アニメージュ9月号に掲載されている、『天気の子』の新海誠監督のインタビュー。公開直前のタイミングで行われたインタビューで新海監督は『天気の子』と『
に関するニュース">君の名は。』の違いや、自身の志向や作風の変化などを語ってくれた。

恋愛が成就する物語ではなくて、二人が共に乗り越える物語
時代の変化と作品の変化

──前号の特集で、醍醐さんと森さんにお話をうかがいました。お二人ともキラキラしたまなざしで「新海監督は本当に優しくて、素敵な方です!」って言ってました(笑)。

新海 (前号のページを見ながら)そうですか(笑)。二人はね、なんか本当にキラキラしていますよね。


──二人のキラキラした存在感が、作中の主人公たちにも反映されていた気がします。

新海 そうですね。もちろん、二人がキャストに選ばれる前に物語としては完成していたし、Vコンテも出来ていたし。そこで描いている帆高の声、陽菜の声を、オーディションをして探していき、たどり着いたのがこの二人だったんですよね。今振り返ると、もうこの二人以外ではあり得なかったなって思うんですが、選んでいる時はすごく悩みました。ほかにも力のある方は何人かいらっしゃったし、最終的には二人のバランスと組み合わせが大事だと思ったので。
どういう二人なら相性がいいかなって確かめながらオーディションをしたので、醍醐くんには陽菜役の候補の七菜ちゃん以外の人ともやってもらったし、七菜ちゃんにはその逆をやってもらったし。そういう意味では、この二人になったことで映画中のセリフが変わった、物語が変わった、みたいなことはないんです。でも同時に、この二人がこの映画にくれた力というのは非常に大きいとは思います。アフレコの最中もまだ作画期間だったので、作画のスタッフも二人に会っていましたし。この二人の声を念頭におきながら、最後の作画の仕上げもしていたんじゃないかなと思います。

──キャラクターデザインは『君の名は。
』同様、田中(将賀)さんです。今回は主人公の二人をどんなキャラクターとして描きたいと、田中さんと話をされましたか?

新海 僕らも一緒に仕事をするようになって、わりと長いので。今回は、田中さんとそういう言葉のやりとりはしたかなぁ……。脚本会議の段階から田中さんにも一緒に参加してもらっていたので、脚本作業を進めながら陽菜や帆高、その他のキャラクターのスケッチも出してもらっていたんです。それに対して、僕からあまりオーダーはしなかったです。そういう意味では、脚本を読んだ田中さんの中から、生まれてきたキャラクターだったと言えますね。
ただ、僕が最初に書いた企画書があって、そこに帆高と陽菜の何となくのイメージは描かれてはいたので、その雰囲気が、ベースにあったとは思います。
 企画書の表紙に僕が描いた絵は、映画のポスタービジュアルにとても近い絵でした。ビルの屋上で、帆高と陽菜が空を見ているという絵で、帆高はTシャツにジーンズで黒髪……まあ、普通の子ですけど(笑)。陽菜はパーカーでショートパンツ。そのイメージは最初に描いたイラストの段階からあって、そのイラストの気分を田中さんが上手く具体化してくださったという面もあるかと思います。でも、あまり言葉にしてのやりとりはしなかったですね。


──帆高と陽菜は、とても「元気」な主人公という印象が強かったです。何となく新海監督が描く主人公が、作品ごとにだんだん元気になっている気がするのですが。

新海 だんだん元気になっているかぁ……そうかもしれないですね(笑)。僕は常に自分の見たいものを──自分が最初の観客ですから──作っているし、とはいえ、自分だけが見たいものを作っても仕方がないので、「今、みんなはこういうものを見たいんじゃないかな」って自分なりに感じたものを作っているんですよね。そういう意味で言うと、30代に作っていた初期の作品の頃、あの時の自分が見たかったのは、どちらかというと内省的な主人公だったし、少なくとも僕の周りにいるお客さんたちが見たいのは、そういう方向じゃないかという気持ちがあったと思います。
 それが、そうだな……2010年代に少しずつ変わってきたという感覚があります。
僕だけが変わったんじゃなくて、周囲の観客も変わってきた気がしますね。あとは時代。たとえば『秒速5センチメートル』のようなものを作っていた頃、日本はもう少し安定していたと思うんですよね。何より東日本震災が起きる前でしたし、今ほど気候変動というのも実感するほどではなかったですし。経済状況はなんとなく緩やかに落ちていっているけど、このまま日常がずっと続くんだろうなっていう気分を、多くの人が共有していたのが『秒速~』を作っていた頃でした。だからその頃の僕は、日常の些細な出来事に意味を見出すような物語がいいんじゃないか、と。電車が遅れてハラハラするとか、コンビニに入ってどういう気分になるとか、そういうことこそアニメーションの中で描きたいと思っていたんです。
 でも、その後大きな出来事がいくつもあって。特に東日本震災はやはりひとつ、大きな切っ掛けだったと思いますが、自分の中身を見つめるというフェーズが一旦終わって。僕自身が見たいものや描きたいことも、自分の外のこと、自分の隣に誰がいるのかということに、だんだん変わってきたという気はします。

