死のかたちから見えてくる人間と社会の実相。過去百年の日本と世界を、さまざまな命の終わり方を通して浮き彫りにする。

第8回は1986(昭和61)年。ユッコシンドロームとその直前にもあったアイドルの自殺、ブームを遺して去った演出家について語る。







■1986(昭和61)年岡田有希子(享年18)遠藤康子(享年17)増村保造(享年62)



 1986(昭和61)年は、ユッコシンドロームの年だ。4月8日に歌手・岡田有希子が自殺したあと、青少年を中心にその影響と見られる自殺が相次ぎ、メディアがその現象をそう命名した。



 それゆえ、彼女の死は禁忌(タブー)として扱われることに。翌月に予定されていた新曲の発売は中止となり、十数年にわたって、その歌も映像もテレビやラジオから流れなかった。

死後35年が過ぎた今も、メディアで彼女を語ることはどこか憚られる空気が感じられる。



 ただ、自殺はひとりで思いつけるものではない。ほとんどの場合、死にたい気持ちも死に方も、先に自殺した人たちからなんらかの影響を受けているものだ。



 じつはこの年、彼女が亡くなるまでにも、青少年の自殺が目立っていた。彼女自身もそういう空気に影響された可能性がある。しかも、そのなかには彼女と同業の女性が遂げた自殺も含まれていたのだ。



 その女性とは、前年のドラマ「スケバン刑事」(フジテレビ系)の敵役などで注目され、5月に歌手としてもデビューするはずだった遠藤康子だ。





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 遠藤は3月30日、都内墨田区の7階立てビルの屋上から飛び降り自殺した。その9日後、岡田がやはり都内新宿区の7階建てビルの屋上から飛び降り自殺。もっとも、ここでいう「影響」とはもっぱら、死に方より、死にたい気持ちのほうだ。岡田は中2のときにも実家でガス自殺未遂のような行動を見せていた。そういうタイプの人が、1歳下の、同じ「アイドル」と呼ばれる立場の少女の死に、心理的影響をまったく受けなかったとは考えにくい。

死の直後に報じられたような、恋愛関係の悩みを抱えていたとしたらなおさらだ。



 なお、遠藤には芸能界に「親友」がいた。前年にドラマ「毎度おさわがせします」(TBS系)でブレイクを果たし、歌手デビューもしてトップアイドルになっていた中山美穂だ。



 エッセイ集「なぜならやさしいまちがあったから」(2009年)によれば、中山は4月1日に、コンサート先の名古屋へ移動中、マネージャーから親友の訃報を聞かされた。「数日前に話した時になにも死を感じてあげることができず、自分を責めました」という彼女は、翌日、テレビのニュースでもその訃報に接し「何時間も動けないまま」になりながら、こんなことを考えたという。



「曲がったことが大嫌いな性格で、当時の仕事の常識に大いに不満を持っていたのではないかと、私なりに想像しました。

お付き合いしている男性と別れなさいと言われたのではないだろうか? と幼い頭でそう解釈したのです」



 この説についてはメディアでも報じられたが、遠藤の母親や事務所関係者は否定。そのため、断定的な書き方を避けたのだろう。



 中山はこの2年後、自ら作詞作曲した「Long Distance To The Heaven」で彼女を追悼した。エッセイ集「P.S. I LOVE YOU」(1991年)では、この作品に触れつつ、こんな思いを綴っている。



「今、私が歌ったり芝居していられるのは、彼女とのお別れがあったから。お別れした彼女のぶんまで、がんばってみせるという約束をしたから。

彼女のぶんまで、素敵な女性になろうと思っているから」



 実際、前出の「なぜならやさしいまちがあったから」には、彼女の分まで「誰にも止めることを許さない自由な恋愛をしようと思った。(略)誰にも止めることができない自由な魂で結婚をしました」とも書かれている。遠藤の死は、中山の生き方に公私両面で大きな影響を与えたのだ。











 一方、自殺がもたらした影響という意味で、社会現象にまでなった岡田のそれは計り知れない。そして、禁忌的な空気はいくつもの「怪談」を生み出した。生放送の歌番組に死んだはずの彼女が映っていた、というのもそのひとつだ。



 さらに、偶然とは恐ろしいもので、デビュー直前に出版された「実録まんが 岡田有希子」(学研)には「有希ちゃんのハッスル24時間」という企画があり「午前6:00」から「午後9:30」までの彼女の一日が文章と写真で紹介されている。たとえば、



「午後0:15 事務所は、新宿区四谷の大通りに面した7階建てのビルです。制服姿で、一人歩く有希子に、まだ、ふり向く人はいません」



 という文章には、後ろに全景が写り込んだビルを指差し、ニッコリ微笑む彼女の写真という具合だ。じつはこの「午後0:15」というのは2年余りのち、このビルからまさに飛び降りた時刻だったりする。



