現在の技術を持って作られたものと寸分違わぬ日本図を200年以上前に描いた忠敬。
それはどうやって可能になったのか。
使われた測量法と機器をもとに読み解いていこう。■従来の方法で誤差を減らし、精度を高めていった

 GPSはおろか、航空測量もできなかった時代に精度の高い地図を作り上げた忠敬率いる伊能隊。それを可能にした要因は、どのあたりにあるのだろうか。

「伊能たちは特別な方法を行ったのでも、画期的な新しい道具を使っていたのでもありません。従来から行われていた手法を丁寧に実行し、細かく誤差を修正していただけです」と伊能忠敬研究会名誉代表の渡辺一郎さん。

「ただ、金銭的に余裕があったので、測量機器にしっかりお金をかけて、精度の高いものを使っていたことは確かです」と続ける。

「誰でも知っている農地や家敷地を測量する方法で作業を標準化し、システム的に誤差を減らす工夫を凝らしたのです」。

 それに加えてに遠くの目標物の方位を測定して測量結果を確認する『遠山仮目的(とおやまかりめあて)の法』と、天体観測で緯度を求めて修正する方法で精度を高めて完成させたのだ。

「忠敬の本当の目的は〝地球の大きさを知りたい〞ということでした。そのために始めた測量が、日本図づくりに大発展したのです」。

 言うなれば作業の進捗に応じて目標が進化した。そして、伊能らが作成した地図は、明治期から長く日本地図の基礎として使われた。

 ■杭間の直線距離を測り真北からの角度で線を描いた

 では、どんな方法で測量を進めていたのかを具体的に見ていこう。

「基本的な距離と方位を測るのは、導線法です。これは従来から行われていたもので、村内の道路や田畑、住宅地を測るのと同じ、簡単な方法です」と渡辺さん。

『a=b cos θ』を使いこなす。伊能忠敬は数学的センスに...の画像はこちら >>
[HOW TO]①杖先方位盤の先にある曲がり角Bに梵天を立て、北からの右廻り方位aを測る。②Aに梵天を立てて高杖先方位盤でB→Aの南からの右廻り角度a'を測る。③鉄鎖や間縄などを使ってAとBの距離を計測する。
④次の目標地点Cを定めて、①~③の手順を繰り返して行う。


 杭を打った2点間の距離を測るものだ。はじめは麻縄が使われたが、水分による収縮があるため誤差が出やすく、後に鉄鎖が考案されて、大いに使用された。

「鉄鎖は一尺の長さのものを60本つないで十間とました。それで梵天を付けた杭の直線距離を測り、この直線の真北からの右回りの角度を測定して記録していったのです。それが地図の基本的な線になったのです」。


 

『a=b cos θ』を使いこなす。伊能忠敬は数学的センスに満ち溢れていた!
側線と梵天
海岸線などは、波打ち際の30~40m内側に梵天を立てた。直線と直線を結んで、陸地の輪郭を測量して描いていった。

 よく、伊能隊は一定の歩幅で歩く〝歩測〞だけで測量したように言われるが、それは間違い。歩測を多用したのは、幕府の許可がなかなか下りず、準備時間が少なくなり、測量機材も減らされてしまった第一次蝦夷(えぞ)地測量のみ。その後は併用しながら、当時使われていた様々な機器を使い、合理的かつ機能的に測量を進めていったのだ。もっとも、GPSやレーザーで簡単に測定できる現代と比べれば、長く地道な作業だったのは言うまでもないが…。

■斜面の平面距離を測るために三角関数を使った

 平坦な場所であれば前ページの方法で簡単に距離が測れる。しかし傾斜地だと斜辺を測ることになるので、平面よりも距離が長くなってしまう。

『a=b cos θ』を使いこなす。伊能忠敬は数学的センスに満ち溢れていた!
[HOW TO]①勾配の下の地点に小象限儀を三脚と支持柱で垂直に立てる。②梵天持ちの目を狙って、小象限儀をのぞいて角度を読み取る。③この時の角度が傾斜地の勾配と同じで、梵天の地中への延長線が実際の距離。④実際の平面距離を「三角関数」を利用した対数表で割り出して記入する。

「はじめのうちは目測で距離を測って距離を減じていました。しかし、亨和2年(1802)の羽越測量からは、携帯用の小象限儀を用いて勾配を測り、割円(かつえん)八線対数表という、今で言う三角関数の対数表に当たる表を使って、平面距離に変換していたのです」。

 斜辺の勾配から、平面距離を求めるのだ。中学か高校の数学で習った『a=b cos θ』の公式である。対数表を使ったのは、掛け算を足し算に変換することで、算そろ盤ばんでの計算作業を簡単にするためだったと推測されるのだという。

「杖先小象限儀を使っても狙う目標の位置によって、角度は変わってしまいます。本来なら指標板を設けるべきなのですが、梵天持ちの目に合わせて傾斜角を測ったと言われます」。

 これも伊能らの工夫によって導き出された、正確さを極めるためのアイディアだったのだろう。しかし、そこに行き着くまでは、様々な試行錯誤があったろう。きっと大変な苦労だったはずだ。

〈雑誌『一個人』2018年6月号より構成〉