森羅万象をよく観察し、深く思考する。新しい気づきを得たとき、日々の生活はより面白くなる――。
第31回 知恵は知識ではない
【不要になった記憶力】
前回は「思いつく」ことの大切さを書いた。思いつくことは、思い出すことではない。「思い出す」とは、一度インプットした情報をアウトプットすること。学校のテストのほとんどがこれだった。つまり、記憶(頭に入れたもの)を、再生する(そのまま出す)行為である。そしてこれは、コンピュータが最も得意とする作業であることはいうまでもない。少し昔には、頭の良い人のことを「機械のようだ」と称賛したくらいだ。
コンピュータは、誰もが使えるツールになり、現にほとんどの人が片手にそれを持っている。
「思い出す」ためには覚えないといけなかったが、もうインプットさえ不要になった。コンピュータが勝手に勉強してくれるから、人間が覚えようとしなくても情報が出てくる。勉強しなくても良いなんて、こんな楽なことはない。力仕事をしなくても良い時代になったのと同様に、人間の頭脳も、働かせる必要がない時代になった。
社会では、ものを知らない、つまり知識がない人間を馬鹿にする風潮がある。馬鹿とは無知だ、と認識されている。だから、人を馬鹿にしたいとき、「こんなことも知らないのか」と罵った。今でも、この認識は根強く、議論で相手を攻撃するときにも、知識不足を非難したり、間違った知識を持っていることを指摘する。
このような「知っている」能力は、現代ではほぼ無価値になりつつあることに、まだ気づいていないのかもしれない。知らないのではなく、気づいていないのである。
記憶を再生する作業では、精確さが問題になる。
一方で、「思いつく」能力は、訓練する方法が確立されていない。どのように教育すれば良いのかも曖昧なままで、稀に現れる天才を待つしかなかった。
記憶と再生の能力(記憶力)は、現代ではほぼ不要となり、せいぜいクイズ番組で人気者になれる程度まで価値が下落した。AIの普及で恐れ慄いているのは、このような訓練で「賢さ」を鍛錬してきた人たちだろう。
【頭は知識で肥満になる】
その記憶力も、実は方法を教えてもらうようなことはなかったといえる。勉強というのは、記憶力を育むというよりは、ひたすらインプットを繰り返すだけだった。いわゆる「詰め込み」教育といわれる所以である。沢山詰め込めば、忘れてしまうものはあっても、記憶に残るものは確実に増えるはずだ、という信念で行われていた。
一方では、発想や思いつきを体感できる数学は、この教育からは早期に外されてしまい、日本特有の「文系」という言い訳によって、詰め込んだ量を測るだけの試験に通れば高学歴をゲットできる社会が長く続いている。
さて、僕はこれが悪いといっているのではない。このようにしたい人たちが多かったからこうなった、というだけであり、皆さんの思ったとおりになりましたね、という感想しか抱いていない。「このままでは、将来こうなりますよ」と自分の意見はたまに述べてきたし、そのとおりの現状だといえるので、「なるようになる」ことが証明された。
社会は豊かになり、経済的にも発展したので、全然悪くない。幸運にも、わりと良い社会になったと思っている。
ただ、さらなる発展をもし期待するのなら、やはり誰かが「発想」しなければならないだろう。それが日本以外から生じれば、日本の経済はジリ貧になっていく、というだけの話で、僕的にはなにも困った状況ではない。世界の誰かが新しいことを思いつけば、それは世界中に広がり、大勢の幸せに寄与するだろう。
繰返しになるけれど、「発想」に必要なものは、「無関係」な思考であり、別の言葉にすると、それは「無知」な状態ともいえる。「知らない」ことを蔑むような人たちには、ここが理解できない。知らないのではなく、理解していない。新しい発想は、「知らない」人から生まれる可能性が高い。
知識を詰め込んだ頭脳は、肥満した肉体のような鈍重さゆえに不活性に陥りやすい。知らないこと、記憶が少ないことが、むしろ身軽な思考を促す。「知恵」とは、自由な思考力のことであり、そのために知るべきものは、基礎的な公理、法則、原理のみである。具体的で詳細なデータではない。
