茨城県鹿嶋市を「サッカーのまち」にした知られざる立役者

 ただ、これが鹿島をサッカーのまちにする原動力の一つになった。


「少年団に9割の子が入る小学校もありました」と大川さんは語る。


 少年団出身の子が、高校で全国大会に次々と出場していった。


 住友金属の蹴球団は75年、鹿島に移ってきていたが、これを母体にして鹿島アントラーズが設立されたのは91年だ。


 当時の蹴球団は日本リーグ2部の実力しかなく、地域の人口も他チームに比べて極端に少なかったので、経営が成り立たないと見られていた。川淵三郎・元Jリーグチェアマンは、地元に加盟を諦めてもらうためにわざと1万5000人収容の屋根付き専用スタジアムの建設という難題を条件にした。なのに、県は建設を決め、大逆転で参加が決まった。


 県が建設費約84億円を捻出できたのは、鹿島開発で住民から買い取った土地を売却した利益を特別会計に貯めていたからだ。神栖市側には県の第3セクターがホテルやオフィスが入居する14階建てのビルを建設していたが、鹿嶋市側には何もなかったという事情もあった。


 93年、アントラーズはJリーグ初年度の第一節で優勝するなど大活躍し、鹿島の人々を熱狂させた。


「年寄りも若者も、誰もが一緒になって応援しました。鹿島開発が引き起こした世代間の葛藤や新旧住民対立に一つの区切りがつけられたのです」と、大川さんは語る。


■W杯後もサッカー熱は冷めることがない

 鹿島のサッカースタジアムは02年、日韓共同開催のワールドカップでも会場になった。その前年、同会場で日本とブラジルの代表戦があった。加藤さんは石津さんが「こんな試合が見られるなんて」と、涙を流していたのを記憶している。


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