さまざまなテレビ番組や雑誌などでもお馴染みの購買/調達コンサルタント・坂口孝則。いま、大手中小問わず企業から引く手あまたのコスト削減のプロが、アイドル、牛丼から最新の企業動向まで、硬軟問わずあの「儲けのカラクリ」を暴露! そこにはある共通点が見えてくる!?

 音楽プロデューサーの佐久間正英さんが亡くなった。

61歳だった。日本音楽史に残るプロデュース業については多くを語る必要はないだろう。

 一つひとつの曲に合うドラムの音があり、そしてその音を出すための叩き方がある。そして、そのほかの楽器も同様に音色を決めていく。昨年末に放送されたNHKのドキュメンタリー番組『ハロー・グッバイの日々~音楽プロデューサー佐久間正英の挑戦~』の一コマだ。音楽への情熱を語り、そして胃がんの闘病をさらけ出すさまは衝撃だった。その放送から1カ月も経たず、氏は鬼籍の人となった。

 THE BLUE HEARTSのアルバム『YOUNG AND PRETTY』の過激さに衝撃を受け、BOOWYの同『B00WY』【編註:正式表記では3文字目の「O」に斜め線が入る】の音質に驚き、筋肉少女帯の同『UFOと恋人』の自由奔放さに魅了された私が、これらの楽曲が同じ一人のプロデューサーによってつながっていたと知るのは、大学生になった頃だ。復刻版の四人囃子の同『ゴールデン・ピクニックス』(初回版は1979年発表)を聴き、その先進性に圧倒されるとともに、私を籠絡しているのは四人囃子のベーシスト、佐久間さんであると知る。

 そこから私はずっと佐久間さんの言葉を追いかけてきた。佐久間さんが音楽プロデューサーとして手がけたアーティスト――、JUDY AND MARY、GLAY、THE BLUE HEARTS、BOOWY、エレファントカシマシ――。彼らも佐久間さんのスゴさを語ってはいる。

しかし、ここでは佐久間さん自身のコメントから故人を振り返ってみたい。

●音楽プロデューサーになるまで

 佐久間さんは5歳でベートーベンに衝撃を受け、小学1年生で誰にも教わらずにピアノの譜面が読めたという。その後、中学で吹奏楽部に入部しトランペットを始め、数カ月後にはギターを始めている。

 同級生とのギターセッションがきっかけとなり、音楽をやることの面白さに気づいた佐久間少年はバンド活動をスタートさせる。その頃から音楽で食べていくことは、もはや確約された未来だった。

 「小さいときからすでに音楽を職業にしようと、なんとなく決めてたんですよ。才能あると思ってたみたいです、自分で(笑)」(「JUNON」<主婦と生活社/1997年4月号>)

というものの、

 「いつ学校をやめようかと考えたりしましたが、その気になればいつでもミュージシャンになれるはずと思い、それならべつに大学を出てからでもいいのではないかと思った」(「女性自身」<光文社/99年9月14日号>)

ようで、大学に進学。「音楽をやるのに、音楽だけをやっていても音楽はできない」と考えていた氏は、このころから人間そのものへの興味が旺盛だったようだ。大学では人間関係学を選ぶ。音楽プロデューサーとして受けたインタビューでは、この「人間」というキーフレーズが何度も登場する。

 大学卒業後、四人囃子の二代目ベーシストとしてプロミュージシャンのキャリアを開始した氏は、78年にプラスチックスに参加、そして翌年にはプロデュース業を開始する。わずか27歳のころだった。

 「今からしてみれば“若いな”と思えるかもしれないけど、その時代は周りもみんな若かった」(「JUNON」<前出>)

ようで、試行錯誤の連続だった。

 「ひたすらいろいろな音楽を聴き、ひたすら自力だけで問題を解決して行くしかなかった時代」(『直伝指導! 実力派プレイヤーへの指標』<リットーミュージック/2013年>)

という。しかし、この時代の経験こそが、その後の氏をかたちづくった。いつしか依頼の絶えないプロデューサーになっていく。

●音楽プロデューサー心得

 今回、佐久間さんのインタビューを読み返して気づくのは、アーティストの黒子へ徹する一貫性と、あまりにも強烈なプロ意識だった。

 「アーティスト本人たちが“やりたい”と望んでいることと現実に“やっていること”とのギャップを埋めてあげる作業」であり、「自分自身のカラーは極力出さないようにしています」と繰り返し述べていた。それは、ミュージシャンの近田春夫さんが「佐久間はいつもお手伝いっぽいのだ。(中略)あくまで本人(達)の力の足りぬ部分だけをフォローし、思想的には一切関係を持たぬ」(「週刊文春」<文藝春秋/97年7月3日号>)といわせるほど徹底したものだった。佐久間さんは、信条として良い音楽だけを創るという一点のみを追求し続けていた。

 考えるに、アーティストの実力を最大限に引き出して、かつ音源という商品を創りだすためには、アーティストが氏に絶対の信頼を置いている必要がある。

 「僕がOK出したら、みんなが納得する存在でないとだめ。若者たちが“このおっさん、ただ者じゃないな”と思えば、それだけでレコーディングがスムーズに進みますから」(「an・an」<マガジンハウス/97年2月7日号>)

