世間的には無名でも。世の中がギスギスしていても。
「この人たちは何で毎日楽しそうなのだろう?」と思えるぐらい幸せな芸人たちがいる。プチ鹿島は、雑誌で2012年から「プチ鹿島の芸人人生劇場」という連載を展開、芸人たちの幸福論をつむいできた。今回、その連載をまとめた書籍『芸人「幸福」論』 から冷蔵庫マンのエピソードを特別配信。プチ鹿島をして「この人を書きたかったから連載を始めたようなもの」と言わしめる彼の魅力とは?

「今がいちばん幸せ」と語る、57歳芸人の生き様【芸人「幸福」...の画像はこちら >>
1961年5月2日、千葉県出身。俳優として活動し、テレビドラマや映画などに出演後、93年よりワハハ本舗に所属。2005年前後からピン芸人としての活動も始める。
オバマ前大統領と同い年。公式ツイッター(http://twitter.com/hiehie8

■ギャグはヒエヒエ、心はポカポカ

 その男が舞台に登場すると、会場は何ともいえない幸せな空気になった。
 男は真っ白に塗った段ボールを上半身にかぶり、自分を「冷蔵庫」に見立てている。

「ヒエ(冷え)、ヒエ、ヒエ~」と高いテンションで叫びながらダジャレを言う。そう、冷蔵庫だけに冷え冷えのギャグが売りなのだ。

「なんだあいつ、松茸狩りであんなに喜んだのに1時間も遅刻だよ。

絶対許せねー」

「待ったぁ?」

「けっ!」

「松茸」と「待ったぁ?けっ」……。戦慄のダジャレである。最後に「さーむい! 寒い!」と言い放ち、男は冷蔵庫の扉をバタンと閉める。

「お笑いライブを冷やしに来てやったぜ!」。彼はオバマ前アメリカ大統領と同い年。2018年で57歳になる。
冷蔵庫マンは段ボール越しに「今がいちばん楽しい」と笑顔で語る。いったい、何がどうなったのか。

 冷蔵庫マンこと飯塚俊太郎は昭和36年5月2日に千葉県野田市に生まれた。醤油で有名な「キッコーマン」の街でもある。市役所勤務の父親は厳しかった。飯塚は子どものころに父親と会話した記憶がほとんどない。
父親に見ることを許されたテレビ番組はなぜか『必殺仕置人』(TBS系)だった。

「理由は分からないです。会話がないので」

 次第に飯塚少年は母親が働く図書館に出入りするようになる。絵本を読んで空想するのが何よりの楽しみになった。

 学校では空気を読まない子供で、自分が面白いと思うことを思うがままにやってクラスの人気者だった。中学、高校の学園祭では活躍し、学級委員長も務めた。
よく告白もされた。

 そんな飯塚の大きな挫折は大学受験だった。14校を受験してすべて不合格。世間では受験生の自殺が深刻な問題になっていた頃である。暗い部屋で落ち込んでいた飯塚がやっと電気をつけたとき、父親のシルエットに気づいた。そして初めて励まされた。

■一度は役者の道を選んだ。

「俊太郎、好きなことをやれ」

 父親の許しを得た飯塚は役者の夢に突き進む。東映演技研究所に入り、『特捜最前線』(テレビ朝日)などに出演。考えていたより早くテレビに出られた。テレビ東京の12時間超ワイドドラマ『海にかける虹~山本五十六と日本海軍』(1983年)では山本五十六の長男役に抜擢された。

 役者として、前途洋々かと思われたが…文学座(附属演劇研究所本科)にすすんだあと、挫折を経験。なんと一時期「寝たきり」も経験したという。

(中略)

 寝たきり生活は数カ月続いた。飯塚はひとつの決断をする。もう親に心配をかけたくない。安心させたい。飯塚は退院後、地元の「NEC」に入社した。芝居の道をきっぱり辞めたのだ。

 社会人として人生の再スタート。元来明るく、人気者の飯塚だ。会社にもすぐとけこみ彼女もできた。充実した楽しい日々が訪れた。「これでいい。良かった」。

■救われた父の言葉

 そんなある日、飯塚は父親に呼ばれた。そこでまさかの言葉をかけられる。

「今のお前の顔は生き生きとしていない。俊太郎、もう一度芸能界に戻れ」

 大学受験で14校落ち、暗い部屋で落ち込んでいたあの時とまったく同じ言葉を父親からかけられたのだ。「好きなことをやれ」と。

 飯塚はすぐに上京した。知人に教えてもらった「ワハハ本舗」に入団した。すでにその時32歳。しかし演技の基礎があり昭和風の男前の飯塚は、ワハハ本舗の公演では真面目なセリフを照れずに言えば言うほど笑いをとれた。

 また、飯塚はワハハ本舗の公演の他にも、様々な活動をしている。例えば、単身でニューヨークに乗りこみ、公園で「サムライ・スタンダップコメディ」と称して活動し、放浪したこともあった。しかし劇団主宰の喰始(たべ・はじめ)からは、いつもダメ出しを受けていた。「二枚目のお前がジョークを言っても、つまらないんだよな」と。

 そんなある日、稽古場にあった段ボールを見て、絵本好きだった子供のころの空想がひらめく。飯塚は段ボールを「冷蔵庫」に改造しはじめた。それをすっぽりかぶり、ダメ出しを逆手にとって寒いダジャレを連発するスベリ芸にした。「冷蔵庫マン」の誕生である。飯塚が本気でダジャレを言えば言うほど
「スベるんですよ」。

 ヘンな幸運。

 それ以降は各地のお笑いライブに出演しまくる日々が続く。「ラ・ママ新人コント大会」の名物コーナーであるゴングショーに20代の若手と一緒に出続けた。ブッチャーブラザーズが主催する「東京ビタミン寄席」でもおなじみ。冷蔵庫マンが出てくると、観客の誰もが弛緩した笑顔になるのだ。

 2010年には49歳で結婚。翌年の6月3日には一般公募で『新婚さんいらっしゃい!』(テレビ朝日)に出演。番組内でネタも披露。ツイッターのHOTワードに「冷蔵庫マン」が一瞬だけ浮上した。

「今がいちばん幸せ」という飯塚。でも、「好きなことをやっているからね」というその言葉には、苛烈な人生と父親の言葉があったのだ。

 今日もどこかで、冷蔵庫マンは冷え冷えのギャグを言っている。

『芸人「幸福」論』 より一部を抜粋し再編集しました〉