生きる意味とは何か。先の見えない若者にとって、悩ましい問題に違いない。

しかし、実は、先が見えてしまった中高年男性にとってこそ、切実なテーマだといえる。

 35~49歳の中年男性300人を対象にした調査では、普段の生活で「つまらない」と感じる頻度が「増えている」「どちらかといえば増えている」という回答が72%にも達している【※1】。

 大切な自分の人生なのに、この結果はあまりにも寂しい。目をそらしたところで事態はよくならないのだから、一度立ち止まって、人生について真剣に考える必要がある。

「普通」の男性は、学校を卒業したらすぐに正社員として就職し、1日8時間、週40時間は「最低限」で、それ以上が「当たり前」という働き方を40年間にわたって続けていく。

 こんな「普通の人生」はまっぴらごめんだと言ったところで、結婚して家族を持てば「一家の大黒柱」として期待されるため、生活費、教育費、さらには家のローンが重くのしかかり、今さら道を外れることは不可能だ。

 自由になるお金も時間もない。ただひたすらに働き続けて、「こんな毎日に、いったいなんの意味があるのか」と嘆きたくなるのも当然だろう。多くの中高年男性が抱える漠然とした不安の裏側には、「卒業→就職→結婚→定年」という「たった一本の道を、ひたすら歩み続けるしかない」という明確な原因が存在している。

「普通の人生」を歩み続けることは、確かに忍耐の連続であるが、少し考えてみればわかるように、そのルートから外れてしまった男性もいるはずである。そして、その道は「普通の人生」よりも、はるかに過酷に違いない。

●中2の夏の事件でひきこもりになった、山田ルイ53世

 お笑いコンビ・髭男爵の山田ルイ53世が自身のひきこもり経験を書き綴った『ヒキコモリ漂流記』(マガジンハウス)には、「普通の人生」を歩めなかったからこその苦悩が克明に描かれている。


 山田少年は、兵庫県の名門・六甲学院中学校に合格し、三者面談では担任の先生から「山田君は、このままがんばれば、おそらく東大にいけます!!」と言われるほど成績優秀だったそうだ。この段階では、「普通の人生」のなかでも「トップクラス」が狙える位置につけていたわけである。

 成績優秀、部活でもレギュラー、そこそこクラスの中心人物……このような充実した日々を送る山田少年だったが、中2の夏に事件が起きる。

 通学時にうんこを漏らし、学校のトイレで水洗いするも、完全には汚れを落とせず、授業中に異臭を放ってしまうのだ。誰もが臭いに気がついていながら、同時に、誰もその臭いについて口に出せないことで、クラスには不穏な空気が流れる。いたたまれなくなった山田少年は、学校を早退した。

 翌日、友達の1人が「順三、昨日どうしたん? なんで帰ったん?」とたずねてくる。ここで「うんこ漏らしたから帰ってん……テヘヘ」と返すことができれば、ひきこもることもなく、学校に通い続けられたのではないか、と男爵は回想している。

 確かに、友達に茶化されることを受け入れることができたなら、この“事件”の後も、学校に居場所があったに違いない。六甲学院が男子校であることを考えれば、なおさらである。しかし、「勉強も運動もよくできる優秀な生徒・山田君」の高すぎるプライドが、いじられる側に回ることを許さなかった。

 このエピソードからは、次のような教訓を得ることができる。


 人生が順調に推移していればしているほど、自分の過ちを認めにくくなり、その結果、かえって事態を悪化させることがある。問題を認めず、謝罪が遅れたがために、逆に追い込まれることになった政治家や企業の経営者は数えきれない。

 世の中には、負けてしまったがゆえに強いられる不自由もあるが、勝っているがゆえの不自由もある。「勝ち組」の立場にいるからこそ、「男はかくあるべし」という理想像にからめとられ、気軽に冗談を言うことも人に頭を下げることもできなくなってしまうのだ。

 話を戻そう。高校に進学できなかった山田少年は、近所のコンビニエンスストアでアルバイトをしながら自宅で生活していたが、一緒に暮らすことに耐えきれなくなった母親に懇願され、隣町で一人暮らしをすることになった。

「今頃、父や母や弟は、家であったかいご飯を食べているだろうか、同世代の子達は、楽しく毎日を送っているんだろうな……などと考えると、自然と涙がしみ出してくる。そして、随分『余ってしまった』自分の人生の敗戦処理などを考え始めるともう駄目であった。

 もう勝ち負けの決まった終わったゲームを続けなければならない理由などないのである」(『ヒキコモリ漂流記』より)

●そもそも「普通の人生」すら難しい、現代の男たち

 男性にとって「普通の人生」とは、「卒業→就職→結婚→定年」という一本の道である。「卒業」の前段階でつまずいてしまった山田少年は、「就職→結婚→定年」と続くはずだった未来を思い描くことができない。人生が「余ってしまった」という表現はあまりにも的確であり、だからこそ、10代の少年が抱えるにはあまりにも重すぎる空白である。

 2015年の出版時に40歳だった男爵は、あとがきで自分の半生を振り返っている。


「中学受験に合格→中学校で留年→引きこもる→苦し紛れに高校受験するも、不合格→五年間、二十歳まで引きこもる→大検取得→大学合格→二年足らずで失踪→上京→芸人として、下積み生活始まる→借金で首回らなくなる→債務整理→やっと一回売れる!!……そして、今」

「余ってしまった」はずの人生は、紆余曲折がありながらも、お笑い芸人という道にたどりついた。現に壁にぶつかり、悩んでいる人に対して安易な慰めは禁物だが、たとえ歩みを止めた時期があったとしても、生きてさえいれば何かが起こるかもしれない。そんな端的な事実を、『ヒキコモリ漂流記』は教えてくれる。

 確かに、男爵の人生は極端ではある。しかし、就職に失敗したり、恋愛が上手にできなかったり、会社をクビになって定年まで勤められなかったりと、どこかの段階で「卒業→就職→結婚→定年」という道から外れてしまう可能性は誰にでもある。

 そもそも、現代の日本社会では、「普通の人生」を歩むこと自体が困難になっているのだ。

 内閣府男女共同参画局の『平成26年版 男女共同参画白書』では、男性の置かれた状況について「男性は、建設業や製造業等の従来の主力産業を中心に就業者が減少し、平均所定内給与額も減少しているが、労働力率では世界最高水準となっている」との指摘がなされている。

 平たく言えば、これまで多くの男性が雇用されてきた職場は失われつつあり、給与も減る一方であるが、それでもほとんどすべての男性は働き続けているということになる。

 男性の生き方を変えていこうという気運は、過労死が社会問題になった1980年代後半やリストラに注目が集まった2000年前後にも高まったが、「男性は仕事中心の生活をするべき」という強固な「常識」の前に、その勢いは長く続かなかった。

 進んでも退いても出口が見つからなくなりつつある現在。自覚しようとしまいと、男性の生き方の見直しは、すべての男性が当事者として考えなければならない問題になっている。
(文=田中俊之/武蔵大学社会学部助教)

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