|​道に迷ったおばあちゃんの霊 お盆ですね。
 お墓参りはすませましたか?
 暦の上でいえばお盆は7月の行事なのですが、やはり月遅れの8月15日のほうがお盆という気分がします。
旧暦で暮らしていた頃の民俗の記憶のためでしょうか。
 仏教が日本に伝わる以前から、夏は祖先の霊が帰ってくる時期と考えられていました。祖先の霊は子孫たちに歓待され、いっときの安らぎを得て霊界に戻っていきます。
 しかし、中には帰るところがない霊や、帰ってきても迎え入れてもらえない霊もいます。
 お寺ではそうした霊のための供養も行いますので、それに満足してあの世に帰ってくれればいいのですが…​

 お盆に際して家に精霊棚(しょうろうだな)を飾り、そこにキュウリやナスに割り箸の脚をつけたものを供える家もあるかと思います。これは馬や牛を表しており、家に帰ってくる祖先の霊の乗り物となると考えられてきました。

また、家の前で焚かれる迎え火は、祖先の霊が家を見つけるための目印だとされます。
 しかし、最近は集合住宅に住む人が増えたこともあって、迎え火を焚く家がすっかり減ってしまいました。このため道に迷う霊も出てきたようです。

 これは、横浜市内に住むとある女子大生の体験談です。

 その時(8月13日の午後6時過ぎだったそうです)、彼女は母親と夕食の準備をしているところで、野菜を刻みながら母親は、「昔は横浜あたりでも13日の夕方には迎え火を焚いたものよ」といった話をしていました。
 すると、固定電話が鳴り出したのです。

「今ごろ誰だろう?」と思いながら彼女が受話器を取ってみると、聞き覚えのある中年男性の声が「もしもし、こちら**駅前交番です」と語りかけてきました。

「あ、どうも、その節はお世話になりました」
 彼女がそう返事をすると、電話の向こうのおまわりさんはほほ笑んでいるのがわかるような口調で、
「ああ、**さんのお嬢さんだね。実は、お宅のおばあちゃんがまた迷ってしまってね。『家に帰る道がわからなくなった』と言って交番にやってきたんだよ。ご足労だけど、交番まで迎えに来てくれないかね?」
 と言うのです。

 彼女は「でも…」と言いかけましたが、考え直して「すぐに行きます」と答えました。

「どうしたの? どこから?」
 電話の様子が普通ではなかったからでしょう、母親が心配そうに声をかけてきました。彼女は微笑んで「駅前の交番からだった。おばあちゃんが『家への帰り方がわからなくなった』と言ってやって来たそうよ」と答えました。

 これを聞いた母親は「まさか」と言って絶句しました。おばあちゃん――彼女の母親からすれば義理の母――は前年の11月に亡くなっていたからです。
「だからなのよ」彼女は母親の手を握って言いました。
「おばあちゃん、お盆だから家に帰ろうとしたのよ。でも、うち迎え火焚いていないじゃない? それで家の場所がわからなくなっちゃったのよ。おばあちゃん、道に迷うの得意だったしね」

 

 彼女の祖母は晩年、散歩に出たまま帰れなくなることが何度かあり、そのたびに彼女が交番まで迎えに行ったのでした。おまわりさんもそのことを覚えていて、「また迷ってきた」と思って電話をしてきたようです。
「ともかく、交番まで行ってくる」
 そう言うと彼女はエプロンをはずして家を出ました。

 彼女の家から交番まで早足で15分ほどです。

彼女は道を急ぎながら、祖母を迎えに行った時のことを思い出していました。家中の人が心配して捜していたというのに、交番に迎えに行ってみると肝心の本人はのんきな顔でお茶をすすっていたりするのです。それを見ていると腹が立つやらおかしいやら。それも今となっては、懐かしい思い出です。

「こんばんは。**です。
祖母がお世話になりまして……」
 彼女がそう言って交番に入っていくと、顔見知りのおまわりさんがにこにこして立ち上がりました。
「ああ、すみませんねえ。おばあちゃん、また道を忘れちゃったらしいんですよ。――まずは本人かどうか確認していただいて……。あれ? おばあちゃん、どこ行った? トイレか?」
 おまわりさんは奥の席にいた同僚に声をかけました。しかし、彼女といくつも違わない年頃らしい同僚は、ぽかんとした顔でこう言いました。
「さっきまでそこに座っていましたよ。トイレじゃないっすよ。奥のドアは鍵かけたままですから。表に出たんじゃないすか?」
「バカ言え」彼女の前にいるおまわりさんはそう言いました。「表に出るには本官の前を通らにゃならんだろう? 居眠りしてても気づくぞ」
「じゃあ、どこへ……」

 2人のおまわりさんは交番の内外をくまなく捜しましたが、ついにおばあちゃんは見つかりませんでした。

 でも、彼女にはおばあちゃんがどこにいるのかわかっていました。交番に着いた時に、背中が少し重くなり、おばあちゃんの匂いがしたからです。
 彼女は「きっと帰り道を思い出したんだと思います」とおまわりさんたちに言い、釈然としない顔つきの2人を残して家に帰りました。

 

「どうだった?」
 家に戻った彼女を母親は心配そうな顔でそう言って迎えました。
「思った通りだった」
 そう言って彼女は仏壇の前に座りました。
 すると、肩がすっと軽くなるのが感じられました。

 彼女の家は狭いので精霊棚は設えていなかったのですが、仏壇の前にキュウリの馬とナスの牛、そしておばあちゃんの好物だったメレンゲクッキーが供えてありました。そのメレンゲクッキーの一つが、ころんと転げて粉々に砕けたのです。
 彼女はそれを見て、「ああ、おばあちゃん喜んでるな」と思いました。
 そして、心の中で「来年からちゃんと迎え火焚くからね」と誓ったのでした。