織田信長、真田幸村、井伊直弼、坂本龍馬――日本史上、有名な人物を討ち取ることに成功した実行犯たちがいた一方、計画が未遂に終わった者たちもいた。その中のひとり、「織田信長を狙撃して傷を負わせた甲賀忍者」の生涯と、襲撃の瞬間に迫る。
日本史の未遂犯 ~織田信長を狙撃して傷を負わせた甲賀忍者~の画像はこちら >>
▲信長狙撃のために善住坊が潜伏した「杉谷善住坊の隠れ岩」

 善住坊の詳しい経歴はほとんど分かっていません。一説によると、甲賀五十三家の1つである杉谷家の出身の甲賀忍者であり、飛んでいる鳥たちを一発も外さずに撃ち落とす程の鉄砲の名手だったと言われています。
 この甲賀五十三家は近江(滋賀県)の南部の有力大名である六角家に仕えていたことから、善住坊も六角家の家臣だったと考えられます。

 しかし、1568年(永禄11年)に六角家は、ある人物よって攻め込まれて、瞬く間に滅亡に追い込まれてしまいます。その人物というのが、織田信長でした。
 信長は京都を追われた足利義昭を将軍職に就けることを大義名分として、美濃(岐阜県)の岐阜城から上洛の兵を挙げたのです。その途上に領地が位置する六角家は、信長と敵対する姿勢を取ったために織田軍の標的となったのでした。
 この時、善住坊がどこにいたかは不明ですが、六角家の当主である六角承禎(ろっかく・じょうてい)が居城の観音寺城(滋賀県近江八幡市)から、近江の最南部にある甲賀に落ち延びていることを考えると、他の甲賀忍者たちと共に六角承禎を警護していたかもしれません。

 上洛戦を成し遂げて天下に名乗りを挙げた信長に対して、善住坊の主君である六角承禎は一転して没落してしますが、忍びたちが自治をする、さながら独立国の甲賀の里で復讐の機会を探っていました。

 1570年(元亀元年)、信長は越前(福井県)の朝倉家に攻め込みました。しかし、この途中に浅井長政が裏切ったため、信長は挟み撃ちに遭い、命からがら京都に逃げ帰りました。世に言う「金ヶ崎の退き口」です。


 これは信長にとって、相当な痛手でした。
 小谷城(滋賀県長浜市)を拠点とする浅井長政は、近江の北部を領地としていました。つまり、この浅井長政の裏切りに呼応して、潜伏している六角承禎や善住坊などの甲賀忍者が再び動き出せば、近江は信長に敵対する地域となり、自身が保護する将軍がいる京都と、自身の本拠地である美濃(岐阜県)が分断されてしまったのです。
 そのため信長は、反対勢力に先手を取るために、京都から居城の岐阜城(岐阜県岐阜市)に戻り、軍備を整えて浅井長政を討とうと考えました。
 しかし、浅井家の領地である北近江を通過できないため、近江から南の伊勢(三重県)へ抜けなくてはいけませんでした。

 情報戦を生業とする甲賀忍者は、この情報を手に入れ、ついに信長の暗殺を決行するにしました。
 暗殺手段は火縄銃。六角承禎から射手に指名されたのは、もちろん甲賀忍者屈指の鉄砲の名手である善住坊でした。
 また、ここで肝心なのは、信長を射殺する場所です。街道などでは狙撃手の姿もばれやすく、信長の廻りは家臣たちが固めています。そこで善住坊たちは、国境の峠で実行することにしました。峠には大きな岩が乱立していて身を隠しやすく、道は険しいため織田軍の行軍は自然と1列か2列になるため、信長暗殺するのにこれほど相応しい場所はありませんでした。


 では、信長が抜ける峠はどこか―――。
 甲賀忍者が出した結論は「千草峠」でした。善住坊は「千草越え」とも言われる、その峠に向かいました。

 いざ、決行の瞬間

 そして、時は1570年(元亀元年)5月19日を迎えます―――。
 決行現場に着いた善住坊は、火縄銃を片手に握りしめ、険しい峠の巨岩の陰に身を隠していました。どれくらい時が経ったでしょうか。善住坊の耳に、規律正しく行軍する兵士たちの足音が聞こえてきました。
 岩陰からわずかに身を乗り出して、音の正体を探る善住坊。
 その兵士たちの中に、ひときわ目立つ男の姿がありました。その男こそ、善住坊が仕留めるべき男でした。この時の信長の様相は伝わっていませんが、善住坊は仲間たちと共に、事前に信長の特徴を調べ上げていたと考えられます。

 善住坊はこの時、確実に仕留めるために、筒には2つの弾を込めていたといいます。

これは「二つ弾」とも言われ、多くの火薬を必要とすることから「強薬(つよぐすり)」とも言われる特殊な狙撃方法でした。

 さて、ついに時が訪れます。
 善住坊は火が付いた火縄を火挟みに挟み、狙いの男に標準を合わせて火蓋を切ります。標的は行軍を進め、わずか12~13間(20数m)に近づきました。善住坊は集中力を極限まで高め、ついに、引き金を引きました。

 ―――――――――!!!!

 激しい銃声と共に、2つの弾は標的を目がけて飛んで行きました。
 首尾は如何に!?
 この時の様子は『信長公記』に詳しく記されています。

「杉谷善住坊と申す者、<中略>千草山中にて鉄砲を相構え、<中略>信長公を差し向け、二つ玉にて打ち申し候。されど、天道照覧にて、御身に少しずつ打ちかすり、鰐の口(危機)を御遁れ候て、目出たく五月二十一日、濃州(美濃)岐阜御帰陣」

 飛ぶ鳥を撃ち落とす実力を持っていた善住坊ですが、放った2つの弾は信長を捉えることは出来ず、わずかにかすり傷を負わせただけでした。
 善住坊の暗殺計画は、こうして失敗に終わりました。

 狙撃現場からは何とか逃走した善住坊でしたが、その後は激怒した信長からの執拗な犯人捜しに追われました。捜索を逃れるために善住坊は、琵琶湖の西岸の近江の高島郡(滋賀県高島市)の阿弥陀寺に身を隠しました。


 しかし、追及の手から逃れることは出来ずに、信長の家臣で高島郡の領主である磯野員昌(いその・かずまさ)に発見されて捕縛されてしまいます。
 厳しい尋問の末に、善住坊を待っていたのは「鋸挽きの刑」でした。生きたまま首から上だけを出して埋められ、竹で作った鋸で時間をかけて首を斬られるという残忍な刑でした。
 善住坊は5日間ほど苦しんだ後、息を引き取ったといいます。

 善住坊を偲ぶ史跡はほとんどありませんが、三重県甲賀市の甲南町には善住坊が居住したと言われる「杉谷屋敷跡」があり、滋賀県東近江市の甲津畑町には善住坊が身を隠したと言われる「杉谷善住坊の隠れ岩」が現在まで伝わっています。

(『あの方を斬ったの…それがしです ~日本史の実行犯~』より)

編集部おすすめ