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Text by 大石始
Text by 山元翔一



藪、と言われてどんなことを思い浮かべるだろうか。「藪から棒」「藪をつついて蛇を出す」という言葉があるが、薮というのは、外から見通しのきかないところ、あるいはブラックボックスのように何があるかよくわからないところ、というようなメタファーでもある。



芥川龍之介の『藪の中』を思い浮かべる人もいるかもしれない。これは、藪のなかで起こった出来事をめぐってさまざまな登場人物が証言を行なうも、内容が食い違い、何がどう起こったのか実際にはわからない、という物語だ。この作品は「真相は藪の中」という言葉の語源にもなっている。



藪とはそういったような言葉であり、世界中の路地裏を可視化したGoogle Earthをもってしても、藪のなかに何があるかは実際に足を踏み入れた人にしかわからない。何が出るともわからない藪のなかに自ら進んで入りたがる人はそういないだろう。



だが、折坂悠太はいま、人々を藪のなかに招き入れている。



どういうことかというと、折坂はPARCO MUSEUM TOKYOで自身初の展覧会『薮IN』を開催し、会場に藪を出現させているのだ(会期は5月30日まで)。よって来場者は800円の入場料を払って藪のなかに足を踏み入れることとなる。高いと思うか、安いと思うかはあなた次第だが、お金を払ってまで藪に入る経験は、ある意味、貴重だ。



なぜ折坂悠太はこのような展覧会を行なうに至ったのだろうか。国内外の地域文化と大衆音楽を追うライターの大石始が考える。



最新アルバム『心理』(2021年)ではコロナ禍の鬱屈とした社会のムードを写し取りながら、新たな世界を切り拓いた折坂悠太は、展覧会『薮IN』でインスタレーションや立体音響、映像などを用いながら表現領域をさらに拡張させている。



彼にとって初の展覧会となるこの『薮IN』を通じ、折坂は私たちに何を伝えようとしているのだろうか? 展覧会をレポートするとともに、その背景にあるものについて考えてみたい。



入場料800円を払って藪のなかへ。折坂悠太『薮IN』がもたらす混乱、モヤモヤの正体を考える

折坂悠太(おりさか ゆうた)
鳥取生まれ、千葉県出身のシンガーソングライター。平成元年生まれの折坂ならではの極私的な感性で時代を切り取りリリースされた前作『平成』は、2018年を代表する作品として、CDショップ大賞を受賞するなど、高い評価を受ける。2021年10月には、3年ぶりとなる新作アルバム『心理』をリリース。2022年5月13日には初の展覧会「薮IN」をPARCO MUSEUM TOKYOで開催し、初の同名著書作品『薮IN』を刊行する。



会場に入るとまず待ち受けているのが、『心理』収録曲のミュージックビデオとツアー映像を映し出すオーディオルームだ。



この部屋では山麓丸スタジオが制作した「360 Reality Audio」の立体音響技術が使われており、そのためか、前方のスクリーンに映し出された映像に釘づけになっている来場者も見られる。ライブ会場とも異なる没入感は、360 Reality Audioならではのものなのかもしれない。



歩みを進めると、折坂のステートメントがガラス板に綴られている。

「そのものらしさでなく、そのもの自体を見てみたかったんです。薮の中へ投げ入れて、この身体も押入れて。出会い直そうとしたんです」
- 『折坂悠太展「薮IN」』のステートメントより

入場料800円を払って藪のなかへ。折坂悠太『薮IN』がもたらす混乱、モヤモヤの正体を考える

折坂の手書きによるステートメント(全文はこちらより)



謎めいた言葉を反芻しながら次のスペースに向かうと、『平成』や『心理』といった折坂作品のビジュアルを撮影してきた写真家の塩田正幸による映像が映し出されている。

スクリーンには藪のなかを突き進んでいく折坂がいて、ときどき立ち止まってはハミングとも鼻歌ともつかない声をあげている。



折坂悠太によるうり坊(イノシシの子ども)のちぎり絵を横目で見ながら、最後の部屋へと入る。そこには造園家の田中菜穂子(月桃雨)による藪のインスタレーション空間が広がっていて、草の匂いが充満している。スピーカーからは折坂の即興演奏が流れていて、鳥の鳴き声やエンジン音も聴こえてくる。



入場料800円を払って藪のなかへ。折坂悠太『薮IN』がもたらす混乱、モヤモヤの正体を考える

『薮IN』の薮



ぼくは藪の一角に座り込み、数十分にわたってその音に耳を傾けた。折坂の演奏が少しずつ自分の身体と感覚を侵食し、境界が曖昧になっていくような気がした。



一連の展示を通じ、折坂は何を表現しようとしているのだろうか。決して結論が出るわけではないものの、心のなかに何か引っかかるものを感じながらPARCO MUSEUM TOKYOを出た。



折坂悠太はかねてからさまざまな表現方法を通じて創作活動を続けてきた。2021年6月の単独公演では、演奏のかたわらでカレーユニットである咖喱山水がカレーを調理。スパイスの香りとのコラボレーションを展開した。また、2020年には映画『泣く子はいねぇが』の劇伴を担当し、映画音楽作家としての可能性も垣間見せた。



