歴代総理の胆力「大隈重信」(1)まったくの“ダメ総理”を露呈

歴代総理の胆力「大隈重信」(1)まったくの“ダメ総理”を露呈

「無邪気の国民は、政治上の思想に乏しい。指導者がこれを教育して立憲的国民をつくっていかなければ、真の立憲政治は行われない」という立憲政治に対する言葉は、大隈重信が第一次内閣から退陣して9年後の、明治40(1907)年1月、憲政本党の総理を辞任した際に表明した一節である。この言葉の中には、国民の政治への意識改革を願う情熱がほとばしる一方で、大隈の自負と自信、頑固な性格を垣間見ることができる。

 大隈の政治家としての位置づけは、立憲政治の確立を窺う日本初の「政党内閣」を誕生させた総理大臣であった一方、在野時代に「学問の独立」を目指して早稲田大学の前身・東京専門学校を創立。のちに早稲田大学総長として名を高めたことに尽きると言っていいようである。

 大隈は「葉隠(はがくれ)」で知られる佐賀藩の藩校である弘道館で蘭学、長崎への遊学で英語と英学を学び、維新後の長崎では薩摩の松方正義らと外交事務にたずさわって外交感覚も磨いた。これが、中央政府への足がかりとなっている。

 ちなみに中央政府では、大蔵卿として財政にも取り組んでいる。対外的に日本を近代国家として認知させるには、それまでの藩ごとのバラバラの通貨ではダメと、単位通貨を現在の「円」に統一させるという貨幣制度の整備を行ったのも大隈だった。

 一方、総理大臣になるまでの大隈は、それ以前の内閣で外務大臣として重用されている。第一次伊藤博文内閣、黒田清隆内閣、第二次松方正義内閣がそれだったが、第一次伊藤内閣では「不平等条約」の改正に取り組んだ。だが、外国人法官の任用問題などで非難の集中攻撃を浴びた。結果、爆弾テロで右脚を失うことになる。犯人の来島恒喜(くるしまつねき)は、事件後、自害したが、大隈はここで来島を責めず、世間には「なかなかの男」とも印象づけたのだった。


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