「今月は20日間も休みなく仕事をしていて、クタクタだよ」

 これは、いわゆるブラック企業ではなく、日本のオーケストラ奏者の話です。もちろん、オーケストラといえども、一般企業と同じように国が定めた労働基準法を守らなくてはならず、違反はできません。

 労働基準法では、1週間の労働は40時間以内となっています。一般的なオーケストラを例に挙げれば、リハーサル日とコンサート日とでは若干違いますが、1日の労働時間は5~6時間です。そうすると、休日がなかったとしても1週間の労働制限の40時間以内に収まってしまいます。つまり、演奏会に加えて、リハーサルや本番回数が多いオペラ公演などでも演奏し、3週間休みなしでぶっ続けで仕事をしても、ひと月に決められた休日数を取りさえすれば労働基準法違反にはならないわけです。しかもオーケストラは、時間が始業と終業時間がきっちりと決まっており、よほどのことがない限り、当日になって伸びたりはせず、基本的に残業はない職業なのです。

 指揮者の僕がこんなことを書いていると、音楽大学時代の同級生や親しい楽員から、すぐにお叱りの連絡が来そうです。

 現場での“労働時間”は法律の範囲内でも、自宅で練習をする時間は含まれていません。ひとつのポストが空けば、100名以上の応募者がオーディションに押し掛けてくるわけですが、そこでやっと合格した新米の楽員でも初日から、演奏したことのない楽譜をドーンと渡されるので、自宅での練習時間を加えれば、労働基準法どころではありません。

 指揮者も、ひとつの曲に莫大な時間をかけて研究することもあります。とはいえ、そもそも指揮者はオーケストラという会社に所属しているわけではなく、簡単にいえばフリーランスですから、そもそも労働基準法などはほとんど関係してきません。

 日本のオーケストラの楽員は、休みを取るのも大変です。「有給休暇を取れないのか?」と思うかもしれませんが、もちろん有給休暇はあります。

しかし、オーケストラの場合、「トランペットが休んでいるから、フルートの人がカバーしてよ」というわけにいきません。また、責任感の強い日本人は、自分の勝手な事情で周りに迷惑をかけてまで休もうとはしません。

 ましてや、有給休暇を使い果たしているにもかかわらず、「ほかに条件の良い仕事があるから休みたい」「家族と温泉に行きたいから」などといった理由を事務局には言うなんて、絶対にできません。

ドイツ語圏の“細かすぎる”ルール設定

 他方、ドイツやオーストリアのオーケストラの場合、結構自由に休みを取ることができるそうです。ただ、そこも経済感覚がしっかりとしているドイツ語圏です。休む楽員自身が、エキストラを雇うお金を支払うのです。

あるオーケストラを例にとると、リハーサル1回、コンサート1回につき、それぞれ50ユーロ(約6000円)を支払うルールです。つまり、ひとつのコンサートに対して、午前・午後の2回リハを3日間、本番前の総練習、コンサートを加えれば、400ユーロ(約4万8000円)をエキストラに支払えば、ほかに良い条件の仕事を入れたり、地中海へ家族とバカンスに行くことができます。

 ところが、出し惜しみをする楽員が出てきて、なかには1回当たり35ユーロしか払わない人も現れたのです。トラブルが続出したため、オーケストラ事務局が乗り出しました。その結果、年間労働日数から休む日数の割合を計算し、楽員の年収からその割合分をエキストラに渡すことになったそうです。

 今まで50ユーロで済んでいたのに、年棒の高い楽員ともなれば倍の100ユーロも払う羽目になってしまったのです。

そうすると、ひとつのコンサートを休むために、800ユーロ、つまり10万円近くも支払うことになったわけで、楽員は「そう簡単に休めなくなった」とこぼしているそうです。

 ドイツ語圏では“降り番”の奏者も、「呼び出されたら1時間以内に会場に来られる場所で待機するように」という契約条項があります。降り番というのは、曲目の都合で出番がカットされることです。オーケストラは、曲によって少ない楽器数で演奏するプログラムがあります。たとえば、モーツァルトの名曲『交響曲第41番 ジュピター』などは、フルート奏者が1人しか必要ではありません。つまり、フルートの二番奏者とっては、嬉しい臨時のお休みとなるのです。

 降り番となった奏者は、「暇になったから、ほかの仕事を入れて稼ごう」「スキーに行こう」と考えたくなりますが、ドイツ語圏ではそうはいかないのです。出番がないとはいえ、あくまでも仕事中とされ、いわば「自宅待機」です。たとえば、急に一番奏者が高熱を出して演奏できなくなったら、すぐに駆け付けなくてはならないのです。

 ドイツ語圏はルールが細かいですね。この3連休の8月11日は「山の日」ですが、実は僕も含めて山登りが好きな音楽家は、海外も含めて少なくありません。ユニークな例として、美しいオーストリア・アルプスが間近にそびえ、モーツァルトが生まれたザルツブルクのオーケストラでは、「指揮者およびコンサートマスターは、本番の48時間前から山登りをしてはならない」という契約まであるそうです。


(文=篠崎靖男/指揮者)

●篠﨑靖男
 桐朋学園大学卒業。1993年アントニオ・ペドロッティ国際指揮者コンクールで最高位を受賞。その後ウィーン国立音楽大学で研鑽を積み、2000年シベリウス国際指揮者コンクール第2位受賞。
 2001年より2004年までロサンゼルス・フィルの副指揮者を務めた後、英ロンドンに本拠を移してヨーロッパを中心に活躍。ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団、BBCフィルハーモニック、ボーンマス交響楽団、フランクフルト放送交響楽団、フィンランド放送交響楽団、スウェーデン放送交響楽団など、各国の主要オーケストラを指揮。
 2007年にフィンランド・キュミ・シンフォニエッタの芸術監督・首席指揮者に就任。7年半にわたり意欲的な活動でオーケストラの目覚ましい発展に尽力し、2014年7月に勇退。
 国内でも主要なオーケストラに登場。なかでも2014年9月よりミュージック・アドバイザー、2015年9月から常任指揮者を務めた静岡交響楽団では、2018年3月に退任するまで正統的なスタイルとダイナミックな指揮で観客を魅了、「新しい静響」の発展に大きな足跡を残した。
 現在は、日本はもちろん、世界中で活躍している。ジャパン・アーツ所属
オフィシャル・ホームページ http://www.yasuoshinozaki.com/