耳がよく聡明で、法隆寺を築き仏教を広め、推古女帝の摂政として活躍した人物──。聖徳太子に関する一般的なイメージはすべて『日本書紀』の記述が元になっている。
『日本書紀』が書かれた過程を知れば、その真実の姿が見えてくる! 聖徳太子の実像に迫る連載。
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平等寺 聖徳太子石像◆20歳前後の聖徳太子には経験と実績が足りなかった!

 崇峻5年(592)11月、崇峻天皇は蘇我馬子の命をうけた刺客・東漢駒によって殺害された。この王権の未曾有の危機にあたって即位したのが我が国最初の女性天皇、推古天皇であった。有力な皇位継承資格者であった聖徳太子が即位せず、推古が立つことになったのはいったいどうしてだろうか。

 推古は欽明天皇の皇女であり、欽明の皇子たちが相次いで即位していた当時にあって、皇女の身分のままでは天皇になることはできなかった。
 なぜならば、この時代、皇女には基本的に皇位継承権がみとめられていなかったからである。

しかし、彼女は異母兄にあたる敏達天皇の皇后にえらばれた。皇后は天皇の正妻というべき存在であり、敏達の時代に創始された地位であった。この皇后にもとめられたのは、天皇の後継者を生むこともさることながら、天皇に対する「しりへの政」、すなわち天皇の統治を後方から支える政治的な役割にほかならなかった。

 

 当初、皇后には推古のような皇女がえらばれたが、それは天皇を支えて国政に関与する皇后には何よりも政治的な力量が不可欠であり、天皇の血を引く皇女のなかにはそのような資質にめぐまれた者がいるとみなされたからに違いない。

 用明天皇の皇子だった聖徳太子はたしかに天皇になる資格をもっていたが、当時まだ20歳前後であった彼は政治的な経験と実績がかならずしも十分ではなかった。それに対して、推古は敏達の皇后として約9年、その後、前皇后(後世でいうところの皇太后)として6年ほど、都合およそ15年にわたり政治に関わった経験と実績をそなえていた。

この時、彼女は39歳であった。
 聖徳太子はもちろん、敏達の皇子である押坂彦人大兄皇子(舒明天皇の父、天智天皇・天武天皇の祖父)や竹田皇子らが束になってかかっても推古にはかなわなかったであろう。
 推古はやむをえず擁立されたのではなく、崇峻没後、王権の危機という状況のもと、彼女以上の適任者はいなかったために即位におよんだのである。

 推古の在位はおよそ36年におよんだ。彼女が75歳でこの世を去る約7年前に聖徳太子は逝去し、ついに天皇となることはなかった。生前譲位のシステムがない当時、結果的に推古の長期在位が太子の即位の機会を奪うことになった。


 だが、推古は亡くなる間際、遺詔により天皇としては初めて次期天皇(舒明)を指名することになるのである。推古が有力豪族の合議を抑えて新天皇を決定できたのは、ひとえに彼女がおよそ半世紀にわたり国政の中枢にあり続けた経験と実績によることは明らかであろう。

〈次稿に続く〉