能登半島は奥が深い。
現在のと鉄道の北端にあたる穴水駅からはかつて同鉄道の能登線が分岐し、半島の東端に近い蛸島駅まで61.0キロの支線として奥能登の生活を支えてきた。元は国鉄であったがモータリゼーションの波に勝てず廃止候補となり、昭和63年(1988)からは第三セクターの「のと鉄道」として再出発したものの、残念ながら平成17年(2005)に廃止されている。日々新しい道路がこれでもかと新規開通して利便性を高めつつある自動車交通にローカル線が太刀打ちするのは非常に難しい。人口分布などからして、もし現代の欧州並みの鉄道近代化を施していれば乗客数も増えて生き残ったかもしれないが。
風光明媚な変化に富むルートなので廃線も魅力的だが、いかんせん61.0キロは長い。そこで私はレンタカーで車道をたどりつつ、駅とその周辺を「つまみ食い」することにした。藪こぎを厭わずあくまで全線の完歩を目指すような趣味なないので……。
輪島で借りたレンタカーで穴水駅に着くと、減少傾向が続く乗客数の推移と対照的にまだ新しい駅舎と立派な駅前広場に驚いた。取材が大相撲夏場所の前だったためか、穴水町出身の力士「遠藤関」を染め抜いた派手な幟が何本も翻っている。「石川県統計書」によれば平成8年(1996)に900人だった穴水駅の乗車数は平成27年(2015)現在135人にまで減っている。この間のさらなるモータリゼーションの進行もさることながら、平成13年(2001)の輪島方面、同17年の蛸島方面という相次ぐ廃止が大きく響いたに違いない。特に後者では廃止前年と翌年で359人から192人とほぼ半分近くまで減らしている。
のと鉄道能登線はおおむね国道249号に沿っている。現役時代の5万分の1地形図を傍らに置き、当たり前だが線路の載っていないカーナビの表示を比較しながら進む。しかし国道ばかり走っていては併走する廃線に出会えないので、適宜脇道へ入るのが肝要だ。中居駅手前の集落に入って行くと、すぐに橋桁だけ撤去した架道橋の跡が見つかった。この中居こそ遠藤関の出身地だそうだ。穴水~鵜川間は昭和34年(1959)の開業だから私の生年と同じ。コンクリートは私よりさらに長生きするはずなので、実にもったいないことである。
国道に戻って少し進めば中居駅で、ホーム上には待合室も残っている。防犯を考えて建物類はすぐ撤去されるのが普通だが、能登線ではこの先の区間でも多くの駅舎や待合室が残っていた。廃止から12年あまり、草刈りしてレールを敷けばすぐにでも復活できそうな雰囲気である。待合室を覗くとさすがに時計は止まっていて、その隣をツタが這い上がっていた。
比良(ひら)駅あたりから国道とは離れ、並行道路がなくなるので海沿いに出る。能登島との間に挟まれた七尾北湾は波静かで交通量も格段に少なく、ゆっくり走れるのはありがたい。藪の中で近づけない鹿波(かなみ)駅はスルーして海沿いの曽良(そら)という漁村を通る。芭蕉と「奥の細道」に同行した門人の名と同じだが、静かな小さな浦であった。
ほどなく甲(かぶと)駅で、現役時代は穴水駅を出て次の急行停車駅である。ブロック積みの駅舎が残っており、修繕すればまだ使えそうだ。待合室内は切符の自動販売機から観光ポスターまでそのままで、なぜか室内に掲げられっ放しの日の丸が寂しい。中の時刻表は「平成16年3月13日改正」とあり、もちろんこれが最後のダイヤ改正であった。金沢・津幡駅での連絡列車として記載してある上野発23時03分発の寝台特急「北陸」や同23時33分の急行「能登」が懐かしい。
続く「波の駅」をたどればドボドボ地名
このあたりは海沿いの集落を屈曲しながら結ぶ県道34号に沿ってたどるコースで、沖波(おきなみ)駅の海側の集落に「ドボドボ」という看板が突如現われたのには驚いた。何という珍地名かと驚いたが、そこが津波の一時避難場所という。ドンドンとかトドロキといった水音の地名(漢字を当ててあるのが多い)は全国に分布しているが、ドボドボは初めて見る。富山出身の人の話ではドボドボは「水浸し」というニュアンスらしい。