と述べているように、プロデュースしたアーティストからは絶賛の声を多く読んだ。

リズムの1000分の1を聴き分け、何分の一秒のズレを排するさまは圧倒だったという。また佐久間さんは楽器のプレイヤーとしてもアーティストたちを指導しつづけた。理想の音を実現するためだった。

 「例えばベースが『もっと太い音が出したい、それにふさわしいものに楽器を持ち替えたい』と言ったとする。しかし、その希望を実現するのに重要なのは道具ではなく、ピックの当て方だったりするんです」(「an・an」<2000年4月21日号>)

というとおり、レコーディングの前には、アーティストにドラムの皮の張り方、スティックの選び方、ギターやベース弦の硬さやピックの持ち方を細かにアドバイスしていた。

 「今の若いミュージシャンは、見かけがどんなであれ、ものすごく真面目です。ミュージシャンになるには地道な練習が必要ですから。真面目でなかった人は結局続いていないんです」(「女性自身」<前出>)

 「どんな細かい音でも拾っちゃうわけだから、ごまかしがきかない。だからその意味では、CDというのはライブよりずっとリアルだと思いますよ」(「宝島」<宝島社/91年5月24日号>)

 また、若いアーティストはお金を持たず良い楽器を持っていないと嘆き、しかし嘆くだけではなく楽器を自作しアーティストに売った。

 さらに、バンドのメンタル面もケアしていった。有名なところでは、JUDY AND MARY、エレファントカシマシ等のバンドは佐久間さんがセラピスト的な役割を果たし、バンドを、そして音楽スタイルを構築していった。

 とはいえ、佐久間さんのインタビューを読んでいると、すべてをバンドで解決せねばならないという考えはない。

人間関係がムチャクチャでも、音に出なければ良しとしたリアリストであったし、あるいはバンドメンバーの欠如も同様だ。GLAYにドラマーがいないことも是とし、某アーティストなどはメンバーが抜けて音楽的に良くなった、とも述べる。あくまで結果として残せる音楽、残せる楽曲のクオリティのみに意識を集中していた。つまりバンド万能主義ではなく、メンバーがそれぞれの才能を生かせれば良しとする、バンド「的」手法論でヒットを作り上げてきたように思う。

●目指したもの

 ところで氏はヒットメーカーとして知られる一方で、氏を突き動かす源泉についてはさほど論じられていない。テレビ、雑誌、書籍、ネット……多くのメディアで氏が述べてきたことからするに、その源泉は、音楽への純粋な興味であり、学生時代から続く「人間そのもの」への関心だった。

 佐久間さんは、ことあるごとに「100万枚売れるアーティストがひとりいるより、1万枚売れるアーティストが100人いるほうが文化として正しい」と述べ、音楽の多様性が認められる社会を理想とした。それは氏のプロデュース範囲が広いこととも無関係ではない。「仕事を受ける基準は、スケジュールが合うか合わないかだけしかない」(「音楽主義」 (日本音楽制作者連盟/14年1月号)のを死の寸前まで貫いていたのだから。

 「いろんな音楽が好きっていうより、いろんな人と知り合いたい気持ちがまずあるんですよ」「毎日いい仕事をして、いいものだけが売れるんだということを信じていたいだけですから」(「週刊プレイボーイ」<集英社/01年5月22日号>)

 「僕の楽しみはレコーディングという作業を通じて人と接していること。会話や演奏に感動できたり、歌やギターに感動したときに、やっててよかったと思います」(「JUNON」<前出>)

 そして、自著『直伝指導! 実力派プレイヤーへの指標』では、佐久間さんの感動的な文章で締めくくられている。

 「音楽は、働きかけさえすれば、その分、何かを必ず返してくれるはずです。

そうやっていつか、あなたしか手に入れることのできない、あなただけの音楽を手にしてください」

 佐久間さんから生まれたアーティストたちは、私たちを楽しませ続けている。さらにその影響はひと世代下のアーティストたちに及んでいる。今後、この連鎖はどこまでも長くなるだろう。

 なぜ佐久間正英さんは死んでしまったのだろうか。おそらく、駆け抜けすぎたのだと思う。あまりに偉大な仕事が私たちの前に残った。氏がいなくなった事実を前に、私は悲嘆することしかできない。佐久間さん、ありがとう、そしてさようなら。
(文=坂口孝則/購買・調達コンサルタント、未来調達研究所株式会社取締役)

ジュディマリ、GLAY…伝説の音楽P、故・佐久間正英は、なぜ絶大な信頼を得たのか?
●坂口孝則(さかぐち・たかのり)
関西の某国立大学卒業後、携帯電話メーカーへ。購買部に配属される。バイヤーとして担当したのは200社以上。株式会社アジルアソシエイツ取締役、未来調達研究所取締役(現職)。
バイヤー同士の情報交換ができる場、購買ネットワーク会発起人。「ほんとうの調達・購買・資材理論」主宰。メルマガ「世界一のバイヤーになってみろ!!」代表執筆者。コスト削減のコンサルタント、調達業務研究家。物流コンサルタント。
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