──それもあって、主人公も外向きになってきたというか。

新海 はい、ちょっと元気に(笑)。『言の葉の庭』くらいから明快に変わってきたような気がします。あれは2013年ですから、やはり震災の後ですよね。自分の内側を見るよりは、外側を見るキャラクターを描こうというような、変化はあったと思います。

──これまでの新海作品は、一貫して「距離」が大きなテーマだったと思います。どうにも縮まらない距離(時間的な、空間的な、社会状況的な)をめぐる切なさと、その感情に寄り添うようなストーリー。でも『君の名は。』は「その距離が埋まる」という予感を感じさせる結末でした。そして『天気の子』は、そこからさらに1歩進んで、主人公の二人の距離がさらに近づく結末だったと言えますよね。

新海 ただ、それで言うと『君の名は。』は、二人の距離がほぼゼロになる話なんですよね。だって、お互いがお互いになってしまうわけだから(笑)。でも、〝同一人物〟になってしまうからこそ、直接対面することは決してできない。無限大に近いと同時に無限大に遠い二人の物語で、実は僕自身、「距離」というモチーフで描きたいものは『君の名は。』で描ききれた気がするんです。ですから今回の『天気の子』では、二人の距離感から生まれるドラマのようなものは、もうほとんど意識もしていなかったですね。
 『君の名は。』は究極を言ってしまえば、「会えるか、会えないか」の話だったわけですよね。観客の興味も最後までそこで引っ張ったわけです。二人ははたして会えるのだろうか? と。でも、今回は二人が会えるか会えないかで観客がハラハラする物語ではないと思います。実は、恋愛を描いたつもりもそれほどなくて。もちろん「告白するんだ」とか思春期ならではのドキドキはありますけれど、帆高と陽菜の二人はどちらかというと恋人というより同志のような存在じゃないかっていう気はしますね。同じ困難を一緒に乗り切った同志のような関係。

──緒に世界に立ち向かっていく仲間。

新海 そうですね、はい。「Weathering With You」という英題が意味するのも、まさにそれで。「Weathering =ウェザリング」ってプラモデルの汚し塗装を指す言葉でもありますが、つまり「風化する」みたいな意味です。同時に「乗り越える」という意味があるそうで。それもやは「Weather =気候・天気」という単語から連想されることでしょう。「Weathering With You」は「君と一緒に乗り越える」というタイトルですから、つまり二人の恋愛が成就する物語ではなくて、二人が共に大きな現象を乗り越える物語なんだと思います。

世界と個人と社会を足元の歴史がつなぐ

──もうひとつ、映画を観ていて、諸星大二郎さんのマンガを想起しました。それは何か、意識していたことがあるのでしょうか?

新海 ああ……なるほど。ただ実際、僕は諸星さんのマンガってほぼ読んだことがなくて。諸星さんと通ずるテイストで言うなら、僕はむしろ星野之宣さんですね。星野さんの作品は大好きで何冊も読んでいます。それと、『海獣の子供』の五十嵐大介さんも好きです。風土や民俗学とSF的な想像力がミックスされた物語。「SF民俗伝奇物」みたいな感じですね。諸星さんもそういう作風だと思いますが、星野さんもそうだし、五十嵐さんもそうで。僕たちが住んでいる風土のかたちを少し教えてくれるような作品が、そもそも好きなんですよ。

──『君の名は。』もそうでしたよね。我々の住んでいる現実に限りなく近いけれど、不思議なこともちゃんと起きている世界。もちろん新海監督作品には以前からSF的な要素はありましたが、大きなエンタテイメントに向かおうとする時に、そういう方向により強く舵を切ったのはなぜでしょうか?

