奈良盆地は西側からやってくる敵をはね返す力を持っていたのだ。
奈良盆地の西側の入口とその西側で頻繁に争乱が起きていたのは、奈良盆地の西側の隘路を手に入れた者が、天下を制すると信じられていたからだろう。
奈良盆地の西側には、朝鮮半島に続く海の道に通じていて、さらに、奈良盆地の東側は、人口密度の高い「東」がつながっていたのだ。流通の要が、大阪から奈良に続く道だった。
さて、西側からやってきた人たちが「東を仮想敵」 に見立てて都を置くのなら、山城(やましろ)(京都府南部)の平安京が最適だと思う。
理由は簡単なことで、近江方面から攻め寄せてきた敵を、狭隘(きょうあい)な「逢坂(おうさか)」(滋賀県大津市)で迎え撃つことができるからだ。
国土地理院・色別標高図を基に作成ここも東西日本を分断する因縁めいた土地で、国道一号(旧東海道)、名神高速、京阪電鉄が折り重なるように敷かれ、さらに逢坂山にはトンネルが掘られ、JR東海道線、 湖西(こせい)線、東海道新幹線が東西を結んでいる。
ここは、交通の要衝であり、また、自由な往来の交通を妨げる「関」でもあった。
実際平安時代になると、「三関(さんげん)」といえば、愛発(あらち)関がはずされ、逢坂関を指すようになったほどだ。平安京にとってもっとも重要な、防衛上の拠点である。
ちなみに、藤原氏が逢坂と京都盆地の中間に位置する「山科(やましな)」を重視した理由も、「防衛」「戦略」という視点から考えれば、理に叶っている。
平安京の東の「ツボ」をおさえた彼らの戦略眼には、舌を巻く。
竹村公太郎は、『日本史の謎は「地形」で解ける』(PHP文庫)の中で、この往来の様子を「頸動脈(けいどうみゃく)」とみなし、織田信長が比叡山の僧兵を恐れ延暦寺(えんりゃくじ)を焼き討ちにしてしまったのは、逢坂を比叡山の僧が守っていたから邪魔になったと指摘している。
それだけが理由ではないだろうが、これまでに無い指摘で興味深い。
また竹村公太郎は、叡山(えいざん)の僧兵は天皇の親衛隊で、彼らが壊滅したことによって、「日本文明では天皇の権威と武士の政治権力と宗教の棲(すみ)分けが確立した」というが、ヤマト建国時にすでに、天皇(ヤマトの王)は、祭司王だった。そしてこれも、ヤマト建国の大きな謎のひとつに挙げて良い。
ところで、平城京が捨てられ、長岡京(京都府向日(むこう)市、長岡京市、京都市にまたがる)、平安京が矢継ぎ早に造られた時代は、東北征討が本格化し、また泥沼化した時代でもあった。
その理由は、朝廷が東国を恐れていたことはたしかで、逢坂を城壁に、さらに東の琵琶湖と瀬田川を外濠に想定していたと思われる。
『地形で読み解く古代史』より