茨城県鹿嶋市を「サッカーのまち」にした知られざる立役者

 しかし、当時の鹿島町長を先頭に、農家を中心とする反対運動が起きた。今春、鹿嶋市役所を政策企画部長で退職した大川文一さん(61)は、祖父が「鹿島開発絶対反対」と書いたベニヤ板を自宅の門に掲げていたのを覚えている。


「祖父の世代には、公害などへの不安がありました。しかし、父の世代は開発をチャンスととらえる人が多く、世代間で葛藤が生まれました」


 それだけではない。68年に企業進出が始まると、都市部などから大勢の人が転入した。鹿島町の65年までの人口は1万6000人程度だったが、75年には約3万7000人となり、10年間で2.3倍に増えた。


「児童数が1300人を超えた新設小学校では、父母の出身地で日本地図が北から南まで塗れたそうです」と、大川さんが解説する。


■「皆で一つのボールを追いかけるサッカーで融和を」

 だが、「こんな田舎に来させられた」と不満を募らせる「新住民」と「俺達が土地を提供したから働く場が得られたくせに」という思いが捨てられない「旧住民」との間で、感情的な対立が生まれていった。


 町役場は「一緒に文化活動をすれば理解が深まる」と、中央公民館を建てた。


「書道や絵画などの講座を開きました。でも、都市型の教養講座の色彩が濃く、旧住民が普段着で行けない雰囲気がありました。そこで各小学校を間借りして、気軽に歩いて行ける公民館活動を行いました」。大川さんはこの事業の担当だった。


 その頃、「皆で一つのボールを追いかけるサッカーで融和を」と発案した人がいた。石津さんだ。


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