 ところで、禁忌扱いされればされるほど、筆者のように彼女について語りたい人たちもいる。さまざまな証言が飛び交うなか、辻褄が合わないものが一部で広まり、中傷される人も出て来て気の毒にも感じる。



 そういえば、堀ちえみが86年10月にリリースした「素敵な休日」は岡田が歌う予定だったという噂が流れ、作曲者の尾崎亜美が否定したりもした。82年デビューの堀と84年デビューの岡田はレコード会社もプロデューサーも同じで、いわば同門の関係。作家陣などもかなり重なっている。



 それゆえ、堀は後輩の自殺に大きなショックを受けたと聞いているし、その1年後、二十歳の若さでいったん芸能界を引退する決断をしたことにもなんらかの影響を及ぼしたのではと考えている。







 さて、堀といえば、女優としての代表作「スチュワーデス物語」(TBS系)を思い出す人も多いだろう。83年10月から半年間放送され「ドジでのろまなカメ」というヒロインのキャラを象徴する台詞が流行語になるなどした。



 制作は、大映テレビ。波瀾万丈の展開と大げさな芝居といった特徴は、70年代の「赤い」シリーズでも発揮されたお家芸だが、この作品はそれがシリアスとコミカルが混在する不思議な世界として面白がられた。これを機に、同傾向の作品を量産していき「スクール☆ウォーズ」(TBS系)や「ヤヌスの鏡」(フジテレビ系)といったドラマがヒット。研究本が出版されるほどのブームが訪れる。



 そんなブームを先導した増村保造が、この年の11月に亡くなった。脳内出血による62歳での死だ。



 増村は50~60年代の映画黄金期に、監督として脚本家として大映を支えたひとり。黒沢明や小津安二郎とも違う独自の境地を築いた。勝新太郎や若尾文子らと組んだほか、東大法学部で同期だった作家・三島由紀夫の初主演映画でもメガホンをとっている。



 その作風は、イタリア映画の流れを汲む、濃密で激しいもの。自我をむき出しにした登場人物が、生きたいように生きようとする世界を好んで描いた。映画が斜陽化し、大映が大映テレビになっても、その作風は変わらず、前出の「赤い」シリーズなどで活かされることに。そして「スチュワーデス物語」へとつながるわけだ。



 その演出スタイルについて、ヒロインの相手役の「教官」を演じた風間杜夫は「若干の戸惑いがあった」と振り返っている。



「その人物は今、怒っているのか、強く愛しているのか、悲しいのか、嬉しいのか、悔しいのか、曖昧なニュアンスは求められないと。(略)それと、くっきりはっきり大きな声で明瞭に台詞を言う」



 それゆえ、堀も感情をさらけだす体当たりの演技や低音の太い発声をするよう指導された。舞台もやっていた風間はともかく、アイドルの彼女にはその姿がぎこちなく映ったが、結果としてそこも作品の訴求力となったのだ。いわば、大真面目を笑うという80年代の空気にハマったのである。









 そう、80年代とはそういう時代だった。サブカルチャーがもてはやされ、オリジナルよりもパロディが喜ばれるような時代。シリアスなのにコミカルというギャップが面白がられた大映テレビドラマのブームも、その空気があればこそである。



 そういう面白がられ方について、増村がどう感じていたかはわからない。彼はただ大真面目に作っていただけのようにも思われるからだ。



 なお「スチュワーデス物語」を生んだTBSの火曜8時枠は、大映テレビと東宝が制作を担当していた。86年の2~6月には、大映テレビによる「遊びじゃないのよ、この恋は」が放送され、井森美幸が主演。増村にとっては、これが最後の仕事となった。



 そして「遊びじゃないのよ、この恋は」の前、85年11~86年1月に放送されたのが「禁じられたマリコ」である。これは岡田有希子の最初で最後の主演連ドラ。超能力を持ってしまった少女の悲劇を大真面目に描いたが、東宝制作なので笑われることはなかった。



 それにしても、大真面目を笑われた堀と笑われなかった岡田という構図は両者のその後も象徴している。ガンで舌の半分以上を切除しながら、テレビに出て歌うような堀の生き方は、大真面目を笑われる覚悟もないとできない。



 一方、デビュー前もそのあとも優等生キャラだった岡田には笑われること自体に耐えられないような雰囲気があった。そもそも、自殺という死に方は大真面目でないとできない。そして、それは大真面目を笑われないための唯一の手段のようにも思われるのだ。



(宝泉薫 作家・芸能評論家)