない。根本さんから何か言われることもなくて、ミーティングもない。本当に。僕たち新人なのに、プロに入っての心構えみたいなのも、『お前たち、大人なんだから自分で管理しろ』ですからね」

 快適な理由はもうひとつあった。チームには田淵幸一を筆頭に「超有名人」もいて、「こんなすごい人たちと野球するって、知らない世界でどうなるんだ......」と不安があったが、常に弟・雅之が一緒で助かった。周りと口を利かなくても、兄弟でチーム内の様子をうかがうことができた。キャンプ宿舎も、3人部屋ながら雅之とはずっと同室。そんな環境のなかでアマチュア時代よりも楽な調整を続けられた。

 とはいえ、チーム全体としては準備不足が続いていたも同然だった。フロリダ・キャンプは3月28日まで続き、西武は現地でメジャー球団と対戦したものの、日本でのオープン戦はなし。日程を組む時期に球団譲渡で混乱していた、という事情があり、他球団の生きた情報を得られないまま1979年の公式戦に突入した。

 すると、開幕12連敗(引き分け2つをはさむ)のプロ野球ワースト・タイ記録。そして、4月24日の南海(現・ソフトバンク)戦。先発した博久が好投してプロ初勝利を挙げ、新生西武に初勝利がもたらされた。

「打てると思ったら、そうでもない。守れなかったし、走れなかった。でも、なぜか僕の時だけ打線がけっこう頑張ってくれて、そんなにエラーが出なかった。キャッチャーは野村克也さんと組むことが多かったんだけど、あまり細かいことを言わないんです。インサイドいっぱいというんじゃなくて、大雑把なリードで、僕には投げやすかった。その点、根本さんも細かいことを言わない人で、連敗中も『さあ行こう、レッツゴー』だけでしたね、その『レッツゴー』がやけに心に残っているんだけど」

 プロ1年目、博久は34試合に登板して16勝10敗と好成績を挙げ、チーム勝ち頭になった。27歳のオールド・ルーキーが即戦力の期待にしっかり応え、新人王に選ばれた。当時は前期後期制のパ・リーグで前期は6位、後期は5位、通年では最下位に沈んだ西武だが、弟・雅之も39試合に登板して4勝5敗3セーブという成績。入団交渉における根本の言葉が、ものの見事に現実になった。

「2年目、僕が苦しみ始めた時、マウンドで野村さんに『しっかりせんかい!』と激励されてるんだけど、根本さんもマウンドに来たことあるんです。その時の、『おい、命まで取られやせんよ。好きに投げろ』って言葉が忘れられない。普段はあまり話さなかったけど、『お前たち、好きなようにやって大丈夫だから、オレが責任取るから』と言ってたのは覚えている。あと、『人間ってのはな、3時間、寝れば十分なんだ。それ以上、寝たら馬鹿になるから』っていうのが口癖で。そうは言ってもバス移動の時は寝てますから、布団に入ってるのが3時間だったのか」

 9勝14敗と負け越した2年目に続き、3年目の81年、博久は5勝13敗とさらに苦しんだ。その年のオフ、根本が管理部長となってフロント入りし、広岡達朗が監督に就任することを告げられた。

「根本さんから『いいか? 厳しいぞ。広岡は厳しいからな』って。それだけは言われました。実際、厳しい広岡さんだから優勝できたようなもので。根本さんが自分で連れてきた人だけど、やっぱり見る目がしっかりしてたんだと思います。ただ、僕自身は1年目から広岡野球だったら潰れちゃう可能性があったんだけど、それまで3年間、厳しくない根本野球だったのがよかったんですね」

 ただし、博久にとっての広岡は、厳しいどころか"救いの神"だった。右肩痛を訴えた博久に痛みの原因を解き明かし、投げ方の改良に向けて助言。指導されたとおりのフォームで投げると肩の痛みが消え、キレのあるボールが低めに決まるようになった。必然的に変化球も生かされた。

 そうして迎えた82年、博久はルーキーイヤー以来の2ケタ勝利となる10勝。リーグ優勝に貢献すると、中日との日本シリーズでも第1戦、4戦に先発。同年から4年連続で2ケタ勝利を挙げ、83年は対巨人、85年は対阪神の日本シリーズでも活躍した。しかし監督が森祇晶に交替した86年以降は成績が伸びなくなり、各年の勝ち星は5勝、8勝、6勝止まりだった。

「年齢的に35歳を過ぎて『どうなるのかなあ』って不安のほうが大きくて。それでもクビだとかいう話まではいってないんです。実際、89年は久しぶりに2ケタ(11)勝って、まだいけるかなと思ったんだけど......」

 弟・雅之が89年限りで現役を引退。80年から5年連続二桁勝利を挙げたが、故障の影響で85年以降は活躍できず。10年間で通算69勝51敗12セーブ、という成績を残した。翌90年、兄・博久も不振に陥り、15試合に登板して4勝7敗。勝ち星も投球回数も自己ワーストに終わると、スポーツ紙に<松沼引退>と出た。博久は慌てて根本のもとへ足を運んだ。

「こういう記事が出ちゃったんですけど」

「まだやるのか? まだやりたいのか?」

「いや、まだやりたいかどうかっていうより、新聞にこういうふうに出てるんですけど」

「まあまあ、森じゃあ、お前のことは『いらないな』って言うに決まってるから、やるなら、ダイエーを紹介する。ダイエーでやるか?」

「ダイエー......九州......」

「お前なあ、向こうへ行ったところで、やっても1年か2年だぞ。今ここで辞めるんだったら、テレビ局、ラジオ局を紹介するけど、どうする?」

 一瞬、現役続行を考えた博久だったが、体の状態を踏まえると、もう一度、2ケタ勝ちにいくイメージが湧かなかった。細々と続けるぐらいしかないなら、もう潮時だと思った時、「じゃあ、根本さん、すいません、お願いします」と発していた。12年間で通算112勝94敗1セーブという成績を残して現役を引退。ほどなくして、テレビ局とラジオ局での解説の仕事が決まった。

「根本さんはどこにでも紹介できるだけの人脈を持っていたんですよ、絶対。だから睡眠時間は3時間しか取れなかったんでしょう。だいたい、神出鬼没でしたからね。いつもいないな、と思えば、『なぜか広島にいた』とか、『何で今あそこにいる?』とか、言われてましたから」

 その人脈を頼りにした博久にとって、根本は不可欠の存在だった。今の球界においても、根本のような人間は必要とされるだろうか。

「必要じゃないですかね。そもそも僕は、根本さんじゃなかったら相談に行ってないです。根本さんなら何でも言える、という思いがあった。頼りになる、親父以上の存在──。とくに、実績があって引退間近の選手にとって、その後の行き先を示してくれる人。僕は絶対に必要だと思います」

つづく

(=敬称略)