藪の侵入がこれまでで最も激しい前波(まえなみ)駅のホームに立って周囲の田んぼを見渡し、次は鵜川(うかわ)駅。漁港のある鵜川の集落からは少し離れていて、昭和31年(1956)までは鳳至(ふげし)郡鵜川町という自治体だった(その後は能都町を経て現在能登町)。ここは甲駅の次の急行停車駅で、目の前に今も「鵜川駅前住宅」という3階建てアパートもある。
国道249号、そして矢波(やなみ)へ山側を通ってきた国道249号と再会し、これを走るとほどなく矢波(やなみ)駅跡。道のすぐ山側にホームが残っている。ここからしばらくは海を俯瞰しながら走るので、きっと気持ちの良い車窓風景だったのだろう。私はついにこの線は乗り損ねてしまったので、今は想像するのみだ。波並(はなみ)駅の手前で思わず車を停めたのが三波(さんなみ)簡易郵便局。年季の入った下見板張りに瓦葺き、いかにも戦前の建物だが、日本郵政の広告に登場したこともあるという。道草を喰いながらの廃線旅行はこんな余録が嬉しい。
郵便局名はかつての自治体名をそのまま掲げていることが多いが、三波はかつての鳳至郡三波村で、矢波、波並、藤波と続く駅名の通り、波のつくこの3村が明治22年(1889)の町村制を機に合併したことに由来する。明治の大合併ではよくあるパターンである。今は三波という地名は存在せず、能登町矢波、能登町波並、能登町藤波という。波並駅のホームは海を間近に見下ろす所で、駅名標は廃止後に新しく塗り替えられ、「石川県鳳至郡三波村」という旧所在地名が記されている。草刈りもしてあった。それにしても「波」のつく駅が目立つが、数えてみると能登線の全線で鹿波、沖波、前波、矢波、波並、藤波、松波と合計7つもあった。
ほどなく藤波駅だがお昼時なのでスルーして宇出津(うしつ)の町へ入る。ここは現在の能登町役場もある一帯の中心地で、かつては七尾への沿岸航路や佐渡を結ぶ船便も発着する交通の要であり、漁港としても繁栄を誇った町である。
線路が新しいこともあり、内陸側をいくつもの短いトンネルで抜けているので食後は早々に羽根駅に向かって走った。羽根駅は海から少しばかり山側へ坂道を上ったところで、かつての「駅前広場」に向かって伸び放題の枝の陰に「明日へ亜走る のと鉄道」という看板があった。のと鉄道協力会・のと鉄道利用促進協議会・能都町が設置したものだが、存続はかなわず、今は空しく佇立している。
閉鎖された待合室の中には止まった時計とともに感謝状が2枚掲げられていたが、そのうち昭和43年(1968)4月14日付のものは、国鉄金沢鉄道管理局長から地元の羽根区長ほか一同に宛てたもの。「今冬の雪害に際しましては終始積極的に駅前広場等の除雪を行なわれ鉄道輸送の確保に多大の貢献をされました この御支援に対し心から感謝の意を表します」とある。まだ自家用車がそれほど普及していない当時、地区の住民がボランティアで駅前の除雪に取り組んだのだろう。大人の数だけ自動車が普及したといっても過言ではない現在とは世界が違う。
![LDK (エル・ディー・ケー) 2024年10月号 [雑誌]](https://m.media-amazon.com/images/I/61-wQA+eveL._SL500_.jpg)
![Casa BRUTUS(カーサ ブルータス) 2024年 10月号[日本のBESTデザインホテル100]](https://m.media-amazon.com/images/I/31FtYkIUPEL._SL500_.jpg)
![LDK (エル・ディー・ケー) 2024年9月号 [雑誌]](https://m.media-amazon.com/images/I/51W6QgeZ2hL._SL500_.jpg)




![シービージャパン(CB JAPAN) ステンレスマグ [真空断熱 2層構造 460ml] + インナーカップ [食洗機対応 380ml] セット モカ ゴーマグカップセットM コンビニ コーヒーカップ CAFE GOMUG](https://m.media-amazon.com/images/I/31sVcj+-HCL._SL500_.jpg)



