迷宮入りとなってしまった、歴史上の数々の「事件」。その真相とは? そして犯人はいったい誰なのか? 小和田泰経氏が“歴史警察”となり、残された手がかりから真相に迫る連載「あの歴史的事件の犯人を追う! 歴史警察」。
今回は「山田長政暗殺事件」を取り上げる。■「山田長政暗殺事件」の背景

 駿河国(静岡県)の出身で、当時はシャムとよばれていたタイに渡り、南部リゴールの総督となっていた山田長政が、寛永7年(1630)、侵入してきた隣国パタニの軍勢と戦って負傷し、ほどなく亡くなった。享年は41とされる。オランダの記録によると、長政は対立するシャム国王の謀略により、傷口に毒薬を塗られ暗殺されたとされるが、証拠は残されていない。父長政の跡を継いだ子は、リゴールの混乱を収束することができずに脱出し、行方知れずとなった。果たして長政は、本当にシャム国王によって暗殺されたのであろうか。

山田長政はシャム国王に暗殺されたのか? “利益を得たのは誰か...の画像はこちら >>
イラスト/ 羽黒陽子

 山田長政は、出自について諸説あるものの、現在では駿河府中、すなわち駿府の商人であったとされている。長政自身は、家業に関心はなかったようで、沼津藩主大久保忠佐の駕籠かきとなった。しかし、慶長18年(1613)、主君の大久保忠佐が亡くなると、大久保家は跡継ぎがおらず、断絶してしまう。そのころ、長政も駿府に戻ったようである。当時の駿府は、徳川家康が隠居城を構えるなど、日本の中心であったといっても過言ではない。実際、当時の江戸の人口が15万人だったのに対し、駿府の人口は12万人であったという。

しかも、家康は海外との貿易にも積極的に乗り出していた。

 中国の明は国策として海禁をしていたため日本との貿易は許可されておらず、家康は主に安南(ベトナム)やシャムなど、東南アジアの国との通交を求めていた。実際、家康は慶長11年(1606)、シャムに国書を送っていた。しかし、この国書に対しては返書が無かったため、家康は慶長13年(1608)、再度、シャムに国書を出している。ただ、当時のシャムではエーカトットサロート王が即位したばかりで、なおかつ戦争が続いていたことから、一連の日本からの国書に対して返書を送ることが出来なかったらしい。エーカトットサロート王から返書があったのは、慶長15年(1610)のことだった。

■シャムに渡り、貿易で成功した長政

 日本と海外との貿易が盛んになるに従い、長政はシャムで一旗揚げようとしたのであろう。駿府は、いわば海外との貿易の中心地であったから、長政のもとにも成功した商人の情報が入ってきていたにちがいない。長政は、日本での生活を捨て、シャムに渡ったのである。慶長17年(1612)のこととみられている。現在のタイの首都はバンコクであるが、当時の王朝は、バンコクからチャオプラヤ川を遡った北方80kmほどのアユタヤに都をおいていた。アユタヤには日本人が集住する日本町が存在しており、貿易で成功した長政は、その日本町を取り仕切る役割を与えられたという。

さらにはチャオプラヤ川の水上警備もシャム側から委ねられており、元和7年(1621)、オランダと争うスペインとポルトガルが連合してアユタヤに侵入してきたときには、日本人を率いた長政がスペイン艦隊を奇襲し、撤退に追い込んだ。当時、アユタヤには関ヶ原の戦いや大坂の陣に敗れた武士も、傭兵として多く流れ込んできていたのである。

 この一件以来、長政はエーカトットサロート王の跡を継いだ子のソンタム王に重用されるようになったらしい。そして、ついにはシャムの朝廷における最高位にあたる「オークヤー」の階級を与えている。これは、シャムにおいて大臣の地位についたに等しい。事実、長政は、シャムから日本に書翰を遣わしているが、その宛先は幕府の老中であった。当時は、地位の対等な者同士が書状を交換するというのが共通の常識であったから、長政の地位は、日本であれば老中と同等であったことになる。

 

 それだけ出世した長政だが、それはあくまでソンタム王の信頼によるものであった。そのため、ソンタム王が寛永5年(1628)に亡くなると、その地位は不安定になってしまったのである。というのも、当時のシャムでは国王の後継者争いがおきていて、ソンタム王の王子チェーターティラート親王とソンタム王の弟シーシン親王を奉じる一派が勢力を競っていた。ソンタム王が亡くなったとき、長政は、チェーターティラート親王を奉じるソンタム王の従兄弟プラーサートトーンの依頼をうけ、日本人町の傭兵600人を率いて王宮を警護し、それによってチェーターティラート親王が国王として即位したのである。

■左遷された先で死去……これは暗殺なのか?

 これだけであれば、長政は新国王の即位に一役買った人物として、高く評価されたにちがいない。

しかし、そうはならなかった。プラーサートトーンがチェーターティラート親王を殺害し、チェーターティラート親王の弟アデットウン親王を擁立して実権を握ったからである。このため、プラーサートトーンと対立した長政は、アユタヤの南方700kmの地に位置するリゴール州の総督に左遷させられてしまったのである。実質的な「王」の地位を約束されたというが、はっきりとしない。当時のリゴールは、シャムの属国ではあったが統治は安定せず、隣国パタニによる侵入にも苦しめられていた。そうしたなかで赴任した長政は、リゴールを平定するとともに、パタニをも撃退した。ところが、パタニとの戦闘で負傷すると、あっけなく死去してしまったのである。オランダの記録によれば、プラサートトーン王の意をうけた前リゴール総督の弟ナリットが、長政を介抱するふりをしながら毒薬を塗布し、死に至らしめたのだという。それが事実なら、長政はプラサートトーン王に暗殺されたことになる。

 長政の子は、リゴールを追われ、長政に付き従っていた日本人の傭兵等も離散した。一部の日本人はアユタヤの日本町に戻ったが、その日本町もプラサートトーン王によって焼かれてしまったのである。オランダの記録が確かであれば、すべてプラサートトーン王の謀略でことが進んだことになる。

しかし、オランダは対日貿易をめぐって長政と争っており、その記録がすべて真実であったとは限らない。長政の死後、前リゴール総督は、娘を長政の子に嫁がせるなどしており、融和の姿勢をみせていた。もちろん、それすら策略との見方もできるが、長政を殺害しなければならない理由というのは、とくに見つからない。長政を暗殺すれば、総督に復帰できる可能性はあるだろうが、混乱するリゴールを統治することができたかどうか疑わしい。

 すでにプラサートトーン王は、長政をリゴールに左遷した時点で、目的を達成していた。王が長政を殺害する必然性はなかったのではないだろうか。むしろ、混乱するリゴールを統治し続けてくれたほうが、王国にとっては望ましいことだったにちがいない。シャムへの従属に反発するリゴールの貴族もおり、長政の死は、国王の個人的な感情は別として、王国としては明らかに損失であった。結局のところ、長政が亡くなったことで利益を得たのはオランダである。実際、オランダは、パタニなどを支援してシャムからの独立を画策していた。リゴールの独立も扇動していたとみて間違いないだろう。日本人を蜂起させてシャムに鎮圧させればシャム国内に商売敵はいなくなるうえ、リゴールが独立すれば貿易を独占することもできる。

長政がプラサートトーン王に暗殺されたという流言を広めたのは、オランダだったのかもしれない。長政自身は、暗殺などではなく、パタニとの戦争で毒矢をうけ、自然に亡くなったのではあるまいか。いずれにしても、このあと、プラサートトーン王はオランダを牽制するため、アユタヤの日本町を復興させたのだった。

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