そもそも折坂は10代のころからシナリオライターをめざし、東京のシナリオセンターに通っていたこともあったわけで(当時学んだ技術は現在も歌詞を書くうえで役立っているという)、多様なアウトプットを持つ折坂が今回のようなミクストメディア的な展覧会に挑むのも必然的なものといえるだろう。



気になるのが、「藪」が何を意味しているのかという点だ。そのヒントとなるのが、先に引用したステートメントの一節だろう。



入場料800円を払って藪のなかへ。折坂悠太『薮IN』がもたらす混乱、モヤモヤの正体を考える

折坂の手書きによるステートメント



人の手の入った里山や雑木林ではなく、混沌かつ雑然とした藪。それを現代社会のメタファーと捉えることもできるだろうが、ここでの折坂は雑然とした藪のなかで「出会い直すこと」に重きを置いているようにも思える。



つまり、本展覧会における「藪」とは、意味や象徴ではなく、ひとつの体験の場として存在している。藪のなかで他者と、あるいは折坂と、『心理』という作品と出会い直すこと。もっといえば、意味やメッセージではなく、生身の身体と出会い直すということでもあるのかもしれない。



「藪」とは光さえ差し込まない鬱蒼とした世界のことであって、その意味で、「藪」と「心理」は同義語ともいえる。



私たちはたった140文字のツイートで理解し合うことなどできないはずなのに、キャッチコピー的な言葉を受け取っては、さも理解したような錯覚に陥ってしまう。それは「理解」ではなく「消費」に過ぎない。



単純化された意味や象徴を通じたコミュニケーションではなく、ややこしさを引き受けながら出会い直す。折坂は藪のなかからそんな関係性へと誘っているようにも見える。



2022年5月18日、DOMMUNEで放送された『薮IN』の開催記念番組において折坂は、本展覧会が音楽からこぼれ落ちるモヤモヤを表現したものであることを示唆していた。現在のライブでは「そのぶん明快なことをやっている」としたうえで、続けてこうした趣旨の発言をしている。

「自分は性質として怒りのエネルギーを誰かにぶつけられないところがあるんですね。そういうものを何かのかたちで出したいんだと思う。それをどうやって出していいのかわからなくて。政治や社会にぶつけるのか。最近、それでいいの? という局面が多くて」
- DOMMUNE『折坂悠太「薮IN」合評会 ~薮の今~』より

この発言に見られるある種の混乱は、『心理』リリース時のさまざまなインタビューにおいて折坂自身が表明していたことであり、作品の色彩にも表れていたものである。そうした混乱は解消されることなく、この展覧会にもそのまま受け継がれている。



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先のステートメントにおいて、折坂はこうした言葉を綴っている。

「ただ私は、薮に入って、そこに居てみます。人生に必要な過程だと思ってしまったからです。そういう勘はあります」
- 『折坂悠太展「薮IN」』のステートメントより

本展覧会は今後新たな音を鳴らすために必要なプロセスでもあることは間違いない。ただし、折坂のなかにある漠然としたモヤモヤを解消・発散するために企画されたわけではない。実際、藪のなかの折坂は、以前よりもさらに混乱しているようにも見える。



入場料800円を払って藪のなかへ。折坂悠太『薮IN』がもたらす混乱、モヤモヤの正体を考える

3月5日に新宿南口で行なわれた反戦デモイベント『全感覚祭 presents No War 0305』においても折坂は、「モヤモヤ」とする感覚について言及している。観客が抱いているかもしれない言葉にならないモヤモヤ、違和感、居心地の悪さは、自分とは必ずしも考え方やバックグラウンドが同じとは限らない他者とともに「ここにいる」と感じているからこそであり、むしろ「どんどんモヤモヤすればいいと思います」と自らの考えを述べていた



会場では折坂の初の著書『薮IN』が先行発売された。折坂はエッセイや論考を書き下ろしたほか、塩田正幸、坂口恭平、イ・ランも寄稿している。



ぼく個人の感覚でいえば、ここに収められた折坂書き下ろしの短編小説において「野生」「獣性」といったものがキーワードとなっていることに感じ入るものがあったし、特に冒頭の短編「薮IN」は作家としての折坂の力を感じさせる作品といえる。



入場料800円を払って藪のなかへ。折坂悠太『薮IN』がもたらす混乱、モヤモヤの正体を考える

折坂悠太『薮IN』書影(サイトで見る)



先のDOMMUNEの放送において折坂は「もっとヒリヒリした意見があるはずなんですね、展示にしても本にしても。『渋谷のど真ん中に藪があっておもしろかったです』という感想で本当にいいの? という気持ちがあります」といういくらか挑発的な言葉を残している。



その言葉に反応するならば、このレポートもありきたりな絶賛で締めるべきではないだろう。



なぜ折坂は音楽や言葉などさまざまな表現を通じ、混乱とモヤモヤを作品化しようとしているのだろうか。それでも歌い続けなくてはいけない。音を奏で続けないといけない。表現し続けないといけない。その切実な思いはどこからやってきて、どこに向けられているのだろうか。



本展は来場者の内なるものを解消する代わりに、そうやって無数の疑問と問いを与えてくれる。折坂の現在地点を生々しく示す展覧会である。



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