「もしかして、これが?」という思いつきを、日常的に体感する「知恵」のある人が、人類の未来を支えることは、まずまちがいない。
【大人も遊ぶことが仕事になる】
たとえば、原子力発電の議論をするときに必要なのは、核分裂の原理、発電の仕組み、そして放射線とは何か、その測定方法、という物理的な理解である。そういった理解なしに議論は難しい。感染症の問題を議論したいのなら、ウィルスやワクチンの原理を理解していなければならない。
未来がどうなるのかは、確率的にしか評価できない。数字を比較して判断するしかない。「わからないけれど、だいたい予測できる」ものである。「絶対にこうなる」と断言はできない。方向性を決める議論とは、数字の比較なのである。
具体的で詳しい情報を覚えていることは、これからの時代では価値がない。必要なのは、それらを原理原則に従って吟味し、展開し、計算すること。ここまでは、コンピュータが担当できる。そして、人間はその結果を見て、なにかを思いつく役なのである。
発想が生まれると、新しいものが作られ、それをさらにシェイプアップして、しばらくは生産が続けられ、経済が回る。しかし、いずれは古くなる。別のどこかで生まれたより新しいものに代わられる運命にある。経済を長く回し続けたいのなら、ときどき発想して新しさを思いつく才能が必要だ。
そういう人材が求められるようになる。そして、それができない人たちは、仕事をしなくても良いグループになるだろう。何をすれば良いのか、というと、遊ぶことが仕事になる。
「子供は、遊ぶことが仕事だ」といい続けてきた大人は皆、自分たちにそれをいい聞かせるしかない。そうはなりたくないという人は、知識を詰め込む勉強をやめて、毎日なにかを作ることをおすすめする。
詩を書く、絵を描く、作曲する、ガーデニング、DIY、機械の整備、家具の修理、ペンキ塗り、部屋の模様替え、野菜作り、ペットの世話、ゲーム、ギャンブル、観劇、芸術鑑賞、旅行、投資、恋愛、子育て、介護、ボランティア、エトセトラ。まだまだ沢山の「仕事」が残されている。儲からないものばかりだが、これからは趣味や遊びが生き甲斐になる。そしてもしかしたら、子供のように遊び尽くした人たちの中から、新しい発想ができる人材が育つかもしれない。
【強盗や選挙のニュースばかり】
日本のニュースを見ていると、最近は強盗か選挙の話題が目立つ。SNS絡みの犯罪が問題になっているけれど、電話が個人に普及したときには、電話絡みだったわけで、単に新たなコミュニケーションツールが広まっただけの話。いつの時代にも、金目当てで、金欲しさの人を使い、他者から金を巻き上げる犯罪は存在している。個人情報を漏らしているから狙われる。今すぐにSNSをやめれば、その人は10年後に多少安全な生活を手に入れるだろう。
選挙になると、今も街頭で大声を張り上げているのが滑稽。そして、どの党も語っていることは同じだ。クリーンな政治を、困っている人たちの声を聞く、生きやすい社会、子供たちの未来のために……と。悪口を除外すれば、対立しているようには全然見えない。僅かに食い違っていると思える具体的な意見はといえば、比較的小さなテーマでしかない。綺麗事しか発言しないから、こうなってしまう。
前者の問題は、警察の予算や人員を増やすこと。後者の問題は、選挙運動自体を禁止すること。そういった意見が何故出てこないのか、とずっと不思議に思っている。
日本人は、「お願い」することで良い社会が築けると考える。でも、その願いが届かない人たちが一定数いることは古来変わらない。お願いすれば遠慮してもらえる、との文化は素晴らしいけれど、これでは理想には到達しない。
とはいえ、僕は不満を持っていない。社会はまあまあだ。特に日本は今のところ戦争をしていないし、物価もまだ安い方だし、これでも治安は抜群に良いといえる。経済だって、ほどほどに回っているのでは?
文:森博嗣