へうげもの・古田織部切腹の余波

へうげもの・古田織部切腹の余波
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 今から406年前の慶長20年6月11日(現在の暦で1615年7月6日)、千利休亡き後の茶湯第一人者とされた古田織部重然(ふるた・おりべ・しげなり)が、大坂の陣での豊臣家への内通の嫌疑で切腹させられました。



 漫画「へうげもの」で脚光を浴びた織部。織田信長が摂津の経略にあたって「摂州平均の功、ひとえに左助(左介、織部の通称)が計らいにあり」と期待したほどの器量の持ち主でした。



 その織部が罪を問われて死ぬ時、非常に動揺した大名が、この信長と織部のエピソードを記録した『中川氏年譜』の中川家です。



 初代の中川清秀は織部を取次役として信長に仕えたため、ふたりの関係は非常に深く、織部を茶の湯の道にのめりこませたのが清秀なら、清秀が賤ヶ岳の戦いで戦死したあとの中川家を後見したのは織部と、切っても切れないほどの仲でした。



 織部事件直後、同書はこう記します。



「中川左馬允京都まで御供の処、祖父古田織部正重勝(然)今度大坂内通の御咎有り。親類たるに依って公儀より京都に御差止」。



 中川左馬允とは中川家家老の古田左馬允重直の事で、彼は重続(織部の義弟で娘婿)の実子で重則(重続の弟)の養子です。



 重続が中川家の家老となったあと、それを継いでいました。



 その重直が、織部の孫という事で幕府から身柄を拘束されたわけです。



 結果、重直は隠居、その子の竹松に家督相続というお達示が出ますが、当時竹松はわずか4歳。



 その幼児に「老職仰せ付けらる」と家老職を務めさせるというのですから、もう中川家の都合などは完全無視です。



 この御仕置きに震え上がった中川家は、その直後に幕府からの旧豊臣方の牢人の詮議命令に神経質に反応し、



「御法度相背く者こそあらば、妻子まで成敗に相成るべき旨(中略)血判の誓紙を差出」と、領内の小百姓に至るまで誓紙血判させて牢人検挙に尽くすよう厳命しています。



 その姿勢が評価されたか、中川家は豊後岡藩主として幕末まで生き残り、古田重直の子孫もその家老として代々続いたのでした。

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