新海 僕自身そんなに器用ではなく、いろんなジャンルを自在に操れるタイプの作家ではないので。自分の水源がどこにあるのかと考えて、ある時期から自覚的になったのは、「自分の足元じゃないか」ということです。自分の生まれて育ってきた場所に対する感覚、もっと言えば日本的なもの……といっても「国家制度」としての日本ではなくて、もう少し風土のようなもの……たとえば伝承のようなもの、日本昔話のようなもの。日本昔話のような物語って、なんとなく実感としてしっくりくるんですよ。
 「おむすびころりん」という話がありますよね。おにぎりが転がって穴に落ちちゃって、その穴の中にまだ知らないネズミの国がある。そんな世界が、西洋的なドワーフやトロールがいるような世界、剣と魔法の世界よりも、僕には体感として何だかわかるんですよ。地下のネズミの国だったらあるような気がする。おにぎりがそこに導いてくれそうな気がする。あるいは、鳥居をくぐれば何かがありそうな気がする。今はそんな、自分が実感としてわかるその世界で物語を描きたいという気持ちがあるし、ある時点からはっきり、物語を汲み取ってくる場所もそういうところに求めるようになりましたね。

──実は、そういう「現実だけど不思議なことが起きている」大きな世界を、新海監督はイメージされているのではないか? と感じたのですが。ある種のクロスオーバーといいますか……。

新海 ああ、『マーベル・ユニバース』みたいな? いや、そこまでではないです(笑)。ただ『君の名は。』も今回の『天気の子』も、少しだけ先の時代の東京を舞台にしているという一応の時代設定は共通だし、『天気の子』を作りながらも「そういえば瀧と三葉は今頃、何をしているのかな」とか想像したりはしていました。

──伝奇的・風土的世界とボーイ・ミーツ・ガールのドラマのバランスの取り方が絶妙でした。この組み合わせ方が、これから新海監督の作家性の軸になるのかも? とも思ったりもしました。

新海 どうでしょうね、まだ次作のことは完全に白紙で、次もボーイ・ミーツ・ガールをやるのかどうかも全くわからないです(笑)。ただ、たとえば今回、東京のいろいろな場所をロケハンして、その場所の地理的な成り立ちみたいなものも調べて作ったりしたのですが、年を取ってくると自分の足元がどうなっているのか気になってくるというか(笑)。若い頃は「歴史なんか別に関係ないや」と思っていたけれど、多少そちらに目が向いてきてしまいます。別に「国家」とか「国粋主義」的なものに興味はないですが、お米を食べて幸せとか、神社があるとなんとなくお参りしてしまうとか、そういう感覚は多分、この国に生まれた人の多くが否応なしに共有していることだと思うので。そこをもう少し掘っていきたいという気持ちはありますね。

──そういった歴史的な背景や、神秘的な要素も含めた世界の成り立ちのような大きい話と、男の子と女の子の個人的なストーリー。その構図はかつて「セカイ系」とも呼ばれました。でも『天気の子』は明らかに、セカイ系とは似て非なる物語を語っていますよね。

新海 そうですね。セカイ系って定義が曖昧なところもありますけど、一般的には「個人と世界が直接つながって、社会が存在しない」という言われ方を、かつてよくしていたと思います。そういう意味で今回の『天気の子』はある種、典型的なセカイ系のようにも見えるかもしれない。でも今回は、明快に社会がある物語だと思うんですよ。帆高が社会から逸脱していく話、彼が社会のレールから少しずつ外れていってしまう話です。逆に言えば、それは自分たちが生きているベースの社会がなければ描けないことですから。
 2000年代初頭にセカイ系的な想像力があったのだとしたら、今は少しかたちが変わってきましたよね。その意味で『天気の子』は、かつて呼ばれていたセカイ系ではないとは思うけれど、でもあの時、僕たちが描こうとしていたことの最新版としての映画にもなっているとは思います。

──帆高と陽菜はクライマックスで、「世界」と「自分たち」の狭間である選択をします。でも、その選択は「社会」という現実のなかでなされるということが、物語のなかでしっかりと描かれてて。だからこそ『天気の子』のストーリーやその結末は、様々な反応を呼び起こすのだろうなと思います。

新海 そうですね。あの結末をポジティブな空気で受け取ってもらえるなら嬉しいですが、同時に、やっぱり「許せない」という人も出てくると思いますし。この映画を観客がどういう受け取り方をするのか。そここそが見たくて作った映画でもあります。

──インタビュー前半でもおっしゃっていましたが、批判を含め多様な意見が出るであろうことは覚悟しているし、それを楽しみにしている、と。

新海 そのために作ったんだ、という気持ちはありますね。だから、スルーされて何の意見も出てこないのが一番こたえるので(笑)、たくさんの人に観てもらえるといいなと思っています。

(C)2019「天気の子」製作委員会